第56話長坂坡の問答

 目の前に、父さんの後ろ姿が見える。馬に乗っている。

 その向こうには橋が一つあった。

 でもその橋は、半分から先が川に沈んでいる。

「あいつ、橋を兵に切り落とさせた」

 そばにいるおれたち側の兵が話し合っている。

 おれたちは詰めかけた歩兵たちの体の間から見ている。

 川向こうにいるのは武将だった。体が大きく、眉もひげも逆立っている。馬上に矛を横たえ、目を怒らせている。

 おれは思い出した。

 劉備のところに趙雲といた、あいつだ。

「張飛だ」

「張飛?」

「劉備の義理の弟だよ」

「すごく強そうだけど」

「強い」

 馥は真っ青になった。

「じゃあ、孟徳のおじ上が危ないじゃないか」

 張飛は大きな口を開けて、あたりをびりびりいわせるような大声で叫んだ。

「我は張益徳なり! 死ぬ覚悟で来い!」

 おれたちの周りにいた歩兵たちが一斉にあとずさる。

 そこには夏侯元譲将軍や徐公明将軍もいた。父さんについてきたのだ。将軍がたもさすがに顔が固くなっている。

 ただ一人、落ち着いているのが父さんだった。

 父さんが問う。

「劉備の命令か」

「答えられぬわ」

 怒鳴り声が答える。

 父さんがさらに問う。

「お主ひとりに我らを防がせておのれは逃げたのか」

「だから答えられぬと言っている」

 そこへ許仲康将軍と曹子孝将軍が馳せつけた。

 父さんが二人に何か話す。許将軍と子孝将軍が父さんにうなずく。

 父さんが下がった。

 許将軍と子孝将軍が並んで前に出る。

 許将軍が張飛に言った。

「民はすべて我らが保護した」

 張飛の体がぶるりと震えた。

 子孝将軍も大声を出す。

「かの者たちが捨ててきた田畑を、丞相がかの者たちにお返しになる」

 張飛が黙り込む。

 横たえた矛が、おれからもわかるくらい、がたがた震えている。

 父さんが許将軍と子孝将軍の前に進み出た。

 声を張り上げ、張飛にびしりと言った。

「慕ってついてきた民を置き去りにし、義弟ひとりに我ら一万の騎兵と相対させてまでおのれだけ逃げるとは、劉備とはなんと卑劣な男よ」

 矛が落ちかけ、張飛はあわてて握り直す。

 そして何も言わずに馬を返し、駆け去った。



 子廉将軍と妙才将軍の騎馬隊が合流した。

 おれと馥は夏侯恩どののなきがらを父さんに引き渡し終えたところだった。

 周りには元譲将軍や徐将軍、許将軍や子孝将軍がいる。

「ご苦労だった」

 父さんが優しく馥の肩に手を置いた。馥は嬉しそうな、でも恥ずかしそうな笑顔を父さんに見せた。

 ひざまずいたおれは、目を下にそらした。

 ――父さん、おれにはあんな顔、見せないのに。

「あれっ、馥!」

 妙才将軍が破顔して駆け寄る。

「妙才のおじ上」

 馥はびっくりした顔を妙才将軍に向けたが、あとから来た子廉将軍を見ると、顔がひきつった。

 子廉将軍は馥を見ると、立ち止まった。

 馥は子廉将軍の前に走り、頭を下げた。

「も――申し訳ございませんでした!」

 子廉将軍の視線がさ迷う。何て声をかけていいのかわからないみたいだ。

「子廉。馥は手柄を立てたぞ」

 父さんがゆっくりと子廉将軍に歩み寄った。

「手柄?」

 聞き返した子廉将軍に父さんは言った。

「夏侯恩のなきがらをつれ帰った」

 子廉将軍は、父さんから、頭を下げたままの馥に視線を戻す。

 父さんは馥に声をかけた。

「馥、顔を上げい」

 馥が父さんに顔と体を向けた。

 父さんは腰に吊るしていた剣をはずして、馥に手渡した。

 受け取った馥は剣を見ると、驚いて父さんに言った。

「これ――倚天の剣ではありませんか」

「そうだが」

「青釭の剣と対になる?」

「なるな」

「これを――私に?」

「ほうびだ」

「あ、あ……」

 馥は両手に乗せた剣を落としそうになりながら叫んだ。

「ありがとうございます!」

「よかったなぁ」

 妙才将軍がにこりと笑う。

 元譲将軍も許将軍も、子孝将軍も温かい笑顔だ。

 徐将軍は眉も目も口も動かさない。

 子廉将軍は馥に静かに言った。

「大切に扱え」

「はい!」

 倚天の剣を抱きしめて馥は答える。

「帰るぞ」

 言った子廉将軍に、元譲将軍が苦い顔で声をかけた。

「おい、子廉。もうちょっと馥をほめてやったらどうなんだ」

「行くぞ」

 答えず、子廉将軍は馥を促してその場をあとにした。元譲将軍がため息をつく。

 おれとすれ違う時、子廉将軍がそっと声をかけてくれた。

「礼を言う」

 おれは拱手した。

 馥がおれを振り返る。

 おれはあとについていくことはできない。そのまま顔を伏せていた。

 徐将軍がゆっくりと歩き出す。

「公明のあとをつけろ」

 父さんが徐将軍の背中を見たまま、おれに低い声で命じた。

 おれは徐将軍を追った。



 徐将軍は子廉将軍の幕舎に入った。

 おれは近づき、外側から聞き耳を立てる。

「公明どの、何用ですかな」

 子廉将軍の無愛想な声がする。

 徐将軍は書いた文を読み上げるように言う。

「子廉どの、ご子息、お若いにも関わらず落ち着いておられますな。末が楽しみです」

 子廉将軍はうっとうしそうに返す。

「さような話はあの場でなさればよかったではありませんか」

「拙者がしたい話はご子息のことではありません」

「では、何なのです」

「あなたのことです」

「それがしの?」

 徐将軍の口調がきつくなる。

「そうです」

 静かになった。

 ――父さんはなぜ、徐将軍をおれにつけさせたんだろう?

 日が落ちる。寒くなってきた。

 徐将軍の、泣いているような、震えた声がした。

「ご自宅にもお帰りにならず、どこで何をなさっていらしたのですか」

 子廉将軍は答えない。

 徐将軍は息をつまらせながら泣いている。

「戻ってくれ………戻ってくれ……おれと出会った頃のおまえに……」

 おれは寒いのを我慢しながら体を縮める。

 子廉将軍は何も言わない。

 徐将軍が幕舎から出る。

 顔には涙のあとが残り、目はうつろで、足どりは重かった。



 戻って一部始終を父さんに報告した。

 幕舎の中、父さんは口元に指を当て、眉間にしわを寄せて下を見た。

 しばらくそうしてから、おれに言った。

「これからも馥を守れ」

「承りました」

 おれはひれ伏した。

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