はなさないで、と猫に言う

八百十三

第1話

  私、今野こんのぷーはメスの三毛猫である。

 もっと言うなら猫又である。

 旦那さんこと今野こんの春太郎はるたろうと、ママさんこと今野こんのゆうが交際を始める前から生きている。一人息子の夏生なつおぼっちゃんが産まれた時からその顔を知っている。

 ぼっちゃんの3歳の誕生日にちょうど自分も猫又になって、一緒に盛大にお祝いをされたのが懐かしく思えるくらいだ。

 そこからはママさんの家事や家の掃除を手伝いつつ、ぼっちゃんの遊び相手を務めてきた。今ではすっかりゲームの腕前も上達して、ぼっちゃんとは五分五分の勝負を繰り広げている。

 そんなある日、ぼっちゃんが小学校に上がってちょっとした頃の春の日。洗濯物を取り込んで畳んでいると、玄関の方でママさんとぼっちゃんが話す声が聞こえる。


「ナツ、駐車場から出ちゃダメよ! 他の人の車が動き出したらぶつからないようにどくのよ!」

「分かってる! 気をつけるから!」


 ママさんの声はどこか心配そうだ。ぼっちゃんは外に出ていくようだが、「駐車場から出てはいけない」とはどういうことだろう。アパートの駐車場の中だけで完結する何かが、あるのだろうか。

 小さく首を傾げていると、ママさんが私を呼んでくる。


「あ、ぷー子? ちょっといい?」

「はい、なんでしょう?」


 洗濯物を畳む手を止めて、玄関に向かっていく。そこにはいつもの服装のママさんと、頭に厚みのある帽子ヘルメットを被っているぼっちゃんがいた。

 苦笑しながらママさんが私に言う。


「ナツがこれから、こないだ買ったの練習をするの。付き合ってあげてくれない? 洗濯物たたむのは私がやるから」

「じてんしゃ……ですか?」


 ママさんの発した単語に私は首を傾げる。じてんしゃ。なんだそれは。聞いたことがある単語ではあるものの、実態はいまいち分かっていない。


「そう。ちょっと前に買ってあげたあれね。練習しないと乗れないようにならないけど、転んだところに車が来たりしたら危ないしね。ついてあげてほしいの」

「なるほど、承知しました!」


 ママさんのお願いを聞いて、私はびしっと背筋を伸ばして答えた。いまいち「じてんしゃ」が何なのか分かってはいないが、お手伝いならお手の物だ。ぼっちゃんの為ともあればなおさらだ。

 アパートの部屋を出て、ぼっちゃんの後をついていく。階段を降りながら、こちらを振り返ったぼっちゃんが申し訳無さそうな顔をした。


「ありがとう、ぷー子」

「とんでもない、ぼっちゃんの為ですから!」


 ぼっちゃんの言葉に私は首を振った。ぼっちゃんは私にとっても息子のようなものなのだ。息子のためなら何でもするのが親である。

 階段を降りて、階段下の空間へ。そこにいくつか並んでいる『じてんしゃ』の中に、ひときわ小さく真新しいそれがあった。

 車体には「こんの なつお」の名前が書かれている。これがぼっちゃんのものであることは一目瞭然だ。


「おぉー……これが、ぼっちゃんの『じてんしゃ』、ですか」

「えへへ、ピカピカでしょ」


 『じてんしゃ』に手をかけながら、ぼっちゃんが誇らしげに笑う。いつだって、新品のものを手に入れるのは嬉しいものだ。間違いない。私も新しいエプロンを貰った時は嬉しいからだ。

 と、『じてんしゃ』の後輪に括られていたチェーンを外しながら、ぼっちゃんが私に言う。


「じゃあ、これから乗るけど……ぷー子、お願い」


 ぼっちゃんが私を見つめる瞳には、不安の色が見えた。心配そうに、必死になって、ぼっちゃんが私に言葉をかけてきた。


「絶対、絶対に、!!」


 はなさないで。その言葉を聞いて私は目を見開いた。

 何故そんな事を言ってくるのか、と一瞬思ったが、ここは部屋の外。何気ないことだが、猫又になってから自宅から出るのはこれが初めてだ。

 ぼっちゃんがこれだけ強く言うのだから、外で猫又が喋っている姿を人に見られるのは良くないのかもしれない。そう思いながら私は頷いた。


「はなさない、ですか……分かりました! 絶対ので、ご安心ください!」

「絶対、絶対だよ! じゃあ、ここ支えてて」


 ぼっちゃんがさらに念を押すのに再度頷く。そうしたらあとは口をつぐんで、ぼっちゃんに指示された『じてんしゃ』の後輪の上、金属フレームの部分を掴んだ。ここをぐっと握れば、確かに支えることは出来るはずだ。

