やってみなきゃわからない。
増田朋美
やってみなきゃわからない。
その日、加藤美里さんが、またがっかりした表情でアパートに帰ってきた。そうなることはわかっていたけど、なんだかつらそうな顔をしている彼女に、古郡真尋さんは、声もかけられなかった。代わりに、家政婦のような役目で手伝いに来ている、真尋さんのお母さんの、古郡睦子さんが、
「おかえりなさい。」
と、美里さんに言った。
「今日も、お仕事お疲れ様。ご飯もできてますから、どうぞ食べてください。」
睦子さんが、美里さんに声をかけたが、美里さんはつらそうである。もちろん、激しやすい性格の彼女だから、ちょっとつらいことが直ぐに顔に出てしまうのは、ある意味では仕方ないことだと思われたが、それでも、なんだかつらそうであることは疑いない。
「また何か言われたんですか?」
と、睦子さんが作ってあげたうどんを差し出しながら、美里さんに言った。
「ええ、まあ怒鳴ってきました。母が、あんまりにも、ダメダメって言うから。」
美里さんは、ちょっときつく言った。
「もう、なんでも私が欲しいものを持っていってしまう母です。いくらお金があったって、本当に欲しいものは手に入りませんね!」
睦子さんは、そういう美里さんに思わずごめんなさいと言おうとしたのであるが、それと同時に、インターフォンがなった。睦子さんが、誰かしらと、インターフォンを覗いてみると、美里さんのお母さんである、加藤理恵さんがそこに立っていた。睦子さんが、ドアを開けるのをためらうと、理恵さんはガチャンとドアを開けて入った。
「今日こそ、話をつけさせてもらいます!古郡さん、いえ、さくらさん!」
と、理恵さんはそういった。そして、台所を通り抜けて、真尋さんが横になっている、部屋まで来てしまった。美里さんがすぐ追いかけるが、理恵さんは、容赦なく、真尋さんに言った。
「真尋さん、あなたの事をちょっと調べさせてもらいました。」
「お母さんなんでそうやって何でも調べるの!」
美里さんがそう言うが、理恵さんのやり方は、わかっていた。従業員にたんまりお金を渡し、まるで不倫調査員のように、調査させたのだろう。そういうことができるのは、社長であり、権力がある、理恵さんだからである。他の人間にはできない。
「あなた、高等学校どころか、義務教育さえほとんど受けてないそうじゃありませんか!昨日、静岡の心臓の専門病院に行って、看護師をしている女性に聞きました。古郡真尋という少年が、何回も、入退院を繰り返していたと!」
「確かに、そのとおりです。」
真尋さんは、それを認めた。
「学校には、ほとんどいけませんでした。学校へ行くより、体を何とかするほうが先だと言われて。もちろん、高校にも行きたいと言いましたが、高校側も、これだけ重度の障害を持った人間を受け入れるのは、絶対にできないと言われ、受験させてもらえませんでした。」
「そんな事言わなくて良い。あなたは何も悪くないんだもの。それにあなたのお母さんだって、あなたを入院させるために、吉原で働いていたって、ちゃんとわかってるから!」
美里さんがそうがなり立てるが、理恵さんは、それでも納得しなかった。
「わかっているだけでは済まされません!私はね、大事に大事に育ててきた娘を、売春婦の子供でましてや不就学で学歴もなんにもない男に差し出すわけには行かないんですよ!それは同時に、私の顔に泥を塗ることにもなるのよ!」
「どうしてお母さんはそう自分勝手なの!お父さんと離婚して、会社をそんなに大きくさせたかった?それとも私が、可哀想だったから再婚しなかった?そんなもの、私のためには何もならなかったのよ!私のためって言っておきながら、実際には私の欲しいものをみんな持っていくじゃないの!今回もそうよ!一番ほしい人を、お母さんは私から持っていくつもりなのね!」
美里さんがそう言うと、
「お願いします。古郡さん。家の美里のためにも、今すぐここから立ち去ってください。もし、息子さんのお体が本当にお悪いのなら、私が売上の一部から、少々融通しても、構いませんよ!」
と理恵さんは言った。美里さんは、結局これか!という顔をした。確かに金持ちであることはわかっているけど、金持ちだからこんな幸せもうたくさん!と思ってしまうことさえある。美里さんにしてみれば、お父さんと離婚してもらいたくなかったし、お父さんのような人の代理の人がほしいと思っていたこともあったけど、お母さんは、美里のためだと言って、そんな事受け取ってくれなかった。それだけではない、私がほしいと思ったものは、何でも私から取っていくじゃないか!と美里さんは思うのであるが、こんな話をするよりも、もっと強い言葉で言ったほうが良いと思ったので、お母さんに向かってこういってしまった。
