第3話 女教師は男教師のあつかいに困っています

 私の妻の立杉たちすぎ伽羅きゃらはついこの間定年退職するまで高校の国語教師をしていた。同僚や生徒から「伽羅きゃら先生」と呼ばれてけっこう人気があったようだ。近頃はお腹周りがふっくらしてきたので「ゆるキャラ」みたいだが本人には口が裂けても言えない。それはともかく、現役時代のつながりで妻の後輩教師のカップルが時々クラウドにやってくる。女性は田島という国語教師で男性の方は岸田という数学教師だがこの二人はけんかばかりしている。ついこの間も口げんかになって田島が言った。

「岸田さん、あなたはもっと謙虚になって他人への感謝の心を持たなきゃダメよ」

岸田は時々痛風の発作が出て足を引きずっていることもあるがいつも意気は盛んだ。

「ふん、その2項は同義語だ。傲慢な人間が感謝の心を持つはずはないから『謙虚になれ』、あるいは『感謝の心を持て』で十分だね。君は国語の教師だろう?」

こんなふうにたいていは岸田が理屈でやりこめて田島がぷりぷりして帰って行く。あるとき妻が田島に言ったことがある。

「あなたたちけんかばかりしてるけど、嫌いなら別れれば?」

「彼、口は悪いけど悪気はないんです。それが分かってるから憎めないんです」

「ふうん。それならそれでお互い30歳目前なんだし早くくっついちゃえば?」

「でも伽羅きゃら先生、女の私からそんなこと言い出しづらいし……」

田島がもじもじするのを妻はじれったそうに見ていた。そんなやりとりがあってしばらくたったころ学校帰りに二人がクラウドにやって来た。

「君は結婚は考えてないの?」

岸田のその言葉を耳にして妻はこの前の田島との会話を思い出したらしく、耳をそばだてた。

「あら、どうして?」

そう言う田島の目は少し輝いたように見えた。

「君もいい年なんだから急いだほうがいいと思ってね」

「え?」

田島の顔と田島を見ている妻の顔がこわばった。岸田は田島の表情の変化は目に入らないらしく朗らかに話を続けた。

「君も女性なら高齢出産のリスクは知ってるだろ? 卵子の老化で染色体異常の子が生まれるリスクが高まるし流産や早産もしやすくなるんだよ。だから君も急いだほうがいいよ」

得意げに諭すような岸田の口ぶりに妻は頭を抱えた。

「余計なお世話だわ!」

今日も田島はぷりぷりして帰って行った。

ところが残された岸田のほうもいつもと違ってしょんぼりしている。妻と私は一緒に岸田のいるボックス席に座った。

「どうしたのよ。いつもならやりこめて勝ち誇ったような顔をするあなたが」

「実は伽羅きゃら先生、今日は彼女にプロポーズしようと思って来たんです」

「ええっ?!」

私と妻は異口同音に驚きの声を発した。聞けば、病気がちの母親が気弱になり孫の顔を見て死にたいとしきりに口にするという。

「あきれたわね。プロポーズどころかあれじゃけんか売ってるようなものよ」

「君の専門分野だろうが有名な数学者の岡きよしもこう言ってるよ。知や理は情を説得することはできないってね」

「どうすればいいんでしょう……」

私たち夫婦にダメ出しされて岸田は泣きべそをかきそうな顔になった。

「田島さんが前に言ったように、あなたはもっと素直になったほうがいいと思うわ」

「確かに自分でも傲慢だと思います。早くに父親を亡くして、母子家庭の弱みを見せないように突っ張って生きてきたせいでしょうか」

私も妻の応援に乗り出すことにした。

「今、妻が言ったことを実践してみれば?」

「どうするんですか?」

そう言って彼は私を見た。

「謙虚な人間だから感謝の心を持っているのであって傲慢な人間は感謝の心は持てない。この間の君の理屈はそういうことだったね」

「ええ」

「ところが逆のパターンも心理学では広く認められているんだ」

「どういうことですか?」

「例えばだね、『人は楽しいから笑う』と普通は考える。ところが逆もまた真なりで『笑顔をつくれば楽しい気持ちになる』という説があるんだよ」

「そしたら無理にでも感謝の心を持つようにすれば謙虚で素直な人間になれるってことですか?」

ここで妻が具体的な提案をした。

「そうよ。だから誰に対しても何に対しても『ありがとう』と思う習慣をつければいいのよ」

「なんか怪しげな宗教の勧誘みたいですね」

岸田はアドバイスに難色を示したが妻は引き下がらない。

「『袖触れ合うも他生たしょうの縁』って知ってるわよね? 道で誰かとすれ違うだけでもそれは偶然ではなく必然だという考えよ。まして田島さんはあなたにとってはすれ違うだけでなくずっと一緒に歩いて行こうって人なんでしょう? だまされたと思うことでもやってみなくちゃ」

公務が忙しいらしくその後二人は姿を見せなかったが、ひと月ほどたって田島が一人でやって来た。カウンターに座って紅茶を飲みながら彼女は言った。

伽羅きゃら先生、聞いてください。最近、岸田さんおかしいんです」

「何が?」と妻が尋ねた。

「何かにつけて『ありがとう』って言うんです」

私も妻も自然に顔がほころぶ。

「こないだの日曜にデートして混んでるアーケードを歩いてたんですけど、すれ違う人とぶつかりそうになるたびに彼のほうがよけるんです。それはいいんですけど、自分が道を譲っておいて『ありがとう』って小さな声で呟くんです。私、気持ち悪くて」

私は笑いながら妻に言った。

「まさに袖触れ合うも何とかだね」

妻も笑いながら田島に岸田の変貌ぶりの種明かしをした。それからさらにひと月ほどしてまた田島が一人でやって来た。

「アッハッハッハ!」

田島はドアを開けるなり腰を折ってゲラゲラ笑い出した。

「どうしたの、いったい? はしたない」

一般の客と違って元の職場の後輩だから妻も言葉づかいに遠慮がない。

「すみません、彼の顔を思い出して」

そう言いながらもなかなか笑いが止まらない。妻はカウンターごしに田島が注文もしないのに紅茶を出した。

「何があったの?」

田島は紅茶を一口飲んで笑いをおさめて説明した。

「昨日仕事を終えて帰宅するときに彼と一緒にバスに乗ったんですけど、混んでたので並んで立ってたんです。そしたらバスが揺れた拍子に私、彼の足を踏んでしまって」

また笑い出しそうになって田島は紅茶を飲んだ。

「彼、ちょうど痛風の発作が出ていておまけに私はハイヒールを履いていたんです。だからとっても痛かったはずなのに彼はとっさに『ありがとう!』って言ったんです。激痛に眉をつり上げて歯を食いしばって『ありがとう!』って。その顔があんまりおかしくって私、バスの中なのに大笑いしてしまいました」

そう言って田島はカウンターに左手のひじを突いて肘から先を垂直に立てた。薬指に婚約指輪が見える。

「彼があの顔で言った『ありがとう!』を思い出せばどんなことでも乗りこえられると思って決心しました。昨日の夜、プロポーズされたんです」

そして彼女は紅茶を飲み終えると「ごちそうさま」と言って幸せそうな顔で出て行った。彼女がドアを閉めると私は妻に言った。

「あんなのろけを聞かされたらこっちが『ごちそうさま』と言いたいね」

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