 ぼっちゃんが自転車を支える棒を蹴って跳ね上げる。そこからサドルにまたがって、恐る恐るペダルに足を乗せた。そこから、ぐっと両手両足に力を入れる。


「よーし……行くぞ!」


 気合を入れてから、ぼっちゃんが一気にペダルを踏み込んだ。途端に『じてんしゃ』がぐ、と前に動き出す。私も一緒に、車体を支えながら前に足を踏み出した。

 なるほど、メインの車輪が前後に二つ、後輪にくっついた車輪が二つ。左右方向にバランスを崩したら倒れてしまうわけだ。それは、ぼっちゃんも「支えてくれ」と言うはずだ。

 ぼっちゃんはどんどんペダルを踏んでは反対側のペダルを持ち上げていく。ぐいぐいと前に進む『じてんしゃ』。


「うぉぉぉぉーーー!!」


 気合を入れたぼっちゃんが両手で握ったハンドルを切る。ハンドルを切った方向にタイヤが向き、その方向に自転車も進んだ。ちょうど駐車場の出口部分を、なぞるように自転車は進んで今度は逆方向へ。

 立派だ。実に立派だ。転ぶことなく進んでいる。嬉しくて、私は思わず声を上げてしまった。


「ニャ! ニャニャニャ!」

「へ?」


 と、私の上げた声に驚いたのか、ぼっちゃんがこちらを振り向いた。その拍子にハンドルが大きく切られ、同時にタイヤも真横を向いてしまう。バランスを保てなくなった自転車が、駐車場の砂利の地面にばたんと倒れた。


「わわっ!?」


 ぼっちゃんの身体が横倒しになる。一緒になって『じてんしゃ』も倒れてしまった。頭に被った帽子ヘルメットのおかげで怪我はなさそうだが、折角の新品が汚れてしまった。


「ニャア……?」

「うぅ……っ、だ、大丈夫、だけど」


 心配になってぼっちゃんに寄り添うと、小さく頷きながらぼっちゃんは私の頭を撫でてくれた。だが、その表情は随分と不思議そうだ。

 そしてぼっちゃんが、心底から訳が分からない、といった顔つきで問いかけてくる。


「ぷー子、なんで?」

「ニャ? ……え?」


 ぼっちゃんの言葉に私は目を見開いた。だって、「話さないで」と言ったのは他ならぬぼっちゃんなのだ。

 私も私で理由がわからなくて、ぼっちゃんに問いかける。


「え、だってぼっちゃん、『はなさないで』って……だから極力ようにしていたんですけれど」

「え? ……ふふっ」


 私の発言にぼっちゃんが笑った。もう誰が見ても分かるくらいに笑った。

 何故笑うのか分からなくてあわあわしていると、ぼっちゃんがもう一度、私の頭を撫でて言う。


「違うよ、ぷー子。ってことだったんだよ」

「え? ……あ」


 ぼっちゃんの言葉に、ようやく私はハッとした。

 「話さないで」ではなく「離さないで」。ぼっちゃんは自転車の後ろの部分を、私に離すことがないようにと言ったのだ。

 勘違いに恥ずかしくなる。結局、言いつけどおりに離さないでいたのだから結果は問題がないのだが。尻尾がぶわっと膨らむのを感じながら、私はぼっちゃんに言葉をかけた。


「と、とにかく! 乗れるようになったじゃないですか! よかったです!」

「うん! でも、もうちょっと練習するぞ!」


 私の言葉にうなずいて、ぼっちゃんが自転車を起こす。その自転車の後ろを、私が改めて掴んで支える。

 そうしてまたもう一度、ぼっちゃんは自転車のペダルを踏み込んだ。今度は、間違えない。

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はなさないで、と猫に言う 八百十三 @HarutoK

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