「ごめんね!お母さん!私、真尋についていきたいの。お母さんを傷つけるってわかってるけど、お母さんが私の事好きなのと同じくらい、あたしは真尋のことが好きだから!」
「そう、そんな事言うの!お母さんは、そんな事言う子に育てた覚えはないわ。そういうことなら、結婚を認めてあげるけれど、一つ条件がある。その寝たきりの男を、なんとかして、高校まで行かせなさい。少なくとも、家の会社に関わるんだったら、義務教育もろくに受けてないのではほとんど役にたちませんから!その言葉を叶えることができたなら、認めてあげます!」
お母さんの、理恵さんは声高らかに言った。これで、真尋さんも諦めてくれると思ったのだろうか。真尋さんも、睦子さんも、そうねという顔をしたが、美里さんは、こう言い返したのであった。
「わかりました!あたし、真尋を、高校に入学させてみせます!それで結婚を認めてくれるんだったらね!」
「そうね。そんな事、もう無理だってはっきりわかってるし、日本の法律では一度学校で失敗すると、二度と帰ってこれないわよ。さあ、もう結果はわかってるんだし、帰りましょう!」
理恵さんはそう言うが、
「帰りません。あたしは、真尋を学校に通わせて帰ります!」
と美里さんは言った。
「加藤社長、確かに僕は、」
真尋さんは、布団に起きて、理恵さんに反抗しようとしたが、やはり、顔をしかめてうずくまってしまうのであった。睦子さんが、直ぐに背中をなでてやるが、理恵さんは、ほらやっぱりという顔をした。
「無理なものは、無理なのよ。今の貴方にできることは、何もありません。」
理恵さんは、美里さんの手を引っ張って、力付くで、彼女を連れて帰ってしまった。真尋さんは、
「待ってください!これには色々と理由が、」
と弱々しく言うが、またうずくまってしまう。直ぐに睦子さんは、真尋さんに大丈夫と声を掛けるが、真尋さんは、答えなかった。
その日から、真尋さんは、何も喋らなくなってしまった。もう疲れ切ってしまったらしく、布団に横になったまま、ご飯も食べないし、何をする気力もなくなってしまったらしく、睦子さんが声をかけても、喋らなかった。
睦子さんは仕方なく、製鉄所へ相談に言った。製鉄所と言っても鉄を作るところではなく、訳アリの人に、勉強や仕事をするための部屋を貸し出す福祉施設である。そこを経営している福祉法人の理事長さんである、ジョチさんこと、曾我正輝さんであれば、なにか答えを知っているはずだと思った。
「こんにちは。あの、理事長さんいらっしゃいますか?」
利用者の一人がそれに応じた。こちらにお入りくださいと言って、睦子さんを、応接室の中に入れた。そして、椅子に座ってくださいといった。それと同時にジョチさんと杉ちゃんが、応接室に入ってきて、
「あれれえ。今日はお母さんだけ、こさせてもらったのか?」
「なにか、重大なことでもあったんでしょうか?」
と相次いで言った。
「ええ、そうなんです。実は、加藤さん、いや、加藤クリーニングの社長さんですが、その社長さんが、どうしても真尋と、美里さんの結婚を認めてくれないのです。もちろん、私のせいだということはわかります。確かに私は、吉原のソープランドで働いていましたし、それはいけないことであることもわかります。ですが、加藤社長は、どうしても真尋に、高校へ行かなければダメだと言うのです。真尋も、病気のために、学校へはほとんど通っていませんでした。いわゆる、義務教育未履修というわけで。それもあって、結婚は認めないと言うのですよね。」
睦子さんは、申し訳無さそうに言った。
「ちょっとまって。お前さんが、吉原で働いていたのが、真尋さんと美里さんが結婚できない理由になるのか?」
杉ちゃんが直ぐに言った。
「その前に、要点を整理しておきましょう。加藤社長が、真尋さんと美里さんの結婚を認めない理由は、2つあるのですね。第一に、あなたが吉原で働いていたこと。そして第二に、真尋さんが、義務教育を受けていなかったことが原因なわけですね。」
ジョチさんは、リーダーらしくそういう事を言った。
「じゃあ、この2つを乗り越えなければ、結婚にはたどり着けないと言うわけですね。しかし、どちらも、どちらかが柔らかい心を持たないと、解決できない問題でもありますよね。あなたが、吉原で働いていたのも、また事実だし、真尋さんが学校へ行けなかったというのもまた事実でもあるわけでしょう?」
