第4話

 目覚めると、やっぱりおりんを持っていた。

 セーラー服というところも変わらない。なぜか冬服だったけれども。

 腕を覆い隠す紺色の袖、チェックのスカートは何の改造も施されておらず膝小僧をきっちり隠している。それから、特徴のない黒い靴下、茶色のローファー。

 地面には雪が積もっている。白い絨毯は冷たく、社会の息づかいを微塵も感じさせない。

 でも、人の存在がないわけではないらしい。

 赤い点々。

 どこか鉄臭い赤のシロップは雪原の向こうへまっすぐ伸びている。

 私はうねる白の向こうへ消えるその痕跡を、ヘンゼルのように追いかけてみることに決めた。ほかに何もなかったし、心もそれがいいと言っていた。

 雪は降ったばかりなのかふかふかで、ローファーが埋まってしまうほどに積もっている。サックサックぎゅむぎゅむ。足を動かすたび雪を踏み固めるたびに、純白の雪が黒く汚れていく。ちょっと申し訳なくなるけども、進むためにはしょうがない。

 この血を追わなければ。

 心のボイラーから湧き上がるこの切羽詰まった感情は、一体何なのか。考えてみたが、頭の中には雪原のように何もなかった。

 いや、たいていの記憶は残っている。たとえば、雪はわかるしセーラー服も覚えている。

 でも、自分の名前はなぜかわからなかった。

 クシュン。

 くしゃみが出た。あたりは冷凍庫にいるみたいに寒い。冬服といえども冷気を遮ることはかなわないようで、体が震えた。そんなの生足を晒してるからにほかならず、記憶を失う前の自分が恨めしい。なんでタイツを履いてこなかったのか。

 そういえば『クラゲ』では雪の積もったところを見たことがない、ということを思い出す。まったくどうでもいいことだった。

 いよいよ寒さは私の歯をガチガチと鳴らせて、透明な液体が鼻から落ちてきてはすすりあげる。

「そうだ」

 ようやく気が付いたのだが、セーラー服に何か便利なものが入ってないだろうか。私は女の子みたいだし、ティッシュひとつハンカチ一つくらい持っていてもおかしくなさそう。願わくば、ポカポカのカイロが入ってると嬉しいんだけど。

 私はスカートのポケットをまさぐる。ティッシュが入っていた。おりんの上に、おりんの棒を乗せ、片手で鼻をかむ。スカートの中は新品だったティッシュだけ。

 一縷の望みをかけ、セーラー服の胸ポケットをまさぐる。何か、薄くて硬いものがあった。

 取りだせば、それはカード。

 守屋さとりと書かれたカード。

「…………」

 先ほど見た、少女の陰気な顔が私をじっと睨んでくる。カードに貼りつけられた不景気な顔はどこで撮ったものなのか、きついライトが険しい表情を一層厳しいものとしていた。その下には海月女子高校の文字と校章がある。

 裏面には、こまごまとした文字が書かれていた。校則の抜粋や「拾得者はご連絡ください」とご丁寧にも電話番号まであった。

 私は出てきたものをしげしげ眺める。

 なぜ、さとりの学生証が胸ポケットから出てきたのか。それが示す事実は限りなく少ない。というかほとんど一択だ。

 私はペタペタ顔を触ってみる。別に変わったところはない。頬や額に傷があるとか、メガネをかけているだとか、あるいは髪を剃り上げているということもない。いたって普通。

 だから、さとりとの違いはない。「お前は守屋さとりだ」とプラスチックカードに言われてしまえば、そうなのかなあ、なんて私は思ってしまう。

 じゃあ、なぜ、私は私自身を見ていたんだろう?

 手を白銀に晒してみる。

 ベージュの小さな手。不健康な色をしているのは寒さのせいなのか、背景の白のせいなのか。

 その場にしゃがみ込んで、雪をすくってみる。

 左手いっぱいの雪は体温で溶けていき、手にはかじかむような冷たさと後悔とがしずくとなって残るばかり。

 私は濡れた手でポケットをまさぐる。そのたび、服と服との隙間から冷気が入りこんで私をあざ笑った。手のつめたさに踊らされるように、その場をぴょんぴょん飛び跳ねる。

 そのたびに白いものが舞った。それは赤い道を覆い隠すほどではなかったが、絨毯を引っぺがすくらいのことはできた。

 雪の下には氷があった。アクリル板のような分厚い氷の中には公園が埋まっていた。

 ブランコ、鉄棒、うんてい、よくわからないコンクリート製の山、赤い木の実をたわわに実らせた木々……一通りの遊具がそろったこぢんまりした公園だ。

 公園の中心には、二人の少女が膝に手を当て向かい合っているのが見えたが、彼女たちは停止ボタンを押されたようにピクリともしない。そりゃあ氷の中なのだから何もかも凍っているに違いないが、今にも動き出し、ぎこちない会話を行いそうな感じもあった。

 私はしばらく氷漬けの公園を眺めていた。

 不思議と寒さは感じなかった。私自身が氷の中に入ってしまったみたいだった。

 吹き飛ばした雪が、サラサラと動く。

 途端、風がびゅうと吹いた。服を、髪をばさばさ揺らす強風は、しかし、不気味なほどに冷たさを感じない。

 表情のない風は、露わとなっていた凍てついた地面に雪をかぶせていく。

 地面が完全な白に埋め尽くされたところで風が止んだ。安堵したような油断したようなそよ風が、私の頬を撫でた。

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