第55話語り手は暁雲へ。初めての友だち
「頼んだぞ、暁雲!」
子廉将軍の叫びを背中で聞いて、おれは駆けた。
おれに劉備側の騎兵が突っ込んでくる。
剣を抜いて打ち合っていたら間に合わない。
おれは冑のひもをほどいた。
目の前に突っ込んできた騎兵の顔に、脱いだ冑を叩きつける。
騎兵は鞍の上に仰向けに倒れ、馬から落ちた。
さらにおれは駆け抜ける。
騎兵が二騎、また向かってくる。
今度は甲を脱いで投げつける。
二人の騎兵の顔に当たった。彼らは前が見えない。まごまごしているうちに二人とも落馬する。
手甲を両方ともはずして、馬一頭分離れた騎兵に投げる。一つは顔に命中。もう一つははずれた。そのままおれは駆ける。
残っているのは足につけた防具だけだ。
騎兵がおれに槍を突き出してきた。
腿につけた防具を両方ともはずして槍の騎兵に投げる。
一つは槍に当たってはね返った。もう一つは騎兵の肩に当たった。
おれはやっと曹馥に追いついた。
曹馥は白馬の武将と剣で打ち合っている。
待てよ。あの武将、どこかで見たぞ。
――思い出した。奉孝どのに頼まれて、劉備が父さんを襲わない証拠を探しに行った時に見たんだ。
爽やかな美形。上背もありそうだ。
――ということは、趙雲か。
曹馥もかなりよく戦っている。
趙雲は途中で逃げた。
曹馥が馬の胴体を蹴ろうとしている。さてはまた追いかけるつもりでいるな。
おれは大声を張り上げた。
「若君様」
曹馥が振り返った。
黒目がちの切れ長の目。鼻筋が通っている。甘い顔立ちは親しみやすく、かわいげがある。
おれを見て、目を見開いた。
「……孟徳のおじ上?」
ああ、また間違えられた。
あいつにそっくりなせいで、おれは、おれを見た人にしょっちゅうびっくりされる。
でも曹馥は、はっとした。
「君は……誰?」
おれは馬を近づけた。
馬上で拱手し、頭を下げる。
「それがしは丞相の間者で、李と申します。若君様をお迎えに参りました」
「確かに私が曹馥です。ご苦労様です」
折り目正しく曹馥も拱手を返した。
おれは言った。
「戻りましょう。お父上が心配なさっておられます」
曹馥はとたんに泣きそうな顔になって下を向く。
「父上、お怒りだろうな……」
「そのようなことはございませぬ」
おれは一生懸命言葉をかける。
「若君様を声を嗄らして呼んでおられました」
「えっ。ほんとうですか」
目と口を丸くする。表情がころころ変わるやつだ。
おれは作り笑いでうなずく。
「ええ。必死に叫んでおられましたよ」
曹馥の眉間にしわが寄る。にわかには信じられないとでも言いたげだ。
おれはさらに作り笑いを浮かべて、なるべく優しく話しかけた。
「先ほど打ち合っておられた相手、あれは趙雲ですよ。劉備の家臣の中でも武勇に優れた武将です。その武将と互角に打ち合っておられましたね。そのこともそれがしからお父上にお話し申し上げます。それをお聞きになれば、お怒りになどなられぬはずです」
曹馥はおれの言葉に真剣に耳を傾けていた。
そして、おれの目をまっすぐに見て、言った。
「わかりました。戻ります」
おれはほっとして、思わず本心からほほえんでしまった。
「では、一緒に参りましょう」
曹馥がおれの顔をじいっと見つめている。
「どうなさいましたか、若君様?」
曹馥は我に返った。
周りに敵はいない。おれたちは並んで馬を歩ませた。
曹馥が遠慮がちに声をかけてきた。
「李――さん」
「李で結構です。それがしは丞相の間者ですが、丞相のご家来の方々の間者でもあります。どうぞ遠慮なくお使いください」
曹馥が手綱をぎゅっと握りしめる。
「あの……先ほどの李……あなたの笑顔を見ました。それがその……とても、何て言うか……」
曹馥のほっぺたは、真っ赤だ。
「す、素敵で」
おれは思わず曹馥を見返した。
曹馥もおれを見た。そして肩に力を入れて、叫ぶように言った。
