第2話 刑事は老婆のあつかいに困っています
忠野刑事が再び顔を見せたのは最初の来店からひと月ほどたった頃だった。
「いらっしゃい、刑事さん」
「マスター、『刑事』は止めてもらえませんか。それに丁寧な言葉遣いもこそばゆいです」
「分かったよ、
「嬉しいです。親父と話してるみたいです」
そう言って微笑んだが慶ちゃんはすぐに真剣な顔になった。
「今日は仕事でお邪魔したんです。ある事件の現場検証なんですが、後で駐在の巡査も来ます」
お冷を運んできた妻が言った。
「ひょっとしたらシズさんの件じゃありません?」
「え、どうして分かるんですか?」
説明はあなたに任せるわという顔で妻が私を見た。このクラウドに時々80歳を過ぎたシズさんという一人暮らしのお婆さんが立ち寄る。重そうな買い物袋を提げて歩いているの見かねて妻が声をかけたのがきっかけだった。
「休憩がてらお茶でも飲んでいきませんか。お代は結構ですから」
それ以来シズさんは買い物帰りにウーロン茶を飲んでいくようになった。私たちが代金を受け取らないのでシズさんは時々買い物袋の中からバナナなどを出して置いていったりする。1週間ほど前、そのシズさんが妻に頼みごとをしてきた。ある若者を連れてくる、自分は一足先に出るが店のドアの外に財布を落とす、若者がそれをどうするか見届けてほしい。妙な依頼だが何かわけがあるのだろうと思って妻は引き受けた。それから数日後のことだった。
「コン、コン、コン!」
妻が咳をしたのが合図であるかのようにシズさんが一人の若者を連れて来た。二人は窓辺のボックス席に座った。シズさんは若者のために大盛りのピラフを注文し自分はオレンジジュースを飲んだ。
「おっかさんが亡くなってこれから一人でどうするんだい?」
「とりあえずバイトしながら職をさがします。けど、借金の取り立てが厳しくて」
「馬鹿だね、闇金融なんかに手を出すからだよ」
カウンターの中にいても二人のやり取りは聞き取れた。それからも二人はしばらく話をしていたがシズさんが立ち上がった。
「まあ、せいぜい頑張るんだね。じゃ、アタシは帰るよ」
そう言って二人分の支払いを済ませ、シズさんは妻に目配せをして出て行った。少したって若者もピラフを食べ終えて立ち上がり、私と妻に「ごちそうさま」と声をかけて店を出た。その後妻と一緒にドアを開けて見てみると財布は見当たらず、若者は店の前の道路を渡って急ぎ足で立ち去るところだった。
「ママさん、どうだった?」
翌日、シズさんがやって来た。ということは、若者が財布をシズさんの家に届けに行かなかったことは明らかだ。
「すぐに確かめましたけど財布はありませんでしたよ」
「あいつが持って行ったんだね。まあ、それはそれでいいさ」
「彼とはどういう知り合いなんですの?」
「このあいだアタシが米を買って帰ってたら、重いでしょうって持ってくれたのさ。家に上げてお茶を出したらめそめそ泣き出してね。寝たきりのおっかさんの世話をするために仕事を辞めて、お金がなくなったんで闇金からお金を借りたって言うんだよ」
ウーロン茶を差し出しながら私は言った。
「また何で闇金融なんかに?」
「無職だからどこも貸してくれないんだろうさ。家賃も滞納してるからアパートを追い出されそうだって泣くんだよ。それでアタシがお金を貸してやるって言ったんだけど、返せないから結構ですってさ。そんなところは頑固なんだね」
ウーロン茶をすするシズさんに妻が尋ねた。
「財布をわざと落としたのはどういうおつもりだったんですか?」
「ここかアタシの家に正直に届けたら、失くしたもんだと諦めてたからって言って無理にでもくれてやるつもりだったんだよ」
「残念ながら届けませんでしたわね」
「あいつが借金を返す手助けになるならいいさ。20万ばかり入れといたから」
シズさんは少し寂しそうに微笑んだ。私は20万という金額に驚いた。
「たった一度荷物を持ってくれたってだけで、よくそこまで」
するとシズさんは私の顔を正面からじっと見た。
「たった一度? マスターは簡単に言うけど人の情けはお金には代えられないよ」
シズさんが帰ると妻が言った。
「大事なことを教えてもらったわね。人の情けはお金には代えられないって」
「うん。小さな親切でも身寄りのないシズさんには宝物だったんだろうな。財布を持ち逃げされたことよりも、もう彼に会えないことを寂しがってるように見えたよ」
と、私がここまでのいきさつを話すと慶ちゃんは考えこんだ。
「そうだったんですか。すると話が少し複雑になりますね。田渕という青年が自首して来たんです。滝田シズさんという人の財布をねこばばして借金の穴埋めにつかったと言って」
そこへ駐在所の巡査がシズさんと田渕青年を連れて入って来た。シズさんが慶ちゃんに言った。
「だから刑事さん、昨日も言ったように財布ごとくれてやったんだよ。この子がお金に困ってるって言うから」
青年も慶ちゃんに訴えた。
「違います。財布はこの店のそのドアを開けたところに落ちてたんです。悪いとは思ったけど借金取りに追いかけ回されてたんで黙って持ち逃げしたんです」
「困りましたねえ」
慶ちゃんは私を見て本当に困った顔をした。シズさんが悪態をついた。
「なあに刑事さん、この子は働くのが嫌で刑務所に入ってタダ飯を食おうとでも思ってるのさ。そうに決まってる」
結局、財布の持ち主のシズさんがくれてやったと言い張り被害届を出す気がないので、田渕青年はその場で無罪放免ということになった。慶ちゃんと巡査が店を出たあと妻はシズさんと青年にとりあえずボックス席に座るように勧めた。
「あんたを犯罪者にしたくないから刑事さんの前ではああ言ったけど、お金はちゃんと返してもらうよ」
「はい」
青年は元気よく答えた。
「とりあえず、アパートを引き払ってアタシの家に移るんだ」
「え?」
「アパート代を払ってたらアタシにお金を返す余裕がなくなるだろ? 住み込みで職が見つかるまではこき使うから覚悟しとくんだよ」
「はい……」
青年は今度は小さな声で返事をした。
「あのう、どんなことをすればいいんでしょうか?」
「家の掃除とか庭の草むしりとか買い物の荷物持ちとか、いろいろだね」
不安げだった青年の表情がしだいに明るくなっていった。
「まずは手始めに肩を揉んでおくれ」
「はい!」
青年は立ち上がってシズさんの後ろに回って肩を揉み始めた。
「痛い、痛い! 痛いじゃないか!」
シズさんは叱りながら笑っていた。
その日の夕方、慶ちゃんが仕事帰りに立ち寄った。
「あのあと二人がどうなったか気になりまして」
妻が
「というわけで、引っ越しやら肩もみやら彼もとんだ罰を受けることになりましたのよ」
慶ちゃんは目を潤ませながら言った。
「素敵な罰ですね」
シズさんはもうクラウドに立ち寄ることはない。買い物袋を持った田渕青年と並んで歩きながらクラウドの前を通りかかると、窓の外から私と妻ににこやかに会釈をして行き過ぎる。
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