第54話語り手は曹馥へ。長坂坡で出会う
今、ぼくは、夏侯恩から青釭の剣を奪った白馬の武将を追いかけている。
夏侯恩なんかどうだっていい。
あんなへなちょこ剣で打ちかかり、さっさと落馬した。負けて当然だよ。最初から下手くそなんだから。
じゃあなんでぼくが白馬の武将を追いかけているのかって?
そんなの決まってるじゃないか。
あの青釭の剣はもとは、ぼくが尊敬する孟徳のおじ上の持ち物だからだ。
そのおじ上の剣を奪った相手だよ?
許せないよ。
ぼくにはもう、白馬の武将しか見えていない。
だから後ろで、父上と、ぼくを守れと孟徳のおじ上から命ぜられた間者がぼくを追いかけていることにも気づいていない。
――手柄を立てるんだ。
――そうすれば父上は、ぼくのことを認めてくれるかな。
その思いで、ぼくの頭と胸は、いっぱいだったんだ。
「なんだよ、その古くさい甲冑」
鼻で笑われた。
笑ったやつの名は夏侯恩。あざな? 知るもんか。孟徳のおじ上の随身――つまり側仕えだ。元譲のおじ上の遠縁にあたるらしい。
「見ろよこれ」
見せびらかしてきたのは、一振りの剣。持ち手にも鞘にもきれいな細工がほどこしてある。
ちょっとだけ鞘から抜いて見せた。
「青釭」と彫ってある。
夏侯恩はぼくに、どうだ、と、目を大きく開いて口元をゆがめた。変な顔。
「丞相がくださったのだ」
だからそれがどうしたっていうんだよ。
でも、そんな受け答え、ぼくはできない。
外では、いや、父上や母上の前だって、ぼくは「素直で明るい良い子」のふりをしているのだから。
夏侯恩はぼくの目の前に、「青釭」の文字をわざと近づけた。そして鞘に収め、嫌みたっぷりに言った。
「ついてないよな。初陣なのに甲冑もあつらえてもらえないなんて」
言い返そうとして、ぼくは口を引き結ぶ。
この甲冑は、孟徳のおじ上が董卓を討伐する義勇兵を挙げた時に、父上がつけていたものなんだ。
そしてぼくは、ようやく家に帰ってきた父上に、初陣したいと伝えた時のことを思い出した。
――許さん。
開口一番父上は言った。
ぼくは必死に言いつのった。
――昨年の巻狩りの場で、孟徳のおじ上は私に、おれと江東攻略に行くぞとおっしゃいました。それは私の望みでもあります。
そんな会話を毎晩のようにした。
それが終わったのは、父上が孟徳のおじ上に呼ばれてからだ。
――初陣を許す。
疲れきった顔で父上はぼくに言った。
あとで知ったことだけれど、ぼくの初陣は条件つきだった。
その条件とは、孟徳のおじ上の間者にぼくを守らせるというものだった。
その間者に、ぼくはこのあと、出会うことになる。
巻狩りでぼくは夏侯霸――妙才のおじ上の次男で、ぼくと同い年だ――と競いあった。
そこで勝ったのは、ぼくだ。
孟徳のおじ上は勝った方を江東攻略に伴うと決めていた。
でも、そこから先が、最悪だった。
夏侯霸は会うたびに舌打ちしてくる。もう口も聞かない。
これまで仲良く学問したり武芸の稽古をしていたのに。
それにこの夏侯恩なんかはぼくと会うたびに嫌みを言ってくる。
もう、みんなまとめて、矢で射殺してやりたい。
そんなことは口で言えないから、全部馬に話してきた。
馬はいい。
ぼくに嫌みを言わないから。
ぼくにいつも優しいまなざしを向けてくれるから。
ほんとうに欲しいのは――父上からのまなざし。
話を戻そう。
ぼくはまだ白馬の武将を追って駆けている。
思い出していたら、泣けてきた。
いやいや、泣いてる場合じゃないぞ。
ぼくは走る馬上で弓を構え矢をつがえた。
狙う。
射た。
白馬の武将の左脚に矢が突き立つ。
これで馬を操れない。
馬の胴体を脚で挟んで、歩け、走れと指示を出すからだ。
白馬が速度を落とした。
ぼくは剣を抜いた。
武将が振り向く。
ぼくは剣を打ち下ろした。
武将が受ける。
青釭の剣じゃないか。
ぼくの胸にめらめらと怒りが燃え上がる。
こいつは敵だ。
だからほんとうのぼくをさらけ出せる。思い切り叫んだ。
「孟徳のおじ上の剣を勝手に使うなッ!」
相手は爽やかな美形で、体格もよかった。ぼくよりは二十歳くらい年上に見える。
ぼくたちは十何合も刃を交える。
相手も斬らせないけれど、ぼくだってかすり傷ひとつついてない。
でも、負けないぞ。
ぼくは弓だけじゃないぞ。剣だって誰にも負けない。父上から殺されそうになりながら教わったからだ。父上は上半身裸になってぼくと真剣で打ち合った。
ところが相手はぼくの剣を弾き返すと、さっと馬首を返して駆け去った。
さらに追いすがろうとした時、ぼくは呼び止められた。
「若君様」
振り返ったぼくは、声を失った。
続きは、ぼくを呼び止めた彼に、語ってもらおう。
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