第57話背を向ける者、内通する者

「公明。樊城に駐屯せよ。我らの背後を守れ」

 翌朝、父さんは徐将軍を呼んで命じた。

 樊城は、ここ荊州のさらに北にある。

 つまり、おれたちとは別行動をすることになったのだ。

「謹んでお引き受けいたします」

 徐将軍はうつろな目をしたまま、弱々しい声で答えた。そしてふらつきながら出ていった。

 そのあとで父さんは子廉将軍を呼んだ。

 おれはいつも父さんの後ろに控えているから、二人が何を話すのか、聞くことができた。

 子廉将軍の目は暗かった。

「昨日、公明がおまえを追っていったが」

「おれの幕舎に来た」

「何の用だ」

「馥をほめた」

「それだけか」

「家に戻らず何をしていたのかと聞かれた」

「何と答えたのだ」

「答えなかった」

「他には」

「出会った頃のおまえに戻ってくれと」

「おまえは何と答えたのだ」

「何も」

「先ほど公明を呼んだ。樊城に駐屯させる」

「なぜ」

「一つ目の理由はおれたちの背後を守るため。二つ目の理由はおまえから離すためだ」

「おれから離す?」

「今日、公明と会ったか」

「先ほどそこですれ違った」

「何か話したか」

「彼はおれを見なかった」

 父さんの顔つきが険しくなった。

「おれの前に出たあやつは死人のようだった。少なくともおまえの幕舎に向かうまではいつもと変わりなかった」

 子廉将軍の口調も険しくなる。

「孟徳兄。おれのせいだと言いたいのか」

「十のうち十とは言わぬ。しかし二か三くらいはおまえに責があるとおれは思う。公明はあれでは兵の指揮などできぬ。おれの将兵を使えぬようにする者をおれは許すことはできぬ」

 子廉将軍は父さんを睨んだ。

「おれをどうする気だ」

「おまえがこうなったのにはおれにも責がある」

「どういうことだ」

 父さんはひと呼吸おいてから、小さな子供にかけるような、やわらかい声で言った。

「おまえがおれに望むことは何だ」

 聞いて、子廉将軍は、声を立てて笑い出した。

 でもその顔は今にも泣きそうだった。

「できもしないことを言わないでくれ。おれはあなたに望むことなど何もない」

 震える声で言って、子廉将軍は出ていった。

 父さんは、肩を落とした。



 おれたちは荊州をあとにした。そして長江という、長い川に向かって進軍した。

 やはり父さんたちの背後を守るため、荊州の南郡の城には子孝将軍が駐屯することになった。

 父さんは荊州にいる劉表の家臣たちをすべて生かしておいて、これまで通り働かせた。

 劉表がもっていた水軍はすべて、父さんが手に入れた。劉表の家臣だった蔡瑁が指揮する水軍だ。

 長江の向こうには、孫権たちがいる。

 孫権たちから見て長江の北の岸に、父さんは陣を敷いた。

 江東に忍び込んでいた顧たちが戻ってきたのはそんな時だった。



 これから間者たちが報告を始める。

 おれは父さんの幕舎の周りを歩きながら、あやしいやつがいないかどうか見回っていた。

「暁雲!」

 目の前に馥がいた。甲冑をつけ、にこにこしている。

「馥!」

 おれたちは手と手を握りあった。

「どうしてここへ?」

「父上についてきたんだ」

 おれは声をひそめる。

「江東に忍び込んでいた間者がこれから報告するんだ」

「知ってる。父上が教えてくれた。ところで君は報告を聞く時どこにいるの?」

「丞相の後ろにいる」

「へえ。君、すごいんだね。孟徳のおじ上のそばにいるなんて」

 声を弾ませて言うと、馥は手を振った。

「じゃあ、ぼく、父上の所に行くね」

 おれも手を振り返した。

 幕舎に入り、父さんが座る椅子のななめ後ろに隠れる。

 父さんの左右には将軍がたや軍師がたが座る。

 その前に、銭、顧、あと五人の間者がひざまずいている。しゃべるのは銭がほとんどで、顧は、銭が頼んだ時だけつけ足していた。

 銭が言った。

「丞相は姪御様を、孫権の弟に嫁がせていらっしゃいましたな」

「その通りだ」

「江東では姪御様が何かとお手伝いくださいました。また孫権のいとこ孫国儀様からお手紙をお預かりしております」

 孫国儀。名は輔という。彼の父親は孫権の父、孫堅の兄だ。

 銭が差し出した手紙を父さんは受け取り、読み上げた。

「江東の地を保つことができるのは丞相だけでございます。それがしは江東を挙げて帰順いたすべく同志を集め孫権に降伏を勧めておるところでございます」

 程軍師が言う。

「その者、信用がおけましょうか。もしこの手紙が孫権の知るところとなればその者、消されますぞ」

 銭が程軍師に答える。

「そのため、江と石が残っております。しかしそれ以上にちと厄介なやつが出て参りました」

「厄介なやつだと」

 程軍師が聞き返すと、銭はうなずいた。

「魯粛と周瑜」

 父さんが銭に言う。

「その者らは我らと事を構えよと申しておるか」

「おっしゃる通りでございます」

「奉孝が予見した通りだ」

 ここにいるのはおれも含め、奉孝どのの最後の言葉を聞いた人たちばかりだ。

「戦は避けられない」

 元譲将軍が言うと、皆、静まり返った。



 父さんはおれを送り出した。

「戦が始まる。これからは馥のそばにいろ」

 今、幕舎にはおれと父さんしかいない。おれは父さんに聞いた。

「じゃあ、誰があんたを守るんだ」

 おれは生まれてから一度も父さんを「父さん」と呼んだことがない。間者として務め始めてからはなおさらだ。

「管がいる。あとは銭だ」

「わかった」

 きびすを返すと腕をつかまれた。

「何だよ」

 見ると、父さんは切なそうに、いとおしそうに、おれを見つめている。

 父さんが腕を放した。そして笑った。

「死ぬなよ」

 おれの胸はいっぱいになった。苦しくて、嬉しくて、声が出ない。

 おれは震えた。

 ――父さん。

 呼ぼうとした。声の代わりに涙が出た。

 見られたくなくて、おれは何も言わずに走り出た。

 子廉将軍の陣までおれは走り続けた。

 たどり着き、息を整えていると、後ろから尻を蹴飛ばされた。

 振り向くとそこには、腕組みをした顧が立っていた。



 参考にしたもの

 渡邉義浩 岩波ジュニアスタートブックス「三国志が好き!」(岩波書店)

 陳寿 裴松之 注 「正史 三国志」

 今鷹真 訳 3 魏書Ⅲ

 小南一郎 訳 6 呉書Ⅰ(ちくま学芸文庫)

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