第31話語り手は典韋へ。司空を守れ

 今、おれの目の前に、張済の妻っていう若い女がいる。

 顔は、殴られたんだろうな、赤紫色に腫れてる。

 それで、張繍どもが、殿――じゃなかった司空を襲うってんで、司空に伝えに来てるんだ。

 けどよう……この女――蘇っていったよな――この傷は張繍にやられたって言ってたよな。

「あのう」

 おれは司空に声をかけた。

 司空がおれを見る。

「どうした、典韋」

「なんで張繍に殴られたんだか、おれ、蘇に聞いてもよろしいですか」

「構わん」

 おれは蘇に近づいた。



 おれは図体もでかいし、こわもてなんで、たいていの女はびびって、十歩ぐらい引いちまう。

 まあ、こんなおれでも嫁さんはいるし、満っていう息子もいるんだがな。

 ただよう、おれは、人殺しなんだよな。

 戦に出てるから、皆、人殺しだろうって?

 とんでもない。

 おれが人殺しをしたのは、黄巾賊が暴れまわる前の話だ。

 ――おっと、余計なことを言っちまった。ほんとは、このこと、話したくねえんだ。ごめんな。



 蘇は、おれを怖がらなかった。

 真正面から、おれのいかつい顔を見た。

「なあ。おめえ、なんで張繍はおめえを殴ったんだよ」

「あたしがやつと寝なかったから」

「寝るっておめえ、腹に赤ん坊がいるじゃねえかよ」

「あいつはそういうの、お構いなしなんだよ。おまえはもともと妓楼からひかれてきた女だろうとか言いやがって、あいつ。そういう女には何してもいいって、勘違いしていやがるのさ」

「それで腹の子は、張済の子かい」

「わからない」

 おれも仲康も、司空も于将軍も、「は?」って言っちまった。

 蘇は、暗い顔で、下を向いた。

「あたし、体を売ってたから。あたしが働いてた妓楼に張済が来て。あたしのことが気に入ったみたいで、その日のうちに身請けしてくれたのさ」

「じゃあ、張済はおめえの腹にいる子が、自分の子だと思ったまま、死んだ?」

「……そうみたい」

 于将軍が、蘇のそばに膝をついた。

 いつもはえらく厳しいのに、今はほんとうに蘇が心配で、何とかしてやりたいって顔だ。

「蘇と申したな。そなた、腹の子をどうするつもりだ」

「産むつもりでございます」

「身を寄せるところはあるのか」

「許昌に、父がおります。不仲ですけれど。母があたしたちをつれて家を出たので」

「こんなことを言うのは酷かもしれぬが、そうなると、堕胎する妓女が多いと私は聞いているが」

「怖くて、できませんでした。妓楼にいた時、いっとう仲が良かった子がおろそうとして、失敗して。それがもとで命を落としたんです。――情けない話ですけれど、それを見て、あたし、怖くなって」

 于将軍が司空を見ると、司空も蘇の前にしゃがみ込んだ。

「では、余がそなたを送り届けよう」

 蘇が目を見開く。

「よろしいのでございますか」

「ああ。当座の暮らしに足りるだけの金も持たせる。父と不仲だと申したな。そなたが余に張繍の襲撃を教えた、つまり功があったと伝えよう。父上も受け入れてくださるだろう」

「なぜあたしのような者に、ここまで情けをかけてくださるのですか」

 最後の方は泣き出したんで、言葉にならなかった。

 司空が、優しく笑った。

 おれは司空のそんな顔、初めて見た。

「そなたのおかげで、我らは、助かるからだ」

 蘇は泣いていたけど、またあの強い目で司空に申し出た。

「張繍の軍は、戦う用意をしております。襲うとしたら夜だと、賈詡が言ってました」

「よくぞ伝えてくれた。礼を言う」

 そして司空は、蘇の顔をのぞき込んだ。

「そなた、間者になる気はないか」

「かんじゃ?」

「そうだ。ちょうど今、女の間者を増やそうと考えておってな」

「……司空にご恩返しをいたしたいので、お引き受けいたします。ですがあたしには、間者が何をするのかがわかりません」

 司空は今度は、いつもの調子で明るく言った。

「今のようなことをしてくれればよい。何かわかれば知らせる。それだけだ」

 蘇が、くやしそうに眉と目をゆがめた。

「あたしは怖がりです。人殺しなんてできません。自分の腹の中にいる子供だって、殺せないんだから」

「殺すばかりが間者の務めではない。今のそなたのように腹に子供がいる女には、誰でも口が軽くなる。聞き出せることは数多あるではないか。恩賞も弾む。子供もそなたも、食うに困らなくなるぞ」

 司空が言い終わるや、蘇の目から、一気に涙が噴き出した。

 強え女だ。

 肝が据わった男だ。

 泣きじゃくる小さな背中と、見守る司空が、おれにはまぶしかった。



 会談は、あっという間に終わった。

 張繍が、和解を記念して宴会をしたい、と言ってきた。

「明日には許昌に戻るゆえ、我らはすぐに引き上げるが、それでもよろしいか」

 司空が聞くと張繍は、笑ってうなずいた。

 やつの目は、笑ってなかったけどな。



 ばかだよ、おれは。

 勧められるままに、呑んじまったんだ。

 このところ帝を迎えたり、許昌で慣れねえ書類仕事なんぞが続いてたんで、酒を我慢してたんだ。

 普段はつぶれねえのに、その時だけは疲れてたんだろうな、――寝ちまった。



 嫌な臭いで目が覚めた。

 見ると、煙の中にいる。

 飛び起きる。

 もくもくと灰色の煙が上がる。

 ぱちぱちと火がはぜる。

 いつも使ってる剣を探した――無え。

 とりあえずおれは、邸から走り出た。

 張繍と賈詡の野郎が、司空を襲ったんだ。

 急げ、おれ!

 司空を、守らねえと!

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