バスタイム

みょめも

バスタイム

私にとってバスタイムはとても大切な時間だ。


お気に入りのソープの匂いでその日の疲れを洗い流して、気持ちもリラックスさせる。

仕事の日でも休みの日でも、毎日の楽しみだった。


でも、今はそればかりではない。


「ねぇ、もう少しこっちに来てくれる?」


お風呂場に彼氏がいるのだ。




事の発端は昨日の夜だった。

いつものように夕食とバスタイムを終えて、私たちは床についた。

その日は2人の気持ちが昂り、シーツの上で愛を確かめ合い、その後まったりとした時間が過ぎた。

私はこの人とこれからも一緒にいるんだろうな。

漠然とそんな考えにふけりながら、ふと隣を見た。

ちょうど彼も私の方を見ていた。


「これからも一緒にいよう。」


「私の手、はなさないでね。」


何度も重ねた唇を、夜が過ぎるのを惜しむように、もう一度だけ重ねた。




翌朝、まぶしさに目を覚ました。

時計を見ると朝の9時を回ったところだった。

休みの日とはいっても、そろそろ起きなきゃと眠気眼をこすろうとした時だった。


手が重い。

どうやら彼と手を握ったまま寝て、朝までそのままの様だった。

端から見れば、なんて甘い事をしているんだとため息をつかれるような状況だけれど、もう朝だ。

愛しい彼のために、遅めの朝食を作らなければならない。

私は絡んだ指をほどこうとした。

ところが、ほどけない。

少なくとも女性のちからでは離れない。

困ったなぁと思うと同じくらい、離れないほど強く握られているのだと思ったら、そんな彼のことが余計に愛しく感じた。


ただ、これは本人に言わなければならない。

熟睡する彼には悪いが、頬を手でポンポンと叩く。

彼は大きな伸びをひとつして目を開けた。


「んんん、あぁ、おはよう。眩しいね。」


「おはよう。そうでしょ、私も眩しくて目が覚めたの。もう9時過ぎみたい。」


彼は時計を見る。


「本当だ。ちょっと寝すぎたかな。」


「そうよね、休みだからっていつまでも寝ているわけにはいかないわよね。

ねぇ、そこで相談なんだけど、手、離してもらえる?」


私は繋がっている手をグイと持ち上げた。

その挙動に彼は驚いた顔をした。


「え?どうして?」


「だって、これじゃあ動けないじゃない。朝御飯を作りたいの。あなたの気持ちは嬉しいけれど手、離してくれる?」


彼は頭を振った。


「いや、それは無理だ。君は昨夜、『手を離さないで』と言った。だから僕は」


反対の手で思いもよらぬ物を出した。


「接着剤、永久接着剤だよ。」


私はポカンと開けたまま動けなかった。


「君が手を離さないでと言ったからだよ。僕だって離したくないけれど、何かの拍子で離してしまうことがあるかもしれないだろう。きっと僕だけの力では君の手を離してしまう。だから」


