春の日差しを浴びて

遊月奈喩多

微睡みの庭にて

 妻が、今日もテラスで座っている。

 何をするでもなく、ただぼんやりと庭を眺めているのだ。きっと俺が仕事に出た後、起きてから今に至るまでずっとこんな調子なのだ。いつもそうだから、もう慣れてしまっているのが自分でもわかる。

 それに、気持ちはわかるから無理に引き剥がすこともできない。生活のためにもしっかり踏み留まらなければ──俺だってその一心でやっと日常を保てているようなものなのだから。


 風が暖かくなり始めた春先の日、俺たちの一人娘、梨莉りりが死んだ。

 交通事故だったという──庭先で飛び出したところを、走ってきた車にかれて即死。どういう接触のしかただったのか、タイヤに巻き込まれた頭はぐちゃぐちゃで、原型なんてわからないくらいだったらしい。


 まだ、小学校低学年だった。

 未来もたくさんあって、夢もたくさんあって、これからもっとたくさんの笑顔や思い出を、俺たちと作っていけるはずだった。何か夢を見つけたかも知れない、俺たちじゃわからないような若者らしい趣味と出会ったかも知れない、テーマパークで友達と遊んだりしたかも知れない、あんまり考えたくはないが恋みたいなのもしたかも知れない。

 だが、もう全部実現しない。


 梨莉は小さな骨壺に収まって、近所の墓地で眠っている。妻も打ちひしがれているようだが、俺も正直、いつ妻と同じ風になってもおかしくない。今はまだ遺影の笑顔を拠り所にできているが、そのうち思い出すことも苦痛になるかも知れない──今でさえ、ふとしたときに梨莉を思い出しては苦しい思いをしているのだから。

「パパ教えてたろ、車にはちゃんと気を付けろってさ……」

 仏壇に供えられた乾いたご飯を下げ、また新しく炊けたばかりの白飯を仏飯器によそう。梨莉はもっとよく食べる子だったが、今では小さなこの器が梨莉の食事だ。説教がましいことを言っても、もちろん返事はない。


莉嘉りか、飯にしよう」

 冷蔵庫の有り合わせで作った夕食をテーブルに並べてから、妻に声をかける。どうやらその声掛けで初めて俺の存在に気付いたのか、ギョッとしたように振り返ってから「うん」と小さく頷いた。

 それからも、我が家で流れる時間は静かなものだった。もちろん、好ましい静けさではなく。


 梨莉は、よくテレビ番組を見る子だった。

 バラエティ番組で笑ったり、動物もので感動したり、クイズ番組で得意になったり、ドラマに感情移入したり……どこにでもいるかも知れないが、そんなところがいちいち全部可愛い、大切な子だった。

 大手投稿サイトの動画なんかもよく見ていたみたいで、よく気に入った動画なんかを俺たちに見せてくれていた。一見すると面白さがわかりにくいものもあったが、楽しげに見ている様子が愛らしくて、いつしか俺たちもそのチャンネルの動画を一緒に心待ちにするようになっていたりした。

 思えば、我が家で流れる音の大半は、梨莉が発してくれていたものだった。


 これから梨莉にもどんどん秘密もできて、梨莉だけの時間もできて、時にはそれに干渉し過ぎて喧嘩することもあったかも知れない。思うようにならないことがあってお互いに苛立ったりしたかも知れない。もちろん俺としてはあまり歓迎したくはないことだったが、今となってはそんな悩みを持てることすら羨ましかった。

 押し黙ったままの莉嘉を見ながら、このままじゃいけないと思いながらも、口を開くと梨莉を喪った悲しみの方が先に溢れてしまいそうで何も言えなかった。


「ごちそうさま」

 先に食べ終わってしまったので小さく呟いた後、流し台に皿を持っていこうとしたときだった。


 テーブルから流し台に向かう途中、玄関へと通じる廊下が目に入る。そこに、小さな影が立っていた──いや、小さな影だなんて。

「……梨莉?」

 そこに立っていたのは、もうどこにもいないはずの一人娘だった。

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