第48話語り手は李昇へ。間者・李暁雲、鄴攻略に従軍す

 おれと母さんは許昌の通りを並んで歩いている。

 今は、建安九年(204)。

 おれは、数えで十四歳になっていた。

 母さんは胸に包みを持っている。

 これから母さんは、曹子廉将軍の邸に務めに行く。

 そのわけをおれに話してくれた。

「子廉さまのお嬢さまが病で寝込んでね。看てあげていた夫人さまも具合がわるくなったのだって。だから今日だけ行ってくれと、お父さんから頼まれたの」

 お父さん。

 母さんの好きな「旦那さま」。

 でもおれは大嫌いな「助平親父」。

 つまり、曹操のことだ。

「昇は今日、顔さんに呼ばれているんだよね?」

「うん。ご家来衆の顔と名前を正しく言えるか、確かめるのだって」

 顔は、間者だ。変装したり、似顔絵を描いたりするのが、すごくうまい。

 間者同士では、年に関係なく名字で呼び捨てにするし、「です」「ます」は使わない習いだ。

 母さんが寂しそうな顔をする。

「どうしたの」

「うらやましい」

「何が」

「昇や子廉さまは男だから、いつもお父さんと一緒にいられるでしょう? 母さんには、できない」

「いつもあいつは、母さんに会いに来ているじゃないか」

「お父さんがいちばん辛い時にそばにいてあげられるのが、昇や子廉さまなのだよ」

「母さんはあいつがいればいいのだろ」

「そんなことはないよ」

 やけに真面目に言うものだから、おれは母さんの顔を見返した。

 おれはもう、頭一つぶん、母さんの背丈を追い越している。

 それにおれは、あいつに、顔も体つきも、それに声も、そっくりになってきている。

 母さんは立ち止まり、おれの目を見つめる。

「母さんは昇がいちばん好きだよ」

 おれの頭から、母さんに伝えたい言葉がみんな、出ていってしまった。

 母さんはそんなおれに優しくほほえむと、行こう、と言って歩き出す。

 子廉将軍の邸の前で、おれは母さんに言った。

「いってらっしゃい」

「昇も気をつけてね」

「ここに戻ればいい?」

「うん。子廉将軍の夫人さまも昇が来ることはご存じだから、門番さんに声をかけてね」

「わかった」

 言っておれは役所に向かう。

 でも、途中で引き返した。母さんが心配だ。

 白さんから教わったやり方で塀に飛び乗る。

 そっと中をうかがう。

 母さんと、子廉将軍の夫人さまが向かい合っている。

「初めてお目にかかります。李氏と申します」

「夫から聞いておりますよ。洛陽で勤めていた時分、妹のように接していたと話していました。今日はよろしくお願いしますね」

 優しい、温かな声だ。

 顔が言っていたっけ。

 ――まず声で、そいつがどんなやつかはわかる。いいやつか、悪いやつか、信用できるかできないか。理屈じゃあねえ。声は、嘘をつけねえんだ。

 それならば、子廉将軍の夫人さま――梁氏というんだ――は、いい人だ。

 おれは安心した。

 塀から飛び下り、おれは役所へ走った。



「さあ、李。始めるぞ」

 顔が柱の陰でおれに言う。

 軍議の真っ最中だ。

 あいつがきりっとした顔で座ってやがる。

 あいつと将軍がたは甲冑をつけている。

 軍師がたは平服だ。

「司空の姓名と、あざなを答えてみな」

「曹操、あざなは孟徳」

「そうだ。司空の隣に立っているのは?」

「許褚。あざなは仲康」

「よし。じゃあ、司空の前にいるお方から順に言ってみな」

「夏侯惇、あざなは元譲」

「当たり」

「夏侯淵、あざなは妙才」

「はい次」

「曹仁、あざなは子孝」

「いいぞ」

「曹洪。あざなは子廉」

「次は新しく加わったお方だぞ。覚えてるか?」

 おれは目をこらす。

「張郃。あざなは儁乂」

「向かいに移れ。後ろ姿だがな」

「荀彧。あざなは文若」

「すげえな」

「郭嘉、あざなは奉孝。賈詡、あざなは文和。董昭、あざなは公仁」

「じゃあ、ここにいないのは誰だ?」

 息を吸い込み、おれは答えた。

「于禁、徐晃、荀攸、程昱、張繍」

「ご名答! 何をしている?」

「鄴を攻撃している」

 顔が唇に皮肉な笑いを浮かべる。

「一人だけはずれだ。何日か前、張繍は運河に浮いていたぜ」

「なんで」

「若様がちくりと言ったみたいだぜ。『どうしてあなたは私の兄を死に追いやったのに、のうのうと生きておられるのですか』とね」

 若様。

 あいつの息子だ。曹丕、あざなは子桓。卞夫人が最初に産んだ子で、おれの四つ上。

 顔は低い声でつけ加える。

「ま、噂だがな」

「若様のいい噂なんて聞いたことがないぜ」

「さ、これからの話をよく聞いておくんだ。これからの務めに関わることだからな」

 また間者として、戦に行くのだろうか。

 母さんと離れるのは、いやだな。

 でもきっと、あいつはおれを間者として使う。

 なぜならおれは、あいつから、あざなをもらってしまったからだ。



 あいつがこの前うちに来た時、おれはいつものように失礼にならないていどに会釈をし、寝る部屋に引っ込もうとした。

 ところがあいつはおれの前に立つと、告げた。

「おまえにあざなをやる」

「あざな?」

「おとなになった時につける呼び名だ」

「おれはまだ数えで十四だよ」

「もう立派な男だろう」

 おれは母さんを見る。

 母さんはおれたちを心配そうに見つめている。