「私のことは馥と呼んでください」
おれは面食らった。
まずいだろ、それは。
「それはいたしかねます。不敬になりますゆえ」
「いえっ」
曹馥はぶんぶんと首を横に振る。
「あっ、あなたと親しく話したいのです。だからあなたを名前で呼びたい。それで、です、ますを使わずに話したいのです。なぜかと言うと、私には友だちがいません。今までずっと一人でした。心を開ける人が身近にいなくて。理由はないのですけど、あなたとなら友だちになれる。そう感じたのです」
こんなことを言われたのは初めてだ。
今までずっと一人。
心を開ける人が身近にいない。
おれも、そうだった。
一緒に遊ぶ友だちはいた。でもそいつらに、おれの父さんが曹操だなんて打ち明けたことなんかない。そんなこと、できなかった。
友だちが欲しい。
わかり合える友だちが。
曹馥の望みは、おれの望みでもある。
おれは思わず口に出して考えてしまった。
「ええと……」
合戦場とは思えないくらい、今は静かだ。
足元に兵たちや馬が倒れている。彼らはぴくりとも動かない。
考えるおれを、曹馥は心配そうに見ている。
「では、こうしましょう」
おれは曹馥に笑って、言った。
「二人でいる時だけ、友だちとして話しましょう。いかがですか?」
曹馥の眉が上がり、目が輝いた。
「じゃあ、君のことは何て呼べばいい?」
「暁雲。名は昇というのだけど、あざなが暁雲だから」
「嬉しいな。ぼくのことも馥って呼んでね」
「わかった。馥」
「暁雲!」
おれたちは笑いあった。
こんな風に笑えたのは、久しぶりだった。
道々、馥とおれは他愛ない話をした。
生まれた年は?
どこで生まれた?
きょうだいはいる?
「暁雲はぼくより四つ年上なんだね」
「ああ」
「ちょうど生きていれば、ぼくの兄上も暁雲と同じ年だったのだなあ」
「亡くなったのかい」
「うん。赤ちゃんの時にね。名前は震」
そのことは間者を束ねる管から聞いて知っていた。でもおれは知らない体を装う。子廉将軍のお身内の話だからだ。
馥が前を見て、馬を止めた。
「どうした?」
「あれ――あの鎧」
馥が指さす先を見ると、きらびやかな鎧が見えた。そこに兵が群がっている。
馥が顔をゆがめる。
「夏侯恩だ」
父さんの随身だ。趙雲に倒された。
兵たちが夏侯恩どののなきがらから鎧を脱がそうとしている。きっと、売るつもりだろう。
どうする? 見てしまった。
「このまま放っておくわけにはいかないかな」
おれがつぶやくと、馥は難しい顔を向けた。
「ぼくはあいつが嫌いだ。でも、孟徳のおじ上から青釭の剣をいただくくらいのやつだった。だから――放っておけない」
「じゃあ、兵を追い払う?」
「追い払う」
馥は弓を構えた。
狙いをつけ、三本の矢を立て続けに射る。
兵が順番に倒れた。
気づいてこちらを見た兵がいる。そいつにも馥は矢を放った。そいつも倒れる。
おれたちは夏侯恩どのに向かって駆けた。
地面に下り立ち、おれは思わず声を上げた。
「すごいな」
馥が馬から下り、おれの隣に並ぶ。そして事もなげに言った。
「止まった的を射るのは簡単だからね」
倒れた兵は全員、額のど真ん中に矢を受けていたのだ。
幸い、鎧は脱がされていなかった。夏侯恩どのはぽっかりと目と口を開けたまま亡くなっていた。
見下ろしたまま、馥は言った。
「つれて帰ろう。嫌なやつだったけど、孟徳のおじ上の随身だったから」
おれの馬に夏侯恩どのを乗せ、馥の馬におれと馥が乗り、父さんたちが待つ本陣へ戻った。
途中で、おれたち側の軍勢が止まっていた。
「何かあったのかな」
馥の目が鋭くなる。
「見てくる」
「ぼくも行く」
おれたちは馬から下り、兵たちの間をすり抜けて前へ進んだ。
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