第28話語り手は荀彧へ。問題は、袁紹と劉備

 ああ、眠かった……。

 殿が上奏を無事に済ませるのを見届け、帝の御前から退出したとたん、私は倒れた。

 仲康が私をおぶって部屋までつれて行き、寝かせてくれたそうだ。

 ああ、私としたことが、面目ない。

 ようやく目覚めた私は、もう二度と目にしたくないあの名前を聞いてしまった。

 袁紹である。

 殿が大将軍に任命された。

 そして殿は袁紹を太尉に任命した。

 ところが袁紹は、不服を表明した。

「わしが孟徳よりも格下とは……」

 いやいや……むしろ同格なのだが。

 殿、いかがいたしましょうか?

「今、本初など、相手にしておられぬ」

 なるほど。そのわけは?

「呂布がまた、動いている」

 それを証拠に、劉備が許昌へやって来た。

 やつが言うには、こういうことだ。

「おれ、袁術と戦ってたじゃないですか。そこへ呂布が、おれたちがいた下邳を襲ったんですよ」

 なれなれしいやつだ。

 こやつは黄巾賊討伐の際、殿と会っているらしい。

 呂布が下邳を攻めた裏には、おおかた陳宮の考えがあるのかもしれないと私は思った。

 しかし、呂布は殿の敵となるだろう。始末しておくに越したことはない。

 劉備の話を聞き、殿は帝に上奏し、やつを豫州の牧に任命した。これ以来劉備は「劉豫州」と呼ばれるようになる。

「劉備をどうするか、早く考えを決めなされ」

 仲徳どのは、殿に言った。

 私は、そう言う仲徳どのの横顔を見る。

 殿は、無言だ。その代わりに仲徳どのの目を正面から見ている。

 仲徳どのは宮仕えの経験はないが、人情をよくわかっている上に、人を見る目が確かだ。

 私などは劉備を、ただの田舎のむしろ売りくらいにしか思っていなかったので、仲徳どのに尋ねた。

「何ゆえさようにお考えになるのですか」

 仲徳どのは私に、視線をゆっくりと向けた。

「殿は今、大将軍だ。おまえさんにはこんなことを話しても無駄かもしれないが、大将軍は三公と同格の地位にある」

 ええ、その通りです。

「そういう立場にいる殿に対しても、まったく態度を変えない。あやつは帝の前でも、ああいう態度をとるだろうよ。つまり、おのれを曲げることを知らない――いや」

「あえて、おのれを曲げないやつ。そう言いたいのだろう、仲徳」

 言ったのは、殿だった。

「おっしゃる通りです」

「あやつは、会った時からそうだった。おれは、初めて帝の前にまかりでた時を思い出して、正直、畏れを感じた」

「あのような輩が最も危険だ」

「おれは帝を戴いたばかりだ。もしここで何の理由もなく劉備を消したらどうなる。呂布や楊奉、張繍、それに袁術、袁紹などが、次に始末されるのは自分だと思うだろう。その前におれを消そうと動き出すのではないか」

 仲徳どのは、黙り込んだ。

(これが、私がいたいと思った場所なのか?)

 私が理想とするのは、より帝が帝らしく政務をおとりになれることだ。

 我ら、曹操の幕僚たちは、そのために誓ったのではないか?

 中原を、本来の姿に戻すと。

 そのために群雄と戦うことは覚悟している。

 それなのに、劉備――仮にも帝と同じ姓をもつ人物を、「消す」という発言が出るとは。

 私は理解できず、釈然としない。

「程仲徳どののご意見にも一理ありますな」

 聞き覚えのある声がした。

 私は、殿に聞かれたことを思い出した。

 ――参謀となってくれる人物はおらぬか。

 そこで私は、この声の持ち主を呼び寄せたのだ。

「公達どの」

 彼――荀攸が、旅装のまま、立っていた。

 その後ろには、典韋がいる。

「案内を頼まれましてね」

 典韋はいかつい顔で愛嬌たっぷりに笑った。

 公達どのは殿と仲徳どのにひざまずいた。

「荀攸、あざなは公達と申します。荀彧の甥にございます」

 甥と言っても、私より年上だ。それに、私よりも背が低い。

 殿は公達どのに笑顔を見せた。

「文若がそなたを推薦した」

「いかようにもお使いくださりませ」

「わしのこともご存じのようだが」

 仲徳どのが言うと、公達どのは顔を上げた。

「貴公の評判はかねがね、甥から伺っておりますから」

 一呼吸おいて、その目を、殿に据えた。

「劉備を除くにはうってつけの理由がありますでしょう」

 殿は公達どのの視線を受け止めた。

「呂布を討ちに行かせることか?」

「ご明察」

 公達どのが、口角を上げる。

 仲徳どのも、にやりと笑う。

「なるほど。やつがそこでくたばれば」

 殿が公達どのを立たせた。

 公達どのは笑みを残したまま殿に言う。

「まあ、そううまくいくとは限りませんけれどね。呂布は今や中原の敵だ。消すために殿が劉備を派遣したとは誰も思わない」

「劉備と呂布がやりあってくれるのならばこちらにも好都合だ。張繍を征伐できる」

 私は思わずうなずいていた。

 しかし、袁紹はどうする?

 殿は私に、不敵な笑みを見せた。

「本初には大将軍をくれてやる」

「えっ。よろしいのですか」

「その代わり、おれは司空になる」

 司空は三公の一つだ。土木や水利といった業務を行う。

「これなら戦で、土や水をいじれる」

 まだ火薬は実戦に投入されていない。だからたとえば城を落とす際、水攻めは有効な手段の一つとなる。司空であれば、水攻めに必要な工事を、その権限で命令できる。

「では、そのように手配いたします」

「頼むぞ、文若」

 私は、こういうことならお手のものだ。

 殿は決断が早く、行動に移すのも早い。

 こういう人でなければ、今の漢を守れない。

 しかし、私は、ついていけるのだろうか。

 必要とあらば、帝と同姓の人を「消す」と言ってしまえる人たちに……。

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