無知の幸

梨莉りり?」


 あぁ、とうとう俺も限界が来たか。

 最初はそう思った。

 当たり前だ、大切な一人娘を亡くし、茫然自失となった莉嘉りかを励ますこともできやしない──家族をいっぺんにふたり喪ったような虚しさのなかで日々を生きているのだ、おかしくならないわけがなかった。


 だが、しばらく見つめていても梨莉が消えるようなことはなかった。生きていたときと同じような質感で、しかしどこか悲しそうな顔で俺を見つめ、やがて手招きしながら玄関に向かって滑るように歩き始めた。

「梨莉、どこ行くんだ? 待ってくれよ、パパの方に来てくれよ……!」

 さすがに俺の様子に気付いたのか、莉嘉が怪訝けげんそうな顔で「どうしたの?」と尋ねているのが聞こえたが、何故だかそれらは壁一枚へだてた向こう側の光景みたいに遠かった。


 また、梨莉が行ってしまう。

 俺の頭はそれだけだった。

「梨莉っ!」

 たまらず、俺は歩いていく梨莉を追いかけていた。大人の足と子どもの足だ、もちろんすぐに追い付くことはできたが、それでも梨莉は歩いていく。


「パパたちを置いていかないでくれ、パパもママも梨莉がいないと駄目なんだ! 梨莉がいないと、どうやって過ごしていたらいいかわからないんだよ! 何をしても、梨莉がいないと……待ってくれ、梨莉、梨莉っ!」

 必死に叫んでいると、俺の声が届いたのか梨莉は立ち止まった。


 もしも。

 もしも、目の前に見えている梨莉がよくホラー映画なんかで出てくるようなよからぬもので、俺はおろか莉嘉すらも連れていかれたりしたって、それでもいいと思っていた。梨莉の姿を見て追いかけないなんて、梨莉の姿をしたものを求めないなんて、俺にできるわけもなかった。

 たぶん、本当に限界だったんだ。


 しかし俺を振り返った後も、梨莉は相変わらず黙ったままだった。悲しそうに、そしてどこか困ったような顔をしながら、梨莉は2階へ通じる階段を指差した。

「え?」

 その指先を追って階段の下に視線を移してみても、もちろん何もない。何の変哲もない、我が家の階段があるだけだった。


「階段に何かあるのか、梨莉? 何か忘れ物でもしちゃったのか?」

 指差されただけじゃわからなくて、更に詳しいことを聞こうと梨莉の傍で片膝ついて、必死に問いかけていたときだった。


「ねぇ梨央りお、どうしたの?」

『──っ!』

 背後から莉嘉の声が聞こえた途端、梨莉は見ているこちらの身の毛もよだつような恐怖の顔と共に、その場から消えてしまった。電気のスイッチのオンオフのようにパッと、一瞬のうちに。


「……どうかしたの、梨央? え、えっと……、階段、何かあった?」

 莉嘉の顔は、どこか青ざめているようだった。

 俺は、ここまで数分くらいの間、莉嘉からの声を無視してしまっていたことに思い至った。そしてずっと梨莉の名前を呼んでしまっていたのだ、不安に思わないわけがなかった。

「あぁ、ごめん。何でもない……ちょっと疲れてたのかもな」


 どうにか苦笑いを作って立ち上がろうとしたときだった。

 

 うちの階段は、いわゆるL字階段だ。2階から降りてくるとき最後の数段だけ曲がっている。その階段の、2階から降りてくる向きの突き当たりにあたる壁際に、梨莉がいつも気に入って付けていた髪飾りが落ちていた。髪の毛が数本くらい絡み付いて、どうも染みみたいのもできているような……


「梨央、疲れてるならもう寝ない? あたしも、今日はなんだか寝れそうだから」

「あ、あぁ……」

 頭のなかで何かが浮かびそうだったが、そのあと突然抱きついてきた莉嘉への驚きで、そんな微かな思い付きは霧散した。


「梨央、これからはあたしもちょっとずつ前向くから……。だから、あたしのこと、離さないでね」

「…………あぁ」

 梨莉は、きっと俺たちがずっと塞ぎ込んでいるのを察して来てくれてのかも知れない。たぶん、そうだ。莉嘉と一緒に、俺も前を向こう。


 その夜、俺はそう誓った。


   * * * * * * *


 それからというもの、表面上は何も変わらない日々が続いている。頑張ると言ったって、決意だけではそう人は変われない。

 俺は相変わらず虚しさを抱えているし、莉嘉はやっぱり俺が帰ってくるまで庭を見ているようだった。


 だが変わったことがある。

 まず、俺が梨莉を見た翌日──いや俺が朝起きるよりも前に、莉嘉は階段の掃除をしていた。俺が見つけたかも知れなかった髪飾りも、もうどこにも見当たらなかった。

 そして、俺の心のなかに微かに芽生えてしまったもの。


 俺には、どうしてもあの顔が忘れられなかった。

 莉嘉が出てきたときの、梨莉の怯えた顔。階段の近くにいる俺を見たときの、莉嘉の青ざめた顔。

 よっぽど、言い出したくなってしまう。

 

──なあ、もしかして梨莉が死んだのって。


 もちろん、それは口に出した時点で後戻りできなくなるような言葉だ。ふたりで前を向こうと決意した以上、よっぽどのことがない限りは言うべきじゃない。

 だが、いつまで俺はそのことを話さないでいられるだろう?


 相変わらず我が家の食卓を流れる静寂が、更に重たくなったような心地がした。

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春の日差しを浴びて 遊月奈喩多 @vAN1-SHing

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