第7話殿は立ち直った「中原を、本来の姿に戻すぞ」

「それだけ?」

殿の、あっけにとられた声がする。

わしは甲冑をつけている。

文若は平服のままだ。

わしと殿が無言で向かい合う。

わしは言った。

「皆を安心させてやってください。その方が先です。文若。皆を呼んでこい」

「えっ」

文若が目と口をぽかんと開けた。

「しかし、このままでは、汚れておられますし、あちこち焦げておられますし」

言い終わらないうちにわしは言った。

「殿がご無事であることを皆に知らせるのだ。このままでよい。手当ては皆が集まるまでにわしが済ませておく」

文若はばたばたと走り去った。

わしは兵卒に水を持ってこさせた。

殿の左手首をつかみ、桶に張った冷たい水の中に入れた。

整った顔がゆがむ。

「我慢なさい。火傷してすぐ会えてよかった。冷やすのが一番です」

わしは殿の左手首を握っている。当然、冷たい水にわしの手も浸かっているというわけだ。

「清冽すぎるのです」

わしが言うと、殿はわしを見た。

「誰のことだ」

「殿と、文若です」

「――どういう意味なのだ」

「心根が清冽すぎます。求めておられるものが高すぎる。しかも、ご自分を厳しく律しすぎるのです。地方の相として住民を取り締まるのならばそれでもよいでしょう。しかしそれは、殿が本当になさりたいことですか」

殿が、あっと、声を上げた。

何か大事なことを思い出したとでも言うような顔をしている。

文若が駆け込んだ。

「お見えになりました」

わしは殿の左手を手巾で拭き、その手巾を左手にぐるぐると巻きつけ、縛った。

がちゃがちゃと甲冑の鳴る音と共に、武将たちが入ってきた。

「おう、孟徳! 無事だったか」

夏侯惇だ。あざなは元譲。呂布との戦で左目を失った。顔の左側に布を巻いている。

「よかったあ、孟徳兄」

そう言って殿の隣にある椅子にどっかと腰かけたのは夏侯淵、あざなは妙才。わしはまだおまえに座れと言っておらぬわい。

曹仁、あざなは子孝。無言で入ってきた。

「孟徳兄!」

殿を見るなり目を輝かせたのは曹洪、あざなは子廉。董卓を追撃して敗走した殿に自分の馬を譲って救ったそうだ。

「于文則、参りました。失礼いたします」

入口で直立し、固苦しく告げたのは于禁。文則はあざなだ。こいつの主君だった鮑信は、青州兵との戦いで命を落としている。

皆を座らせると、わしは言った。

「殿。改めて皆に語ってくださいませ。わしにしてくださった、あのお話を。あなたが、何をなさろうとしているのかを」

「なぜだ、仲徳」

わしは殿の前にひざまずいた。

「今、我々は呂布に負けております。文若がわしに申しました。三つの城を守り抜くには、心の結束が必要であると。今がその時です。今こそ殿の思いを語り、我々の結束を強める時なのです」

殿は、唇を引き結んだ。

そして、とつとつと、語り始めた。

「儀郎として、帝に上奏しても、何も変わらない。だからおれは、病気と称して出仕をやめた」

皆、聞いている。

「握りつぶされたのか、帝は何ともお思いにならなかったか。今となっては確かめようがない。そのあと黄巾賊討伐を命ぜられた。済南の相になった時は、賄賂を送りあっていた高官どもを免職に追い込んだ。劉章の祠を、おれが壊した。あやしげな祀りはそれでなくすことができた。だがおれは、むなしくなった。なぜ、当たり前のことがなされない。おれがすることは、何一つ、ゆがんだ今を変えていない。どうしても考えてしまった。もしおれの父親が、宦官の養子でなかったら」

