第4話 女教師は姑のあつかいに困っています
婚約後久しぶりに田島と岸田の教師カップルが来店したが雰囲気がおかしい。
「だから
「健康に悪いわよ。お母さん、何を考えて料理してたのかしら。だからあなた痛風になったのよ」
「おふくろを悪く言うなよ」
「あなたってマザコンなの?」
そんなやりとりのあと今日は岸田のほうが怒って帰った。残った田島を妻がカウンター席に呼んだ。
「どうしたのよ。この前はどんな困難も乗り越えられるって自信満々だったじゃない」
田島はため息をついた。
「理想と現実は違うんですね。料理一つでこうなんですから。彼って頑固なんです」
「頑固なのはあなたよ。学校の生徒のカップルが手をつないで下校してるのをあなたよく叱ってたわね」
妻が妙なことを言い出したので田島はきょとんとした顔になった。
「私たちが小学生の頃は学校から帰ると友だちと遊んで夕方以降は食事の時もそのあとも一つ部屋に家族がいたものよ。今はどう? 朝食もバラバラ、下校するとすぐに塾、夕食が終われば勉強しなさいって自分の部屋に追い立てられる。高校生ならなおさらよ。だから手をつなぐのもイチャイチャしたいんじゃなくて寂しいからだと私は思うわ」
「物事の背景とか相手の置かれている状況なんかを考えろってことですか?」
「そうよ。岸田さんは母子家庭って聞いたけどお母さんはどんな人なの?」
「リウマチになってやめてるみたいですけどずっと行商をやってたそうです。魚の干物やすり身や乾物を仕入れてそれを小さなリヤカーに乗せて山間部に売りに行くって聞きました。売りつくすと今度は農家で野菜を仕入れて帰って家の近所で売ってたそうです」
ここで私も口をはさんだ。
「さっきの君たちのいさかいだけど、家族でおしゃべりしながら食事する家庭もあれば黙って食べる家庭もあるんだ。どっちが正しいとかじゃない。それと同じで料理の味つけや味噌汁の具もそれぞれの家庭の文化なんだ。岸田さんのお母さんは体を酷使する商売だから味つけも自然と濃くなるんだろうよ」
「難しいものですね」と考え込む田島に妻が言った。
「そう深刻に考えなくてもいいんじゃない。どんどん遠慮なく言い合えばいいのよ。夫婦げんかっていうのは文化の歩み寄りなんだから」
田島の顔が少し明るくなった。
「分かりました。岸田さんのお母さんは体調がよくないので結婚したら同居するつもりですが、頑張ってみます」
妻が感心して言った。
「へえ、お
「車で2時間くらいの距離なのにおふくろは元気にしてるかなあというのが彼の口癖なんです。だから同居してあげれば彼もお母さんも喜ぶはずです。今度の土曜日に泊りがけで婚約の報告に行く予定ですから同居の話も持ち出してみます」
岸田との口げんかはすっかり忘れたような顔で田島は帰っていったが私たち夫婦は顔を見合わせた。
「大丈夫かなあ。同居してあげるっていう上から目線でうまく行くかな」
「ええ。姑との同居ってそう簡単にはいかないわよ」
土曜日の夜に田島が一人でクラウドに入って来た。
いつもの紅茶でなく生ビールを注文した田島に妻が尋ねた。
「今日は泊りがけで岸田さんの実家に行ったんじゃなかったの?」
妻の問いかけに田島は憤然とした口調で答えた。
「私だけ帰ってきました。あんなお母さんのとこの嫁になる気はありません」
「いったいがあったの?」
「結婚したら同居してもいいですってお母さんに言ったら断られたんです。それも、同居したらおならもできないなんて言われたんですよ!」
怒りが冷めやらないようすの田島はジョッキの生ビールを半分近く一気に飲んだ。
「私、頭に血が上って、一人息子を取られたくなくてそんな意地悪言うんでしょう!って言いました」
「そこまで言っちゃって今後どうするの?」
「明日、もう一度彼の家に行きます。お泊り用の着替えなんか入れたバッグを彼の家に忘れて来たんです。それを取りに行って代わりに婚約指輪を返してきます」
何か言ってほしそうな顔で妻が私を見た。
「私から一つ頼みがある。岸田くんのお母さんは体調がよくないんだってね? 明日彼の家に行ったらお母さんの脚を揉んであげてくれないか。最後のいい思い出にもなると思うから」
興奮していた田島の顔が少し穏やかになった。