「だから接着剤?」


彼が何を喋っているのかは分かる。

分かるけど理解できない。

私が言ったのは気持ち的な比喩であって、決して物理的な事ではない。

そこを勘違いする人間がいるなんて考えた事もなかった。


「これ、離れない?」


「心配いらないよ、絶対に離れない!絶対に!」





不幸中の幸い、その日は休日だった。

明日の朝までにどうにかすればいい。

絶対に離れない接着剤などあるものかと、お湯で洗ったり、洗剤に手をつけてみたり、端から少しずつ剥がれないかと爪で引っ掻いてみたりした。

けれど、僅かほども離れる気配はなかった。

寧ろ接着剤が「諦めろ」と訴えかけている様にも思えた。



食事は冷凍食品があったのでどうにかなったけれど、トイレとお風呂は一緒に入らなければならない。

トイレ中は、彼に目隠しとヘッドホンをしてもらって視覚と聴覚を遮断した。

こうでもしなければ恥ずかしくて死んでしまう。


日中は外に出ることをしなかった。

元々インドアな2人だったので、1日を部屋の中で過ごすこと自体は苦痛に感じなかった。

接着剤が離れないか、色々な方法を試みては休憩がてらテレビを見た。

そしてまた接着剤と向き合った。

その間彼は、そんなに離したければ明日病院に行けばいいじゃないか、と呑気に言っていた。

でも、せっかくだから今日は一緒にいよう、とも言った。

彼の純粋な愛ゆえの言葉なのだろうか。




ただ、バスタイムだけはどうにかしたかった。

私の憩いの場が、彼とはいえ他人に侵されてしまうのはどうしても耐えられない。

そして、そもそも服が脱げないことに気づいた。

袖が通らない。

バスタイムはおろか、着替える事もできない。

彼はきちんとそこまで考えていたのだろうか。

そんなわけあるまい、絶対に。

彼の顔を見ると、私と『接着』されていることに満足そうにしている。


その顔にだんだんと腹が立ってきた。

昨日まで愛していた彼に対し、憎しみが愛しさを上回っていた。



服は、接着されていない方の腕と頭を抜いて、接着されている方の腕を通り、彼の肩から顔を覆うようにかける形で何とかバスタイムとなった。

人生でもっとも不服なバスタイムだ。

髪や体を洗うのも上手くいかないし、湯船に浸かっても、人の腕が一緒に入っている光景は落ち着かない。

リラックスのできないバスタイムなど何の意味があるのだろうか。

1日の疲れが落ちるどころかストレスが上積みされるだけだ。


手首を切り落としたら自由になれるのにな。


私ながら恐ろしい妄想をしていた。

そんなことは無理に決まっている。

人の手首なんて簡単に切れるわけないし、殺人になってしまう。

そもそも彼が許すはずがない。

けれど、その時の私はそんな妄想をするくらいにはストレスがかかっていた。




バスタイムが始まって10分か20分か、とにかくしばらく時間が経った時だった。

突然、事態は急転した。

ずるり。

接着された手に、今までとは違う感触があった。

湯船の中で何か変化が起きていた。

湯の中から手を挙げてみると、親指の付け根あたりが離れかけていたのだ。


「えっ!?」


私たちはお互いに顔を見合わせた。

もっとも、彼の顔には私の服が覆い被さっているので推察に過ぎないけれど。


もう一度湯の中に手を入れる。

すると、さっきよりもさらにはっきりと手が離れていくのを感じた。親指の付け根の剥がれた箇所から湯が入り込んでくる。

そして内側から徐々に接着剤を溶かしていく。


「離れてる!ねぇ!離れてるよね!」


「うん、離れてる!お風呂から出たらもう一回塗り直そうね!」


彼の言葉には耳を貸さず、私は指で湯の手助けをしながら接着剤を剥がしていった。

今日1日ずっと接着していた手が、ついに根負けし始めたのだ。


そうして、時間をかけながら、ついに手と手は完全に離れた。

久しぶりに見た自分の手のひらは、湯でふやけていたが、まだ接着剤が残っているのかテカテカと光ってもいた。

そして次の瞬間、どっと1日分の疲れが押し寄せてきた。

全身から疲れが湯に流れ出ていくのが分かる。

私は浴槽にもたれ掛かり、天井を仰いだ。

「だああぁ~」

声が浴室に響く。

これぞバスタイムだ。



今からは人生でもっとも至福のバスタイムになるだろう。

そう思い、ふと彼の方を見た。

彼は、私と同様に自分の手のひらをじっと見つめていた。

ただ、私とは対照的に、彼は肩を落としていた。

覆い被さった私の服越しに分かるくらいに、寂しそうな顔をしていた。


「…じゃ、バスタイム楽しんで。」


何かを諦めたように立ち上がると私の服をまるめ、お風呂場のドアを開けた。


さっきまで憎しみが込み上げていたのに、私はその姿に何故かとても切なさを感じた。


「あのさ……今日くらい、一緒に入らない?」


ドアにかけた彼の手が止まった。


「何か、手が離れちゃったら、思いの外物足りなさ感じてるっていうか。」


「今日、ずっと一緒にいたから、どうせなら最後まで一緒でもいいかな……みたいな。」


比喩ではなく物理的に私の手を離さなかった彼だけど、その気持ちに嘘はなかったんだろうなと思った。

そう思うと、憎しみこそ感じていたけれど、一緒に1日を過ごしてみて彼の素敵なところも嫌なところも知ることができたこの日は、何か特別めいたものだったのかもしれない。

気持ちを言葉にするのは難しかったけれど、彼には伝わったようだ。

服を脱ぐとそっと、バスタイムという私の領域にからだを沈めた。


「熱くない?」


「そう?私はいつもこれくらいが好き。」


いつも一人のバスタイムだったけれど、たまには、本当にたまにはこんな日があってもいいかな、なんて思った。



「ねぇ、もう少しこっちに来てくれる?」



そう言うと私は、彼のまだ冷たいからだに身を寄せるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バスタイム みょめも @SHITAGOD

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