「暁雲」

 あいつのやたらといい声が部屋に響いた。

「おまえが生まれた時、東の空が美しく染まっていたのをおれはよく覚えている。だから暁雲だ。名の昇は『日がのぼる』という意味合いだから、名との関わりも自然だろう」

 おれがどんなふうに返事をしていいのかわからなくて突っ立っていると、母さんがおれとあいつのそばに来た。

 母さんは、何かをあきらめたような、覚悟したような顔をしている。

「暁雲。これからはそう呼ぶ」

「はい」

 あいつはさらに言った。

「またおまえに、務めを頼むことになりそうだ。その時は改めて声をかける」

 おとなの男になったから、おとなと同じ務めをする。つまり間者として働けと言っているのだ。

「わかりました」

 答えるおれを、母さんは、じっと見ていた。



「おい。今の、聞いていたか」

 顔にひじでつつかれ、おれは我に返った。

「ごめん」

「袁紹の家来どもが陣取っている鄴があと少しで落ちそうなのだとさ」

「その手伝いが、今度の務めなのか?」

「ああ。あとは聞いてみな」

 軍議におれは目を向ける。

 訴えているのは、優しげな顔立ちの、三十四、五歳の男の人だ。確か、郭嘉。軍師。

「鄴を守る部将の一人が内応を申し出ております。こやつを使えば鄴は我々の物です」

 あいつが尋ねる。

「どう使う」

「門を開かせ、我々の軍を入れさせます」

「城内で戦うということか」

「ええ。夜襲で相手の虚を衝くのです」

「代償は何だ」

「列侯にでも取り立てておやりになればよろしいでしょう」

「よし」

 あいつが立ち上がる。

 その場にいた将軍や軍師たちも揃って立つ。

 あいつは静かに告げた。

「鄴の攻撃に残してきた者たちに、これ以上苦労はさせぬ」

 そして皆、甲冑をがちゃがちゃと鳴らして、出ていった。

「おれたちも行くぞ。帰って支度をしてこい」

「わかった」

 おれは母さんが待つ、子廉将軍の邸に戻った。



 おれと母さんは子廉将軍の邸で落ち合い、家に帰った。

 白さんと姫さん、母さんと卓を囲んでいる時、母さんがおれたちに言った。

「病がはやっているみたいです。高い熱が出るそうです」

「気をつけようね」

 姫さんがうなずく。

 おれは母さんの目を見て、伝える。

「また、父さんと出かけてくるよ」

 役目がら、行き先や、何をするかは家族にも告げない決まりだ。

 母さんの顔が、ゆっくりと、色を失う。

 白さんはおれに言った。

「顔と組むそうだね。あいつは面倒見がいい。親身になって、教えてくれるよ」

「がんばってきます」

「生きて帰ればそれでいいのだよ、昇」

 白さんが穏やかに言う。

 姫さんは母さんと肩を寄せ合っている。

 姫さんが言った。

「待ってるからね」

「必ず帰ります」

 母さんがおれに体を寄せた。

 おれは母さんを見る。

「いってきます」

 母さんは、一言、呼んだ。

「昇」

 おれは母さんと固く抱き合った。



 鄴は許昌の北にある。

 夜、手はずどおり、東門が静かに開かれた。

 あいつと郭軍師が率いる歩兵たちにおれと顔も混じって入り込む。

 その前に郭軍師は、おれと顔に、細長い包みを一本ずつ、火打ち石を一個ずつ手渡した。

「城壁に上がったら、これに火をつけて投げ上げておくれ」

 門をくぐったとたん、歩兵が走り出した。

 敵側の見張りは少なかった。音を立てないように短剣で突いて殺されていく。

 おれと顔は城壁の中の階段を駆け上がる。

 兵がおれたちを見る。

 気づかれた。

 おれと顔は短剣の切っ先を相手に向け、体当たりした。

 それぞれ、相手の腹に刺さる。

「離れろ」

 顔に言われ、おれは短剣を抜いて飛びのく。

 倒れた敵兵を踏んづけておれたちは、懐から細長い包みを出した。

 顔が火打ち石で火をつけ、おれが投げ上げる。

 ぱーんと大きな音がして、明るい火がはじけた。

 出陣太鼓が鳴る。

 どん、どん、どん、どん、という音に合わせて、騎馬隊が城壁に押し寄せてきた。

 大きな四角い動く物が、何十個も近づいてくる。

「射てえーい」

 のんびりした声。張儁乂将軍だ。

 続いて、矢が、雨のように降ってきた。

 おれと顔は床に伏せる。

 這って城壁から降りる階段までたどりつく。

 下からは叫び声や、刃がきんきんと打ち合う音がひっきりなしにする。

 外に出ようとすると、どかっと、大きな石が放り込まれた。

 それも一個じゃない。何個も落ちてくる。そのたびに歩兵がつぶされる。

 袁紹を攻める時に使った、石を投げる道具も使っているってことだ。

 夜が明けた。

 城壁に、「曹」の旗が、何十本もひるがえった。



 おれは無事に、母さん、白さん、姫さんのもとへ帰ってくることができた。

 帰ってきた将軍がたもいるけど、あいつは鄴に残っている。

 それからまた、おれは母さんたちと、暮らしていくはずだった。

 相変わらず病ははやっていて、おれの友だちやその家族もかかった。

 中には、死んでしまう人もいた。

 年は、関係なかった。



 そして、いちばん起きて欲しくないことが起きてしまったんだ。

 母さんが、母さんだけが、はやり病に襲われた。

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