第5話

 私は再び歩き出す。

 目の前には血痕が続いており、最後に見た少女のことを思い出さずにはいられない。

 守屋さとり、あるいは私。

 私は守屋さとりなのか、あるいは守屋さとりが私なのか。

 トートロジーみたいだと知りもしないのに思いながら、私はひたすら足を動かす。

 風のない一面の白銀。

 清純な世界を歩くものは私しかいない。呆然と立ち尽くし、その場で凍死したいと思わせる不気味で美しい世界を、黒い足跡で汚していくのも私だけ。

 たまに吹く風には助けられた。でなければ、私はどこを歩いているのかわからなくなっていたことだろう。ローファーの跡が残っているとはいえ、自動生成されている可能性だってある。

 一秒前のことが繰り返されているローディング地獄。

 でも、吹く風がそうではないと教えてくれた。髪が揺れるたび、雪の絨毯がめくれ上がる。

 氷の下には、たいてい何かが埋まっている。その何かは別に公園だけではなかった。

 コのかたちをした学び舎だったり、車道を駆けぬける黒猫だったり、HBのシャーペンの芯だったりもする。なんで、二本の小さな棒っ切れがシャー芯だとわかったのだろう。自分でもよくわからないが、たぶん、そうなのだ。

 そんな気がするんだ。

 でもやっぱり、氷はすぐに覆い隠されていく。チラリズムなどではなく、どちらかといえば、覗きに気が付いたシズカちゃんに近い。つまり恥ずかしいってことじゃないかな。だから、風が吹く。吹いて雪で埋めつくす。

 そんな雪と氷と血の雫でできた世界をどれほど歩いただろう。同じ景色がどこまでも広がっているようにしか見えないし、フラグを拾い損ねたRPGみたいに同じ瞬間を繰り返していただけなのかも。

 パッと目の前に建物が現れたのは、本当に唐突だった。

 瞬きの次の瞬間には、そこに建物があり、まるで瞬きを待っていたかのような気さえする。

 その建物は、建物と呼ぶのが失礼なほど崩壊していた。

 屋根はなく壁すらほとんどない。かろうじて残っているのは、柱と床と入口らしい片足のアーチと、そこへ伸びる石畳。

 そのほかすべては雪に埋もれていた。

 血しぶき残る石畳へ近づいていけば、板切れが落ちていた。

 拾い上げれば、シンと冷たいプラスチックに『海月保育園』というポップな文字。

 海月というのはどうやら地名らしい。それに、この建物は保育園だったのだろうか。

 雪に看板を突きたて、見上げた廃墟は保育園とはあまりにほど遠い。

 でも、石畳の先のアーチには傾いたイルカの看板があり、そのファンシーな目は、ここが保育園だったことを切実に訴えている。彼ないし彼女の言葉を尊重することにし、私は園内へと入っていく。

 保育園の内外を分けるものはまったくなかった。壁はないし、微風とともに白い粒子が朽ちたフローリングに上がってきている。これじゃあ外と何も変わらない。

 廃墟はそれほど広くなかった。教室ほどの広さだろうか。木製のフローリングは傷だらけ。それが人工的なものなのか、侵食されたものなのかは、ぽっと出の私にはわからなかった。

 そのほかには何もなかった。

 ふと、廃墟の奥へ血が伸びているのに気が付いた。出血した誰かはあっちへ向かったらしい。その誰かさんの足跡はなく、振りかえってみても後ろには私の足跡しかない。白一つない蒼穹に動くものは一つだってない。当然、出血するUFOなんかもいなかった。

 世界で動いているものは、私か、ときおり吹きつける風くらいのもの。

 血を追いかければ、朽ちかけたフェンスに囲まれた空間が見えてきた。セピア色の地面は久しぶりに見た色彩で、なぜだかそこだけが雪に覆われていない。それを私に見せたがっているかのようであり、そこだけは神様であっても隠すことのできなかった不可侵領域なのかもしれなかった。

 その、雪に囲まれているにしてはあまりに乾燥しているグラウンドの上には、二人の少女が向かいあっている。保育園というだけあって、歳は7歳とか8歳とかそのくらいだろうか。

 一人はツインテールの少女。

 もう一人は長い髪の少女――おそらくは幼い頃のさとりだ。背中しか見えないのに、私はそう直感した。少なくとも、彼女の前の少女はさとりじゃない。あんな竹をも割るような睨みを利かせる彼女はちょっと想像できなかった。

「さとりのこと、嫌い」

 ドストレートな言葉を受けても、さとりは動かなかった。いや、動けなかったのだろう。溺れかけた金魚のようにその小さな体は震えていた。

 彼女は言葉を発しようとも、走り去っていく少女のことを追いかけようともしない。根が張ったかのようにその場からぴくりとも動かない。

 私は、幼いさとりの手に握られているカラフルなものが目に入った。途端、それは彼女の手からすべり落ちる。

 落ちたそれを拾い上げることなく、さとりは反対方向へとぼとぼ歩いていく。あのツインテール少女から逃げるように。

 両者の姿が見えなくなってから、私はグラウンドへ出た。

 陰から見ている分には大きかったグラウンドは案外小さかった。高校生になって小学校に戻ってきたら、その鉄棒の低さ、下駄箱の小ささにびっくりしてしまった時のよう。

 時が止まったグラウンドの真ん中には、さとりが落としたものが今も残っている。

 大地に突きささるような格好のそれを引き抜けば、意外にも土煙で汚れていたからティッシュで拭いとる。

 茶色の下に隠されていたのは、カラフルなビーズ。

 アイロンビーズでできた平面的なさくらんぼ。

「うわ、なつかし……」

 記憶もないのに懐かしいとはこれいかに。でも、胸の中をこみあげてくるのは、カイロの発する熱のようなじんわりとした思い出。思い出そのものは失われても、出来上がったばかりのアイロンビーズの温かさははっきりと覚えていた。

 その多様なピンクと緑でできたさくらんぼは、軸の部分と果実で三つに分かれてしまっていた。緑、ピンク、ピンクみたいに。

 どうしてそうなってしまったのか。

 誰が、何がそうしたのか。

 答えてくれそうな子たちはすでにいない。

 私は少女たちが消えてしまった方向を交互に見てみる。足跡は、やっぱりない。

 でも、血跡は残っている。肩を落としたさとりが歩いていった方向だ。

 さくらんぼの残骸をポケットへ滑り込ませてから、私は再び燃えるような赤を追いかけることにした。

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