第30話語り手は于禁へ。張済の妻

 さて、この于文則、文若どのから語り手を代わったわけだが、私は常に殿――これからは司空と、役職で呼ぶ――のそばにいるわけではないので、典韋にも語ってもらうことにする。彼ならば司空の言動を間近で見聞きできる位置にいるからだ。



 まずは私から話そう。

 私の行き先は、張繍がいる宛城だ。

 青州兵も同行する。かつて我々に投降した黄巾賊の残党で、今は私や元譲どのが鍛え上げた精鋭部隊である。

 今回征伐する張繍は、董卓の部下、張済の甥である。張済は戦死している。

 ところが張繍は、司空に早々と降伏した。

 戦になると考えていた私は、拍子抜けした。

 張繍が冑を取って現れた。

 その隣に、目つきが鋭い、薄い唇を引き結んだ男が平服で控えている。

 張繍は、立っている司空の前に平伏した。

 隣にいる男もそれにならう。

 宛城の今後の経営について、張繍との会談の場を設けることで合意した。会談は明日から開始すると決まった。

 司空は張繍の城の外に、幕舎を設営した。

 その夜。

 司空の幕舎の前には典韋と仲康どのが並んで立つ。

 私は明日からの会談に同席するので、司空と遅くまで話し込んでいた。

 話が済んだのは、深夜だった。

 司空の前から私が退出しようとしたその時、幕の外から典韋の声がした。

「おいっ、おめえ、どうしたんだよっ」

 仲康どのの声もする。

「何があったのだ。話せるか」

 私と司空は目を合わせ、揃って外に出た。



 一人の女が、うずくまっている。

 典韋が我々に、せっぱつまった顔を向けた。

「見えるところ、傷だらけなんです」

 仲康どのは女の体を太い腕で支え、司空と私に告げる。

「孕んでいます。この腹の様子じゃあ、六月は経っております」

 確かに腹がふくらみ、丸く突き出している。

 女が、我々に、顔を上げた。

 口の端が切れ、血がこびりついている。頬が夜目にも見て取れるほど腫れ上がっている。

 清潔で、素朴で、親しみやすい容姿をしていた。

 司空が女を見下ろす。

「そなた、余に用があるのか」

「はい」

 声は、女性としては低い方だ。

 仲康どのの腕から離れると、地面に両方の手のひらをつき、強い目を司空に据えた。

「張繍のやつ、司空を襲うつもりです」

 私は司空を見た。

 司空は厳然と女にただした。

「どこで聞いた」

「やつらが話しているのを盗み聞きしました」

「いつ襲うのだ」

「会談が終わり次第すぐに」

「張繍の言葉か」

「いえ。賈詡の言葉です」

「そやつは張繍の近くにいるのか」

「はい。軍師です」

「なぜ我々に、そのことを知らせる」

「倒してほしいからです、あいつらを」

「そなたは誰か」

 女の目から涙が流れた。

 しかし声は、怒っていた。

「今は亡き張済の妻です。蘇と申します。この傷は、張繍にやられました」

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