雪女との約束

うたう

雪女との約束

 カフェのテラス席に吹いた風が恵里の長い黒髪をなびかせた瞬間、あの人の面影と重なった気がして、僕ははっとした。

「どうかした?」と首を傾げた恵里に、僕は誤魔化すように「なにが?」と噛み合っているのだかいないのだかわからない返事をした。

 初恋の人に似ていると言われて、喜ぶ恋人はいない。そのくらいは女心に鈍い僕にだってわかる。正直に答えれば、恵里を不機嫌にさせるのは目に見えているし、あの人が何者であったのかを明かせば、ますます不快な思いをさせてしまうかもしれない。


 あの人と出会ったのは、僕が五歳の頃だ。盆に父方の祖父母のもとへ帰省したときだった。

 祖父母の家はのどかな田舎にあって、僕にとっては天国のようなところだった。家の近所には車では入っていけないような小高い山があって、その山の入口にあたる階段を昇っていくことは禁止されていたが、山に入らなくてもその辺で蝉は簡単に捕まえることができたし、カマキリや名前を覚えていない図鑑でしか見たことのない虫を捕まえることだって可能だった。

 虫とり網と虫籠を持って走り回っていたとき、僕は山の入口の階段を降りてきたあの人に出会ったのだ。すらりと背が高く、色白で、幼心にも僕は見惚れた。

 あの人は階段の脇に停めていた軽自動車に乗り込もうとしていた。だけど、僕の無遠慮な視線に気づき、僕のほうを振り返った。

「雪女?」

 夏の盛りに我ながらおかしなことを口走ったものだと思う。あの人だって額に玉のような汗を浮かべていたような気がする。だけど、あの人が振り向いた瞬間、確かに冷ややかな突風が吹き抜けたのだ。

 おそらくは沢を抜けてきた風にひんやりとしたものを感じただけだったのだろうが、たまたま吹いたその風は、僕にあの人が雪女であると誤認させるのに十分だった。

「私のことは誰にも話さないでね」

 そう言って、あの人はくすりと笑った。

 僕は誰にもあの人のことを話さなかった。怖かったからではなくて、秘密にしていたら、あの物語の主人公のようにまた出会えるのではないかと思ったからだった。

 結果、二年くらい経って僕はあの人を見た。

 テレビの画面の中にあの人の写真が映っていた。母に訊ねると、人を殺して逃げていた人がようやく警察に逮捕されたのだと教えてくれた。

 カットが山の映像に切り替わると、母は「やだ。おじいちゃんちの山じゃない。証拠品を埋めたって言ってるんだって。怖いわね」と驚いていた。

 証拠品は、凶器か被害者の身元を示すようなものか、おそらくそういった類のものだったのだろうと思う。当時の僕は証拠品という言葉の意味を知らなかった。けれど、証拠品という言葉が大層な意味を持っているだろうことは容易に感じ取った。

 罪悪感から、僕はあの人に会ったことを母に言えなかった。


「なにか隠してるでしょ?」

 恵里がアイスコーヒーのストローを指で弄びながら、僕の目をじっと見つめた。

 あの人のことを初恋の人だとするのは少し違う気がした。何分、幼かった日の出来事だ。恋がなにかも知らない歳だった。初恋の人というより、僕に影響を与えた人としたほうが正確かもしれない。

 僕の好みのタイプが細身で背の高い人であることも、色白な人であることも、あの人の影響だ。だけど、あの人を欲しているのでも、あの人の面影を追い求めているのでもない。あの日、単に僕の好みのタイプが決定づけられただけなのだ。意識していようがいまいが、恵里にも好みのタイプを決定づけるそうした瞬間があったはずである。

 だけど、このことを恵里に上手く説明できる気がしなかった。

「恵里のこと好きだなぁって改めて思っただけ」

 あの日、今どこで何をしているのかも知らないあの人とした約束を図らずも僕は破らずにいる。

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雪女との約束 うたう @kamatakamatari

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