第8話
スティックへ行って残りわずかな業務をこなしていると、人々から白い目で見られていることに気づいた。
あなただけなに普通に話しているのよ、という目だ。
もとに戻り冷静になってから改めて周りを見回すと、スティックの中は滅茶苦茶であった。
受電する新規以外の全てのお客様はいつの間にか機械的な口調になっており、どれだけ心呂が普通の言葉で話そうと、お客様はもとには戻らず、被害は拡大していた。
会社の中ですれ違う人全てがロボットに見え、言動はみな、一日を増すごとに酷くなっていく様子だった。
あの外国人のように、あるいは人が変わったかのようにテンションを高くして「イヤッハア!」と言いながらここにいる全ての人の頭を丸めた新聞や雑誌で叩いていけば治るのかもしれないと思ったが、ともすると犯罪になってしまいそうなのでやめておいた。
まったく生き辛い世の中である。
また浮いた存在になってしまった。
真島だけは親切に接してくれるが、縁はもう切れる。
最終日には既に木下の姿は見えず、代理が座っていた。
真島が聞いた噂を聞く限りでは、木下は他の部署に異動させられたらしい。
笑顔を見られたのもあれが最初で最後。それでもリストラではなく異動なのだから、正社員と非正規社員の違いをありありと感じた。近々社長がフロアの様子を見に来るようだが、もう関係ない。
最後の電話を、心をこめて取る。
「ア ハチ ハチ ナナ ヨン イチ イチ ゴ ニ」
「復唱致します……」
普通の口調といっても、結局は繰り返しである。
伝染したのは買い物という罠にはまった、あるいははめた側の範囲内で、人々の根底にある無意識が繋がってしまったのかもしれない、と思う。
お客様はオペレーターと人間として接しているという意識が表面上はあっても、あくまで届く品物のほうが重要であり、その媒体となる人間のことは百パーセントどうでもいいのである。だから機械でもいいのである。
そしてオペレーターも少なくともマニュアルどおりにオウム返しをしながら機械的に会話を進めていく。
そんな無意識が繋がって、今回のような現象が起きたというのもひとつの原理かもしれない。
人々の無意識はつながっていると提唱したのは誰だったか。
こうしたことを垣間見れば、人間はとうとう、無意識の中にロボットや機械を普遍的なものとして取り込んでしまったのだと思える。
そこには人間の機械化、という概念も含まれるのだろう。
壊れかけていたテレビを叩いて直していたという昭和の時代より、今は遥かに進歩してしまっているのだなあ、という感想を持つ。
業務を終えていろいろな人々に普通に挨拶をして回り、非正規社員用の社員証やらマニュアルやら借りていた諸々を返す。
会社を出ると解放された気持ちになった。一気に疲れがでて、ミルクが多めの甘いアイスココアが急に飲みたくなった。
そういえば、なぜ母は自分を心呂と名付けたのだろうか。
家に帰ってアイスココアを作り、訊ねてみる。
すると法子は微笑んだ。
「人と心を通わせられるように、よ。そういえば喋りかた、元に戻したのね。もう流行りは終わったの」
「治ったから」
「治った? え。あれ、わざとじゃなかったの」
法子は驚いた様子で両頬に手を当て、心呂を見つめる。
「そうです。そのために一日お休みを貰ったのでございます」
「あらあら、まあまあ」
法子はおっとりとした仕草で目を瞬かせ、続けて言う。
「でも、心はあったでしょ」
そういえば、言動がロボットになりかけている間でも、人の心というのは各々の中に流れていた気がする。
先輩や同僚との何気ない会話の中にも。笹島や笹川のやりとりの中にも。お客様との中にも。
そして、ロボットならばエキサイトしない。
つまりロボットとしての言動が覚醒したあの朝、エキサイトした時点で自分は紛れもなく人間だったのだということに気づいた。でもあのまま、ロボットでいたかったような気もする。わざとではなかったけれど少し楽しかった。
「うん」
法子はもしかすると、以前に思ったことの二番目、つまりものすごく懐の広く深い人間である、というところに該当するのかもしれない。
そう思うと、心呂と名付けられたのも悪くはないような気がしてきた。
それにしてもまた履歴書に書くことが増えてしまった。明日からの就職活動が思いやられる。
「コバンワ ニュス ノ ジカン ナリ マシタ」
美しい声が聞こえてテレビに目をやる。番組と番組の間に五分間だけ挟まれるニュースの女子アナウンサーがそんな口調で話しており、頭を直角にさげている。
テロップには「水沢直美」と名前が表示されていて、「あ」と思った。
「キョ ゴゴ ヨジ コロ……」
生放送なのにテレビの中から、そのアナウンサーに向けて怒号が響く。
心呂は「イヤッハア!」と叫んでいた。
「了」
ひとごころ 明(めい) @uminosora
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