「マスター、優しいんですね。分かりました、それくらいはやってみます。私もひどいことを言ってしまったのは後悔してるんです」
田島が店を出ると妻が言った。
「あなたのおかげで彼女も落ち着いたようね。でもなぜあんなことを?」
「一種の賭けだね。彼女は感受性は豊かなほうかな?」
「感受性が鈍ければ国語教師は務まらないわ。それがどうしたの?」
「ふむ。それなら少しは期待が持てるかな」
翌日の日曜の夕方に田島が来るとすぐに妻が聞いた。
「どうだったの?」
「婚約指輪を置いて帰って来ました」
妻の顔は曇ったが田島本人の表情は明るい。
「マスターのおかげです。お母さんは最初嫌がりましたけどうつぶせになってもらって背中から腰と揉んでいったんです。揉んでいるうちに涙が出てきました」
田島は話しながら涙声になっていった。
「膝から下が細い棒のように硬くてかちかちなんです。行商しながら女手一つでどんなに苦労して岸田さんを育ててきたのか、揉む手を通して伝わってきました」
私は我が意を得たりと腕を組んで頷いた。
「それで私、岸田さんに言ったんです。こんな有り難いお母さんにひどいことを言うなんて私に嫁になる資格はありません。お母さんを大事にしてあげてくださいって。マスター、私のいたらなさに気づかせてくれてありがとうございました」
「コン、コン、コン!」
田島が涙ながらに私に頭を下げると同時に妻が例の咳をした。感動的な空気がぶち壊しになったところへ岸田があたふたと店の中に入って来た。
「ああ、よかった。やっぱりここだったんだね」
岸田はポケットから指輪を取り出すと田島の手を取って薬指にはめた。あっけにとられている田島に岸田が言った。
「君が出て行ったあと、おふくろに叱られたんだよ。何をぼんやりしてる、早く追いかけろ! あんないい嫁がいるものか!って」
額の汗を拭きながら岸田は続けた。
「それで急いで出ようとするとおふくろは痛む足を折って玄関の板張りに正座して『こんな息子だけんどよろしくお願いします』君はいないのにそう言って頭を下げるんだよ。『こんな息子』の僕は複雑な気分だけどね」
黙って聞いている田島と妻の涙腺がゆるんだ。それからというもの、田島と岸田は週末ごとに岸田の実家へ出かけるようになった。そんなある日、岸田が出張とのことで田島が一人でクラウドに来た。
「その後どうなの? 岸田さんのお母さんとは」
妻が尋ねると田島は嬉しそうに答えた。
「彼の実家で私がお料理を作ることもあるんですけど、薄味でも美味しそうに食べてくれます」
「雨降って地固まるってやつだね。一件落着だ」
私も安堵したが田島は浮かぬ顔で言った。
「でも、結婚後の同居はやっぱり気が進まないふうなんです。どうしてそこだけ意地を張るんでしょう?」
「それは頑固なんじゃなくて逆に君たちを気づかう優しさだよ。この前妻が言った高校生の手つなぎと同じで、お母さんの身になってごらんよ」
そう言って私は妻に話を振った。
「そうよ。同居した場合のことを具体的に想像してごらんなさい。テレビのどの番組を見るかっていう些細なことでもあなたたちとお母さん、お互いに気をつかうと思うわ。あなたたちの前で一人のときのように気楽に寝転ぶこともできないだろうし。風呂に入る順番だって遊びに出かけるときの誘いだって遠慮の行ったり来たりになるはずよ」
私も言葉を添えた。
「お互いの思いやりがあればこその不自由さなんだね。だからおならもできないというのも嫌味じゃなくてお母さんの実感だろうよ。対面商売の行商でお母さんは人情の機微に触れてきたんだから人の思いやりを察知するという点では君たちの先生だ」
田島の顔が晴れた。
「私、なおさらお母さんに同居してもらいたくなりました。おならをしてもらえるように頑張ります」
弾む足取りで帰って行く田島を見送ったあとで妻が言った。
「ブラウニングの詩じゃないけど、『すべてこの世はこともなし』ね」
店を閉めながら私も妻の顔を見て頷いた。私は寂しい人が好きだ。
お悩み解決カフェバー『クラウド』 仲瀬 充 @imutake73
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