「まあ、事実は、事実として、動かせないのがまた事実だからな。」
と、杉ちゃんが言った。
「そうなんです。それではいけないと思うのですが、だけど、加藤社長のような偉い人ですと、よほど大きなことでも無い限り、結婚を許可してくれることは無いのでは無いでしょうか?」
と、ジョチさんは直ぐに言った。
「何だ何だ。そういうことなら、ピンチはチャンスでもあるんだよ。それでは、学校に行って見たらどうだ?今の時代なら、学校に行っても良いんじゃないの?いじめられて、学校にいけなくなったとか、そういう子は、いっぱいいるよ。ここの製鉄所でも、そうやって、新しい学校に行って、やり直そうと言う利用者さんはたくさんいるしね。80歳で通信制高校に行ったと言う人も、さほど珍しいことじゃない。だから、加藤社長に学校へ行けと言われたんだったら、その通りに、学校へ行くようにすればいいだけじゃないか。事実なんて、意外に簡単に動けるもんさ。」
杉ちゃんがカラカラと笑っていった。
「そうなんでしょうか。でも、真尋を学校に行かせるなんて、逆立ちしてもできないですよ。だってあの子、布団から起きるだけで、うずくまって、座ってしまいますもの。」
と、睦子さんは言った。
「そうかも知れませんが、真尋さんも、学校に行かないで、寝たきりでいるというのは、ちょっと可哀想な気がします。それなら、杉ちゃんの言う通り、学校に行かせてあげるべきなのではないでしょうか。確かに、病気ではあると思いますが、でも教育は受けてもいいと思いますよ。例えば、夜間中学へ通ってみるとか。」
ジョチさんがそう提案するが、
「無理です。あの子は、きっと、通うこともできないと思います。それに、そういう夜間中学は、静岡には無いって聞きましたし。」
と、睦子さんは言った。
「いや、ありますよ。昨年にオープンした夜間中学もあります。それに、通信制の高校も近くにあります。それであれば、高校であっても、小学校からの読み書きのやり直しをすることもできます。」
と、ジョチさんは言った。
「そうかも知れないですけど、そういうところって、スクーリングとか、そういう行事があるんでしょう?あの子は、歩けませんし、長時間机の前に座っていることだって耐えられないでしょう。確かに、一度は行きたいところかもしれないですけど、それは返って、あの子の寿命を縮めてしまうことになるのではないでしょうか?」
睦子さんはそういったのであった。
「そうですね。でも、このケースは、摘便をして息を引き取った患者と同じことだと思うのですよ。確かに、安静にしていることは、真尋さんが安全であることは間違いありません。それに外へ出れば、いつでも危険がいっぱい待っているというのもまた事実です。しかしですね、ずっと安全なところにいることだけが、幸せということでは無いと思うんですよね。それに、真尋さんだって教育をうける権利があるわけですから、それは母親であっても、奪ってはならないでしょう。だから、ちょっと無理をさせてでも、真尋さんに教育を受けさせて上げるべきではないかと思いますね。」
ジョチさんはそう言うが、睦子さんはこう返すのだった。
「それは、机の上で考えている人が言う言葉であって、真尋のためにはなりません。だってそうじゃないですか。これ以上、病気が悪化したら、真尋自身がつらい思いをすることになるんです。それだけはさせたくありません。学校に行かせるなんて、そんなこと。」
「でも、学校によっては、車で迎えに来てくれる学校もあります。障害者対応のスクールバスがある学校もあります。だから、ちょっと工夫すれば彼もまた学校に行けるのではないかと思うのですが?」
ジョチさんがそう言うと、
「そうですが、私も、真尋も、高校へ行こうとして、学校に何度も交渉しましたが、いずれもダメでした。もう、私達も、これでは無理だって何度思わされたことか。それなら、もう無理だと思ったのですが?」
と、睦子さんは言った。
「それは、全日制の高校へ行ったからでしょう?通信制であれば、割と柔軟に対応してくれます。それは、僕もここの利用者さんを入れようとして訪問しましたので、よくわかります。もしかしたら、他人を頼るというのはあまり経験が無いのでしょうか?確かに、真尋さんの生命に関わる問題だと思いますので、なかなか他人を頼りたくないのはわかりますが、一度、任せてみるというのも必要だと思うのですけど?」
