第7話 大団円
「緊急避難」
というのは、
「急迫な危険・危難を避けるためにやむを得ず他者の権利を侵害したり危難を生じさせている物を破壊したりする行為であり、本来ならば法的責任を問われるところ、一定の条件の下にそれを免除されるものをいう」
のことである。
したがって、このお話の行為は、この緊急避難に当たり、殺人には当たらない。ただし、この男が人肉を食らうか食らわないか? という問題とは、一線を画していて、精神的に良心の呵責に苛まれるということと、どういう関係があるのかということが問題になってくるのであった。
さらに、この話を読んだ時、つかさは、
「最後に自殺をしたというのは、本当に、本人の意思だったのだろうか?」
ということも考えていた。
何かの自分でもよく分かっていない力が働いて、それで、自殺をしてしまったのではないかと考えるのだ。
というのも、この考えは今に始まったわけではなく、
「人間が自殺をするのは、本来は自分から死ぬ意思がなかった場合に限るのではないか?」
と考えていた。
本当に、自殺というものを考える人間がいて、実際に自殺を試みる人はいるが、
「人間は本来、自分で自分を殺すことは不可能だ」
という、極端な考えをつかさは持っていたのだ。
つまり、
「死を意識して、死のうとした人間は、死ぬことができず、自殺のように見える人は、本来は、その時に自殺をしようと思ったわけではない」
というものだ。
だが、心の中ではいつも思っていて、実際にかつて自殺を試みた人に限って、その現象が起こるというものだ。
この現象というのは、
「自殺菌」
という、
「菌が原因ではないか?」
と、つかさは考えていいた。
もちろん、つかさだけで考えたものではなく、以前何かの本を読んだ時、
「人は自殺をする原因の中に、自殺菌によるものというのがあるのかも知れない」
というのがあったのだ。
つまりは、死にたいと少しでも感じた人に、忍び寄ってくる菌であり、実際に、状況としては、
「自殺を試みても無理もない」
と自殺をする理由が存在する人にだけ伝染するものなので、見た目は、
「まさか菌によるものだなんて」
などということは分かるわけはない。
「木を隠すなら森の中」
まさしくその通りである。
だが、つかさは、さらにそこから気持ちを進化させ、
「自殺する人は、必ず、自殺菌というものが最後には助けないと、中途半端で終わってしまう」
という考え方だ。
というのも、
「もし、自殺を試みようとしても、中途半端に終わってしまったとすれば、そのせいで、後遺症が残ったり、下手をすれば、植物人間のようになってしまったりすれば、本当に最悪である」
と言えるだろう。
言い方に問題があるかも知れないが、
「死んでしまうのであれば、一思いに死なないと、苦しむのは自分である」
ということになる、
だから、人間が自分の意思で死のうとするのは無理があり、背中を押してくれる存在がなければ、自殺などありえないということなのだろう。
そして、自殺をする時というのは、
「覚悟がないのだから、本人にとってはあっという間のことであり、まわりから見れば、なぜ今なのか?」
と考えてしまうことだろう。
それを思うと、この
「自殺菌」
という菌は、
「本当は悪い菌なのではないのではないか?」
と考えるのであった。
死ぬという覚悟の背中を押してくれるものであり、それがただ、
「覚悟をしている時」
であるがどうかは別であるというものだ。
それもそうだろう、自殺菌に対しては、本人の意思が働いているわけではない。自殺をしようと思っている人の背中を押すだけということだからである。
そんなことを考えていると、
「自殺菌というのは、本当は悪いものではなく、人を死に至らしめるということが、悪いというのであれば、その存在は、必要悪だといえるのではないか?」
ということになると、思うのだった。
自殺をするのが、
「いい悪い」
の問題ではないという考え方があるのであれば、自分にとって、
「苦しまずに死ぬことができる」
という目的に対しては、一番有効であろう。
確かに、自分の意思で、覚悟を持っている時であれば、死に直面した時、
「楽に死ねる」
と思うのだろうが、
考えてみれば、覚悟は絶えず持っていて、それを自分が自ら行わないということであれば、本当に一思いに死ぬことができるというものである。
そんなことを考えていると、
