第10話

 これが最後だ。

 そんな直感が生まれてきたのは記憶を取り戻したからなのか、あるいは、虚無にも似た何もない空間が広がっていたからなのか。

 目を開けると、何もなかった。手の中にずっとあったおりんでさえもなかった。

 何もないというのを脳は認識しない。そこに闇という物質が存在するという形で補完する。

 実際、これまでの旅路は形のないものだった。少なくとも、私とさとりが生み出したまやかしにすぎない。

 私とさとりは現在進行形でつながっている。比喩ではなく、文字通りの意味においてダイレクトにコネクトし、精神世界を共有している。

 サイコ・コンピュータ。そいつの中では一種の仮想空間が形づくられる。リンゴで窓を動かす際に――その逆でもいいが――つくられる仮想マシンとほとんど変わらない。

 P・Cサイコ・コンピュータ内の仮想空間で動かされるのは、パソコンでいうところのOSにあたる、私やさとりの意識である。

 心理物理学、ひいてもクオリアの研究のために生み出された機械がP・Cだ。ヒトのニューロンの配置を再現し、統合情報理論に従いエミュレートするためのもの。

 そんなP・Cを仲介させ、心と心をつなぐとどうなるのか。

 複雑なシステムができあがり、限定的ながら、自己と他者の意識が一つになるのだ。

 意識の統合。

 そうすれば、一種の植物状態に陥ってしまったさとりを助けることができるに違いない――心理物理学を研究していた私はそう結論づけた。

 で、私はさとりの深層心理にお邪魔しているというわけだ。

 正確には、私とさとりの、ということになるが、その区別は曖昧なものとなっている。……はずなんだけど、はっきり違いが出ていた。

 転々とした世界。あれは意識のメタファーといえる。どの世界がどちらのものかは言わないでおこう。さとりが恥ずかしがるだろうし、私だって恥ずかしい。

 考え方や生き方の違いは心の違いとなり、意識統合の障害となった。そして、私は一時的に記憶喪失になってしまった。意識と意識の違いが大きく、私の意識がさとりの超自我に異物扱いされたんだろう。精神をおだやかにするおりんといえども、グランドキャニオンを埋めるには足りなかったのだ。

 あるいは単に、合わさった意識が対消滅しかけただけなのかもしれない。その危険性は大いにあった。世紀の大実験であり、無謀な実験、実験という名の無理心中とか、みんなからは言われたっけ。

 誰が聞いてるわけでなし、私は説明をしてみる。そうでもしなきゃ虚無空間で頭がどうにかなりそうだった。心象世界がすっからかんなのは、私の宗教観と脳波でフラットラインを描いているさとりのせい。だからって、ここまでだとは思わなかったが。

 そうして、何もない空間をしばらく漂えば、さとりが見えてきた。

 闇に横たわる眠り姫。

 彼女こそは、私が探していた守屋さとりという人格が持つイド。

 オーバードーズによって失われた無意識。

 こうなったのもすべて、さとりの責任といえばそうなのだ。でも、彼女をここまで追い詰めたのは周囲の責任だし、私の責任でもある。

「いや、こう考えるのは傲慢なのかな……」

 呟いた言葉に返事はなかった。

 さとりが過剰摂取したのはフラットラインと呼ばれる合成薬物だ。脳波を直線にし、御仏の境地に至れる、自我から解放されると言われたオピオイド系化合物。当然、違法薬物として取り締まりが行われるようになったが、一週間の間に、相当数が出回ったという。

 なぜ、さとりがフラットラインを入手できたのかは今もわかっていない。だが、結果として彼女は植物状態となった。脳波の異様な落ち着き。波はあまりに小さく、生きているのか死んでいるのかさえ、研究が進んだ今でもわからないままだ。

 でも、かろうじて脳死ではない。

 さとりは生きていて、私は十年の眠りを解くためにここまでやってきた王子様というわけだ。ここなら――意識の最深部であれば、今なお動き続ける超自我に邪魔されることなく、無意識に強いショックを与えることができる。

 彼女の意識は薬物という寒さによって、一時的に冬眠しているだけなのだ。だから、誰かが春の訪れを教えてあげたら、それで目を覚ます。

 暴風のような荒々しく温かい風を吹きかけてあげたらそれでいい。

 私は大河のようなさとりの髪に指を通す。長く伸びた髪は想像以上に柔らかで――ここが現実ではないとわかっていても――うらやましいと感じちゃう。私なんかは、くせっ毛だから。

 さとりはすうすう息をしている。まるで眠り姫のように。

「なんてね」

 自分で言ってて恥ずかしくなってきた。でも、これは一夜の夢のようなもの。そうなると、終わりはすごく大切。

 夢って最後の方しか覚えてないよね。刺される夢とか、億万長者になったものの全財産を失う夢とか。

 誰かにキスされる夢とか。

 そんなメルヘンなことを考えてしまうのは、この前読んだ本のせいか、あるいはさとりの意識のせいなのか。照れくさくなるから、自分にこんな一面があるだなんて思いたくなかった。

「……よし、決めた」

 私は、さとりの肩に両手を這わせる。彼女の肩は、記憶の中の肩よりも柔らかく、こわばっていない。

 正面から見るさとりはやっぱりかわいかった。自信を持ちさえすれば、今すぐにだって人気者になれる。きっとそうに違いない。

「これで、元気出して」

 私は顔を近づける。

 唇と唇とがゆっくりゆっくりと引き寄せあって。

 触れた。

 ビックバン。

 夜明けの光が真っ黒の世界を、私をともども塗りつぶしていった。

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