「ほんなら、こうすればいいじゃないか。」
ジョチさんがそう言うと、杉ちゃんが言った。
「この製鉄所では学校に通う子が多いが、その子達の話だと、学校に行かなくても、高卒資格を得させてくれる学校もあるらしいんだ。つまり、先生が家に来てくれて勉強を教えてくれるんだ。あとはオンラインで学習したり、DVD教材見て、学習する形式を取るんだって。その中には、がんセンターなどに入院しながら学んでいるやつもいる。どうだ。これで試してみないか?もし具体例がほしければ、利用者さんの誰かに聞いてみるよ。」
「つまりカバネスということですか?」
睦子さんは、杉ちゃんに聞いた。
「でも、そんなことやってくれる学校、どこにありますかね?」
確かに、こういう情報はなかなか入ってこないのも事実である。
「うーんそうだねえ。まあ、ここの利用者に聞いてみるのも手だが?」
杉ちゃんが言うと、
「この近くに、通信制の高校である、望月学園があります。そこの理事長に聞いてみましょうか?」
とジョチさんも言った。
「電話機がありますから、直ぐにかけられますよ。」
杉ちゃんが直ぐかけちまえといったので、ジョチさんは、直ぐに電話をかけてしまった。睦子さんがちょっとまってと言っても、無視してかけてしまった。
「もしもし、望月学園さんですか?実は、僕らの方から、一人家庭訪問学習を希望している男子生徒が居りますので、大至急面接をお願いします。」
ジョチさんはそう言って、その生徒の名前も住所も電話番号も話してしまい、直ぐに面接を決めてしまった。そして、話しがつきましたよと言って、受話器をおいた。
「多分、入学許可は降りると思いますが、もしされなかったときのために、弁護士を同席させましょうか?」
睦子さんは目が点になったような気持ちで、ジョチさんたちを見た。
「大丈夫ですよ。とりあえず、望月学園の理事長さんが、お宅へ来るはずですから、安心してください。」
「ありがとうございます。」
睦子さんは深々と頭を下げた。
「真尋になんて説明したら良いのやら。」
「何だあ、ただ、行けそうな学校が決まって、学校の先生が来てくれてお前さんに勉強を教えてやれるから、良かったなって素直に喜べばそれで良いのさ。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。
「しかし、本当に来てくれるのでしょうか?こういう教育業界の中には、悪質なものもありますし、私も、そういうのに騙されそうになったことも無いわけではないので。」
睦子さんが心配そうに言う。
「大丈夫です。望月学園について説明しますと、もともとは、望月理事長が、学校にいけなくなってしまった生徒さんに、国際バカロレアを受けさせるために創立した学校でして、生徒さんの中には、ホームスクーリングで国際バカロレアに合格した方もおられます。」
ちなみにバカロレアとは、フランス語で、高卒程度認定のことである。日本では、あまり注目されることのない資格であるが、ヨーロッパでは、高校に行っていなくても、たとえ独学であっても、大学へ受験できるようになるとして重視されているようだ。最近では、全世界で認定した大学の受験資格になる国際バカロレアという試験があって、少しづつそれも人気が出てきている。もっとも、日本で国際バカロレア合格者を受け入れる大学が少なすぎるのは問題だと思うけど、望月学園の理事長さんは、日本の大学を受験するより、海外の大学を受験したほうが、よほどためになると言って強引に受験させてしまったことがある。
「そうなんですか。でも、真尋には試験会場に行くことも無理だと思うのですが。」
「だから無理無理って言うな。それよりもやってみなきゃわからないに考えを変えろ。そうしなくちゃ、お前さんも、真尋さんも、絶対前には進まんぞ。」
睦子さんがそう言うと、杉ちゃんが言った。杉ちゃんに言われて、睦子さんは小さな声で、
「そ、そうですね。やってみなきゃわからない。それは確かにそうです。でも、真尋は、特別だから。」
「特別って、誰でも特別だよ、同じしようの人間が作り出されることは二度と無い。」
杉ちゃんはでかい声で笑った。
「でも、きっと救済する制度は、視野を広げれば色々あると思いますよ。」
ジョチさんはそういったのであった。
やってみなきゃわからない。 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます