第29話悩む荀彧、劉備の助言

「荀さんさぁ。曹さんに、背を向けるなよ」

 劉備の言葉に、私は、動揺を隠せなかった。

 見透かされたのか。

 私の違和感を。

 殿や仲徳どの、公達どのが、今私の目の前にいるこの男を始末しようと話していたことに対して私が感じていた違和感を。



 袁紹を大将軍に、殿を司空に任命するため、詔書を作成し直した。

 帝に裁可をいただいて、袁紹へ渡す。

 帝は、いかにも面倒くさそうに、印を押した。

 私が作成した詔書を見るその顔は、うっとうしい羽虫の死骸でも見るかのようだった。

 帝に対して、私は、失望を禁じ得なかった。

 それでも生かしておかねばならないことにも、私は、正直、理解に苦しんだ。

 どのような人物であれ、帝は、漢なのだ。

 その血筋は、尊重すべきなのだ。

 我らは帝をお助けする名目でここにいるのだ。

 しかし、私は懸念する。

 帝の後継はどうするのだろうか。

 男の子が生まれたとは聞いていない。

 そして帝はまだ、数えで十六歳だ。

 これから男の子が生まれるのかもしれないが、后と子作りに励んでいるという話は聞かない。

 董承はそれで、気をもんでいる。

「何とかお誘いしてみろ」

 そんな露骨な言葉を、後宮にいる娘に伝えているとか。

 董承の娘とて、まだ若いのだから、さようなことはできぬだろう。

 まったく、勝手な男だ。

 どうせ娘が産んだ子が男なら、外戚として権勢を振るいたいだけだろう。

 それならば、この漢を崩壊と腐敗に導いた、宦官どもと変わりがないではないか!

 ――おっと、殿のご祖父様も、宦官だったっけ。



 袁紹は、すぐに到着した。彼の本拠地は河――黄河の北。許昌には近い。

「久しぶりだなぁ、文若」

 袁紹は私を見ると、嫌な笑いを浮かべた。

「――ご無沙汰しております」

「うまくやったもんだなぁ、孟徳のやつ。帝を手中に収めるとはなぁ」

 伸びる語尾が、不快に感じる。

 早くこやつを追い払おう。

 殿といずれ事を構えることは、誰の目にも明らかだ。

 私は言った。

「大将軍ご就任の由、お喜び申し上げまする。お帰りには、どうぞお気をつけられませ」

「ほう? おぬし、そんな気づかいもできるようになったのか。よほど孟徳のもとが性に合っていると見えるなぁ」

 黙れ。

 力いっぱい突き飛ばしてやりたい。目の前にいるこの、見た目だけは立派な男を。

 私は今、悩んでいるのだ!

 袁紹は、低いがよく響く声で哄笑した。

「おいおい、そんなに睨むなよ、文若。まっ、わしも大将軍。我が袁家の名に、泥を塗らずに済んだわい。ご苦労だったな。孟徳によろしく」

 立ち去る袁紹の堂々たる背中を、私は睨み続けていた。



 さて、次の仕事は――。

 劉備に兵馬や糧秣を与えて、呂布征伐に送り出すことだ。

 私はこういう仕事が得意である。やっていて、嫌ではない。

 たとえば糧秣は、いつも残り半年分になる前には補充している。

 馬は常に健康状態を点検している。

 兵の調練は于文則どのが引き受けてくれている。文則どのが厳格に指導してくれるので、我らの兵は精強な上に、略奪や乱暴を働かない。

 だから劉備も、与えられた兵馬を見て、感嘆の声を上げた。

「すげえな、荀さん。さすが」

「どうして、私の姓をご存じなのですか」

「曹さんがあんたに呼びかけてるのを見たから」

「えっ……まさかその一言だけで」

「そ。おれ、一度会った人は忘れないんだ」

 劉備が笑う。

 暖かな日の光のようだった。

 劉備はほほえみながら私に言った。

「荀さん。あんた、すげえ、よくやってるよな。この兵馬を見ればわかるよ。それにきれいなんだよな、心根が。おれ、そういう人見ると、どうしても助け船、出したくなっちゃうんだよなあ」

「なぜ、私に、そんなことを――」

 劉備が急に真剣な目つきになる。

「あんた、不幸な死に方、しそうだからさ。いろんなことをね、許せないばっかりに」

「そんな……」

 私は、声が、出せなくなった。

 そんなこと、考えもしなかったからだ。

「荀さんさぁ。曹さんに、背を向けるなよ」

 私は度肝を抜かれた。

 そして劉備に対する認識を、改めた。

 この男はただのむしろ売りではない。

 どんな人物もおのれの腹に収める、すさまじく懐の深い男だ。

 確かに仲徳どのが危険視するわけだ。

 殿が、畏れるわけだ。

 劉備はそんな私の肩に、ぽん、と手を置いた。

「ほらほら、がっちがちじゃないか。肩に力が入りすぎなんだよ」

 劉備はいきなり私の背後に回り、私の肩をもみ始めた。

 あれ? 何だか……気持ちいい。

 私は目を閉じた。

「えへへ。おれ、うまいんだよね。よく母上にやってあげていたのさ。こんなことしてる暇ないだろうなんて言いながら、母上も喜んでくれていたね」

 劉備はご母堂の物真似をする。

「備や、そなた、さようなことはせずともよいのです。まずは皇室をお助けするのです……おおっ、楽に、なりますねえっ……」

「た、確かに。ほぐれます、ね……」

「大丈夫。あんたが頑張りすぎなくても、曹さんて、意外と一人でやっていける人だからさ。おれね、わかるんだ。そういうの」

 もむのをやめ、私の前に来て、笑う。

 暖かなまなざしだった。

「もっと、周りを見てみな。そんで、話してみな。意外と曹さんて、話せる人だぜ」

 私は喉が詰まる。

 話そうとしても、私の胸の深いところに、殿とはわかりあえないだろうという懸念が厳然とある。

 私にとって帝とは、侵してはならない存在だ。

 しかし殿や仲徳どの、公達どのそして公仁どのにとっては、帝はただの「人」に過ぎない。

 劉備は、私の目をのぞき込んだ。

「あとは、許すの。許すって言葉、受け取りづらければ、あきらめるって言う方がいいかな。受け入れる、でもいいかも。今のおれに言えるのはそれだけ」

 劉備はじゃあな、と、手を振った。

「曹さんに、ありがとなって、伝えてくれよ」

 そして、兵馬を率いて、去っていった。



 劉備の助言。

 私は、従えそうに――ない。

 もしかしたら劉備はそれをすべてわかった上で私に、言葉をかけてくれたのかもしれない。

 深い男だ。

 そして、殿にとって、真の好敵手だ。

 考える私の背後で、立ち止まる足音がした。

「文則どの」

 背の高い美丈夫が、いつもの甲冑ではなく、平服で立っていた。

「今日は非番なのですが、調練した兵馬を見送りに来ました」

「彼はあなたの鍛えた兵馬を評価していました」

「当然の務めをいたしたまでです」

「恐ろしい男だと思いましたよ」

「同感です。あのように、いつ、誰の前でも、おのれを曲げない男が、一番恐ろしい」

「あなたでも恐ろしいと思うことがあるのですか」

「いつもですよ。だから調練を厳しくするのです。私は、弱い男ですから」

 私は文則どのの肩を、もんだ。

 文則どのが目を見開いて驚く。

「なっ――何をなさる?」

「固いですね」

 私はやっと、笑うことができた。

「おもみいたしますよ」



 続きは、文則どのに、語っていただくとしよう。

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