「最近の私は、いろいろ頭の中で、妄想がいろいろ花開いているような気がするわ」
と思うようになっていることに気づいた。
すべての意識が、どこか中途半端なところで終わっているように思うのは、まるで、
「夢を見ていて、最後まで見たという記憶が残っていない」
というそんな時を思わせるのだった。
吊り橋だって、
「路傍の石」
だって、
「ドッペルゲンガー」
だって……。
ほんの一部であるが、自分の中の夢を経由して辿り着く感覚が、すべて、いいところまで発想が赴いているにも関わらず、中途半端に終わっているのだ。
つかさは最近、
「私が自殺をするなら、電車に飛び込みそうな気がするな」
と考えていた。
何と言っても、電車に飛び込むというのは、これほど理不尽な死というものはないということを自覚していた。
要するに、
「電車を止めた」
ということになり、本人が本懐を遂げ、死ぬことができたとしても、その賠償は家族に行く。
本来なら一番恩恵を受けなければいけないはずの乗客にはなんら還元はなく、その賠償金は、鉄道会社に行くのだ。
これほどの理不尽はないだろう。
それを考えると、つかさは、
「鉄道にだけは、飛び込みたくない」
と思っていた。
しかし、それでも、鉄道自殺は減らない。それが何を意味するのかということを考えると、
「死にたいと思っている人を、自殺菌が、鉄道に引き寄せるからではないか?」
ということであった。
「まさか、自殺菌は、鉄道会社の回し者?」
とも考えられるのだった。
確かに、鉄道会社ほど、極悪なものはなく、賠償金を残された家族に請求して、涼しい顔をしている。法律に守られているので、正当なものなのだ。
「まるで、やくざ顔負け」
といってもいいだろう。
となると、自殺菌を、
「必要悪だ」
と言ったのは、前言撤回ということになる。
「自殺菌ほど、弱肉強食の典型例はないだろう」
となると、自殺菌というものの正体は、昔からいわれている、
「死神」
のようなものなのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「鉄道会社の正体」
が、まるで、
「魑魅魍魎の類」
なのではないだろうか?
働いている連中がどこまで自分たちが悪に染まっているのか分かっていないだろうが、法律に守られているということで、
「いかに世の中から守られているか?」
ということを分かっているのだろうか?
その報いはいずれやってくるだろう。
「自殺菌というのも、いつまでも一所にとどまっているわけでもないだろう」
と考えると、
「何かの妖怪に似ていないだろうか?」
と考えるようになった。
「そうだ。座敷わらしではないか?」
とつかさは感じた。
「座敷わらしというのは、子供のような妖怪のことで、その妖怪が住み着いているところは、家が反映し、座敷わらしがいなくなったとたん、家が没落していく」
というものであった。
だから、
「座敷わらしというのは、怖い妖怪ではなく、神のごとく、敬って大切にしないといけないものだ」
ということであった。
だが、実際には、
「座敷わらしの存在はあくまでも迷信だ」
というのが、強いのではないだろうか?
座敷わらしのような、
「善良な妖怪」
が、信じられていないのだから、死神のような、鉄道会社に救う、
「自殺菌」
は、黒伝説とでもいうような形で、信じている人もいるだろうが、その発想すら思いつく人はほとんどいないことだろう。
それを考えると、つかさは、自分が不登校になっていた理由が分かった気がしたのだ。
別に勉強が嫌いでもない。
学校が嫌いでもない。
苛めを受けているわけでもない。
それらのことを考えると、つかさにとって、
「電車を使って学校に行かなければいけないのが怖い」
ということであった。
つかさには、電車のホームで、後ろから背中を押そうと、虎視眈々と狙っている、何かの姿が見えた。
それが、
「自殺菌というものの仮の姿ではないのだろうか?」
と思えてならなかったのだが、もし、學校に行けるとすれば、ある程度まで、ギリギリの精神状態にならないと無理なのかも知れない。それこそが、
「パーキンソンの法則」
といってもいいのかも知れない……。
( 完 )
つかさの頭の中 森本 晃次 @kakku
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