第58話敵の艦隊が来る

「李。何でおまえがここにいるんだよ」

 上品な顔立ちにいらつきをあらわにして、顧がおれを睨んだ。

 おれは顧と子廉将軍が毎晩会っていたという話を思い出す。

 ――おれが邪魔ってことか。

「丞相から、子廉将軍の若君様にお仕えせよと命ぜられたからだ」

 顧は疑わしげな目でおれを覗き込む。

「ほんとうか」

「ほんとうだ」

 しばらく無言で相対したあと、くるりと背を向け、顧は歩き出した。

「ついてこい」

 行った先は子廉将軍の幕舎だった。

 子廉将軍は顧を見ても顔色ひとつ変えなかった。将軍の隣に馥が立っている。

 将軍と顧の手前、おれはあえて馥を見ないようにした。

 おれは目を左右に走らせる。寝台が二つある。

 ――子廉将軍と馥はこの幕舎で寝泊まりしているのか。

 おれたちは揃ってひざまずく。顧が言った。

「我ら、将軍と若君様のもとで務めまする。特に李は、丞相より、若君様のそば近くお仕えせよと仰せつかっておりまする」

 子廉将軍は立ったまま応じた。

「あいわかった。下がれ」

 幕舎を出て、二人で長江を目の下にする林の中に場所を移す。

 見えるのは川だけじゃない。

 荊州の水軍の大きな船がびっしり寄り集まっている。

 見下ろし、顧がつぶやいた。

「そのうちにどんぱちが始まるぜ」

「江東側が攻めてくるのか」

「ああ。やつらは早くおれたちを追い出したいからな。特に周瑜は船いくさが大得意だ。踏んでる場数が違う。荊州の連中なんかすぐにやられるさ」

「陸上からも攻めてくる?」

「それもあるな。だからどの将軍がたの陣も守りが固い。さすが丞相だ」

 顧はおれに目だけを向けた。

「おまえ、知ってるんだろ」

「何を」

「しらばっくれるな。おれと子廉将軍のことだよ」

 おれは答えなかった。確かに顧と子廉将軍の仲は間者なら皆知っている。でも誰もあえて口にしない。

 顧は腕組みをして、憎々しげに口をゆがめた。

「寝台が二つあったよな。息子と同じ屋根の下で寝てるってことだ。『父上』をしておられるってことだな」

 言って顧はおれに向き直る。

「そのうちにまた江東側に入り込むことになりそうだ」

 いきなり話が変わった。おれはついていくのに精一杯だ。

「それは丞相の命令なのか」

「おれの勘だ。どんぱちはこのあと必ずある。江東側が、荊州の水軍がどの程度動けるかを見るためだ。しかし大がかりな戦はそう何度もしかけられない。だからお互いに、いかに相手をだましうちするかにかけてくる。たとえば、降伏すると見せかけて一斉に攻め寄せるとか」

「周瑜ってやつが船いくさが得意なら、船いくさで勝負をかけてくるのじゃないか」

「それはないな」

「なぜだ」

「今年はいやに寒い。下手すると長江も凍る。そうなったら船は出せない。それに風だ。おれたちは風上にいる。周瑜たちは風下だから船が進むには不利になる。だから船いくさの他にも、勝てる方法をとりたいのさ」

 確かにおれたちの後ろから、冷たい風が吹きつけてくる。

 おれは葉っぱが風に揺れるのを見上げた。

「この風、いつもこの向きなのか」

 顧が目を丸くした。

「おまえ、気づいたのか」

「北では、いろんな方から風が吹く」

「天気は毎年変わる。おれが江東で過ごした最後の年には、一度だけ、東南から風が吹いた。初めてだったから覚えている」

「風の話、報告の時にはなかった」

「今年どうなるか裏をとっていない。裏をとっていない話は上げられない」

 その時、川向こうで波が立った。

 顧の顔色が変わる。

「李ッ、子廉将軍に報告だ! 敵の艦隊が来る」

「おうっ」

 おれたちは走った。



 蔡瑁が率いる荊州の水軍が、江東側の艦隊に向かっていく。

 おれたち側の将軍がたで船に乗り込んでいるのは、于文則将軍と許将軍、張文遠将軍だ。

 おれと顧は船着き場から見守る。

 子廉将軍と馥は父さんの隣にいる。

 大きな船が長江でぶつかる。

 叫び声や金属音が、だいぶ離れたおれたち側まで聞こえる。

「蔡瑁が負けるな」

 顧が平然と言い放つ。

「見ろよ。突っ込みすぎだ」

 そんなことを言われても、みんな似たような船だ。おれには正直わからない。

「早く引き揚げろよ」

 顧はいらいらしている。

 しばらくすると、船がおれたち側に引き揚げてきた。

 相手側も引き揚げていく。

 おれは思わず声を上げた。

「ひどい」

 蔡瑁率いる荊州の水軍は、帆が破れ、柱には矢が刺さり、船はあちこち壊されていた。

 怪我をした兵たちが船の上で倒れて、うなっている。

「言わんこっちゃない。だましうちしかなくなった」

 顧はすたすたと歩き去っていった。

 おれはしばらくその場から動けなかった。

 勝てるわけがない。

 だましうちといっても、おれたち側がだまされたらどうなるんだ?

 どうするんだ、父さん?

「暁雲」

 はっとして振り向く。

 馥と子廉将軍がいた。

 あわててひざまずこうとするおれに、子廉将軍は静かに言った。

「話がある」

 おれは馥を見る。

 馥は、真剣なまなざしを返してきた。

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