第49話母さんは逝った

 おれは母さんを看病している。

 ここは母さんの寝る部屋。

 寝台で母さんは、横になっている。

 その脇で、姫さんが小さな石のすり鉢で一生懸命に何かをすりつぶしている。

 姫さんは、毒を作るのと、作ったその毒を標的に飲ませるのを得意としている。

 でも今作っているのは、母さんに飲ませる薬だ。

 母さんは、熱がずっと下がらない。

 許昌を襲うはやり病のせいだ。

「さ、できたよ」

 姫さんがすりつぶした薬草を、お湯で湿らせたさじの先で少しだけすくう。

「昇、母さんを起こしておくれ」

「わかった」

 おれは母さんを抱き起こす。

 母さんの体は、熱かった。

「母さん。薬だよ。姫さんが、作ってくれたよ」

 呼びかけても、母さんは答えない。

 開いた目は、おれたちに向かない。

「李氏。薬だよ。熱冷まし。さ、口に入れるよ」

 さじの先を、小さな紅い唇に触れさせる。

 なんとか口の中に薬草を入れたけれど、全部は入らなかった。

 おれは母さんを横たえる。

 母さんはまぶたを閉じた。

 姫さんは目を閉じ、首を横に力なく振った。

 母さんは熱を出してから、一言もしゃべらない。

 あいつは、おれの父さんは、つまり司空の曹操は今、攻め落としたばかりの鄴にいる。



「昇。代わるよ」

 おれがまだ母さんのそばにいると、白さんが来てくれた。

 もう外は暗い。

 白さんが持ってきたろうそくの灯りが、ふわりと部屋の中を照らした。

「寝てきなさい」

「うん」

 二人で眠る母さんを見る。

「いよいよ容態が危なくなれば、若に知らせなければならないね」

 白さんがつぶやいた。

「その時はおれが行くよ」

「私が行くよ。そばにいたいのじゃないか」

「白さん、腰がよくないって言ってたから」

「姫に痛み止めを作ってもらったから、それを飲めば行って帰って来られるさ」

「けっこう遠かったよ、鄴は」

「じゃあ、昇が行くかい」

「うん。許昌の東門が崩れ落ちそうですって言えばいいのだよね」

「そうだよ。さ、寝ておいで」

「うん。おやすみなさい」

 おれは母屋に行くと、いつも寝る部屋で布団にくるまった。

 すぐに眠れた。



 夢を見ていた。

 三、四歳くらいのおれ、母さん、そしてあいつが笑っている。

 行ったことはないけどそこは、洛陽だった。

 まだ、先の帝が生きていた頃らしかった。

 夢でおれたちは、三人で暮らしていた。

 あいつがおれのわきの下を手で支えて、「たかいたかい」をする。

 ――とうさん!

 おれが笑って呼びかけると、あいつも嬉しそうに笑った。

 母さんはおれたちを見てほほえむ。

 とても幸せそうな笑顔だった。



 揺り起こされた。

 いつも落ち着いている白さんが青ざめている。

「李氏がおかしいんだ。うわごとが止まらない」

 おれは走った。

 あとから白さん、姫さんが来る。

 母さんは目を開いていた。

 顔を上に向けたまま、小さな声でしゃべり続けている。

「黄色い頭の人たちが来るよ……逃げよう……」

 姫さんが顔をおおって泣き出した。

「李氏は子供の頃、家が黄巾賊に襲われたって言ってた……」

 母さんの声はまだ続く。

「燃えてる……畑が燃えてるよ……」

 おれは白さんに言った。

「鄴に行ってくる」

 白さんがおれを厳しくさえぎる。

「まだ夜が明けていない」

 聞かず、おれは飛び出した。

 母屋の、馬をつないである土間に駆け込む。

 まだ暗かったけれど、いつも乗ってる馬を引き出した。

 そして鄴に向かった。



 鄴に着いた。

 鄴の街を治める人が務めに使う邸に入る。

 間者だけが使う通り道がある。それを使ってあいつがいる部屋まで走る。

 壁に体を隠して、覗く。

 ――いた。

 あいつだけじゃない。

 郭奉孝軍師と、曹子廉将軍も一緒だ。

 三人は楽しそうに話していた。

「李氏に会ったそうだな」

「ああ。変わっていなかったな。梁氏もすっかりあいつが気に入って、また来て欲しいと話していたよ」

「では、また行かせよう」

「私も会ってみたいなぁ」

「だめだ」

「なぜです、我が君?」

「おまえのことだ。どうせ手を出す」

「いやだなぁ。いかに私が色男とはいえ、我が君の大切な方にそんなことはいたしませんよ」

 おれは思い切って部屋に飛び込んだ。

「申し上げます」

 言って平伏する。

 足音が近づいてきた。衣ずれの音がする。

「我が君の息子さんだね」

 郭軍師のやわらかな声が上から聞こえた。

「はい」

「この間はご苦労様。君たちのおかげでこの街を落とせたのだよ。ちょうど君の母上の話をしていたところだよ。何か用があるのかい」

 顔を上げ、おれは声を張った。

「許昌の東門が崩れ落ちそうです」

 郭軍師が、その向こうであいつと子廉将軍が、顔色を変える。

 その言葉は、母さんの身に何かあった時の符丁だった。

 あいつは固まっている。

「孟徳兄、すぐに行ってやれ」

 子廉将軍が強く言った。

「そうなさいませ。お帰りは何日先になっても構いませんから」

 郭軍師も勧める。

 あいつがおれの前に来て、膝をついた。

 おれを見る顔は血の気がなかった。

「行くぞ」



「李氏!」

 寝台にかじりつき、あいつが叫んだ。

 白さんと姫さんが涙をこらえている。

 母さんが、おれたちに目を向けないままだった母さんが、あいつに顔を向ける。

 うわごとは止んでいた。

 母さんはしっかりした声で言った。

「旦那さま」

 あいつが母さんの頬に手のひらを当てる。

 母さんがおれを呼んだ。

「暁雲」

 おれは驚いて動けない。

 母さんがおれをあざなで呼んだのは、これが初めてだった。

 あいつがおれの腕をつかみ、隣に座らせる。

 母さんはおれから目を離さない。

「お父さんがほめていたよ。暁雲はいい間者になるって」

「母さん」

 おれは母さんの肩に手を置いた。

「しゃべるなよ。疲れるから」

「母さんも、そう思うよ」

 母さんの手のひらがおれの顔に触れた。

「お父さんはね、暁雲を頼りにしているのだよ」

 あいつが肩を震わせ、下を向く。

 母さんの手に、おれは手を重ねる。

 母さんは、ほほえんだ。

「暁雲。お父さんを助けて」

「……わかった……」

「李氏!」

 あいつが母さんに顔を寄せた。

 その目には、涙がいっぱいだ。

「旦那さま」

 あいつにもほほえみ、母さんは逝った。



 母さんを弔い、おれとあいつは、鄴に戻った。

 おれはあいつの息子だけれど、姓は「李」のままだ。おれはあいつの間者になったから。

 あいつは変わった。

 凄みが増した。ぞっとする。その目は鋭く、冷たくなって、まるで刃だ。

 将軍がたも軍師がたも、あいつにたやすく話しかけられないようだった。

 おれは常にあいつの背後に控えることになった。

 そんなあいつにいつもと変わらず笑いかけるのは郭軍師と、元譲・妙才・子孝将軍だけだった。あいつもこの方々には今まで通りに関わった。

 そんなあいつを暗く、熱い目で見つめるようになった人が、一人だけいた。

 それが、子廉将軍だった。



 話の続きは、子廉将軍が語ってくれる。

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