殿は、顔を下に向けてしまった。

「いつもそうだった。宦官の血筋にあるというだけで、おれを見る目が変わる」

わしは椅子を持ってきて、殿と向かい合うように座った。

殿は両手の指を組み、組んだ指に額をつけた。

「袁紹の血筋。呂布の武勇。おれに残された城はたったの三つ。そして呂布に敗れた青州兵。食い物もない。それに――」

額を指に預けたまま、声をしぼり出した。

「大義名分も」

文若が、がたんと椅子を鳴らして立ち上がった。

「簡単です」

端麗な顔を真っ赤にして震えている。

「み――帝をお迎えすればよいのです」

わし含め、そこにいる全員が、文若を見た。

さすがのわしも言葉を見失う。

文則が顔色を変えて文若に聞き返した。

「文若どの。帝をお迎えするとおっしゃったか」

「はい――」

文若は肩で息をしている。

文則と文若のやり取りが始まった。

「しかし、今、玉体は李傕や郭汜が押さえているのではないか?」

「ええ。まだ帝はお若くていらっしゃる。朝臣たちも少ないと聞いております。ならば、我々が、帝をお支え申し上げればよい」

「そんな……無理だ」

「ええ。今は無理です。しかし、将来的には不可能ではありません。殿のお話をうかがい、私は確信いたしました。殿は必ず帝をお迎えになります」

「文若」

殿が指をほどいて顔を上げた。

目に力が戻ってきている。

「何でしょう、殿」

「おれの話のどこが帝と結びつくのだ」

文若は殿を正視した。もう、揺らがない。

「当たり前のことがなされるようにするとおっしゃった点でございます。中原は帝を中心に治まって参りました。しかし恐れながら帝は統治のご経験がございません。忠実な臣下や軍もお持ちではありません。ならば我らが臣下となればよい。戦はこれからも続くことは必定。我々を阻む者たちとも戦わねばなりません。きれい事では済まされませぬ。しかしそれでも、中原をはらい清め、安寧をもたらすことができるのは、我ら曹孟徳の幕僚と軍だけです。殿には確固たる志があるのですから。殿が取り戻そうとしているのは、官吏は職務に励み、将兵は任地を守り抜き、人民は耕すという、この中原の本来の姿なのですから」

端麗な顔には笑みさえ浮かべている。

「殿。まずは三つの城を守りましょう。兵を整え、いなごの害が治まりしだい、呂布から土地を奪い返しましょう。並行して屯田もしましょう。まずは食糧を自給自足できるようにするのです」

「文若」

「何かご質問がありますか、殿?」

「なぜ、おれに、ついてきてくれるのだ」

文若が、にこりと笑った。

「私も殿と同じように考えているからです」

殿の切れ長の目から涙があふれた。

わしは、ほっとした。

よし、これで、大丈夫だ。

「孟徳兄」

子孝が初めて口をひらいた。

「忘れたわけではあるまい。子廉が孟徳兄に馬を譲り、船を探して一緒に譙まで帰り着いたことを」

曹洪も言った。

「孟徳兄だけだった。おれに、泣いていいと言ってくれたのは。ふた親を亡くして泣いてばかりいたおれを、遠乗りにつれていってくれたこと、今も忘れない」

子廉は強い目で殿を見つめる。

「孟徳兄。おれはまたあなたに言いたい。天下におれがいなくてもいい。でも、あなたはいなくてはならない」

「孟徳」

元譲が殿を静かに呼んだ。

「文若が屯田と言ったよな。それならおれは、稲を植えようと思う」

皆の視線が元譲に集まる。

元譲は笑顔を見せた。

「おれも土を運ぶ。まずはおれが動いてみせた方が、連中も動いてくれる気がするからだ。というわけで妙才。おまえもやれ」

「げっ。おれもか、元譲兄」

でかい声で驚く妙才に、元譲は平然と告げる。

「図体がでかいのだから動けるだろう」

「田んぼなんかしたことねえ」

「だから青州兵に教わる」

「おれもやる」

殿が笑って、立ち上がった。

わしもすかさず立つ。

「仲徳」

殿がにやりと笑う。

「お主のおかげで腹が決まった」

わしも笑った。

「皆に聞かせてやってくださりませ」

殿は皆にも笑顔を向け、明るく言った。

「中原を、本来の姿に戻すぞ」

皆も、笑顔でうなずいた。

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