第2話
幸い、私にケガはなく相手の車にも傷はなかった。
小さくなっていく不機嫌な排気ガスに、私は頭を下げることにした。それから、あたりの様子を窺う。
人々は、歩道に突っ立ってキョロキョロ見回している女子高生なんか目に入らないみたいで、セカセカセカセカどこかへ急いでいる。大きく胸を膨らませれば、大通りのやかましさと朝のすがすがしさ、鮭かなにかが焼ける香りがした。
車道を挟んで向こうの歩道を女子高生が走っている。スカートをはためかせ、モグモグ頬を動かしながら向かう先には学校。
どうして気が付かなかったのか。車道の伸びる先には立派な校舎が横たわっていた。
私は走る女子高生へと視線を戻す。そこで気が付いたのだが、彼女が着ている制服は私のと一緒だ。
彼女の右手には、いかにも何も入ってなさそうな薄い学生カバン。
私の右手には、朝日を受けようと光らないおりん。
何度か見比べてみたが、金属製の物体が合皮製のカバンに変わることはない。そりゃああるわけがないのだが、なんで変わると思ったのか。私にもわからなかった。
わからないことといえば、もう一つ。
私は吸い込まれるようにその校舎へと向かっていたということ。
意識と無意識とが二人羽織になってしまったかのような、そんなちぐはぐさを感じながらも、それを受け入れて、立派な門をくぐり抜ける。
海月女子高校。
青銅色の門扉にはそんなプレートが打ち付けられていた。名前は何と呼ぶのだろう、まさかクラゲなわけはあるまいし。でも、あだ名は絶対『クラゲ』な気がする。
私は、恐る恐る歩いていく。周囲のセーラー服と、彼女らに挨拶している男物のジャージ。それらすべてが私のことを見ている気がして、右手と右足が一緒に出ちゃいそうになる。
でも、何も言われなかった。教師と思われるジャージ男の目前を通ったのだが、部外者だろと咎められることはなかった。やはり、私はこの学校に通っているらしい。
ホッと一息つきながらセーラー服の流れに身を任せ、昇降口へ。
開け放たれた昇降口では、スズメのさえずりのような姦しい声が反響しあっていた。
「今日、○○のクレープ半額だって」
「え!? アイツら付き合ってんの」
「五組の守屋っていつも何してんだろなー」
……などなど雑多な言葉がぴーちくぱーちく。
困ったことに、私は昇降口から出られずにいる。私は名前がわからない。名前がわからないもんだから、どの靴箱が自分のものなのか見分けがつかなかった。
まわりの生徒たちは会話をしながら、靴箱からおめでたそうな色の上履きを取りだし履いて、つま先をトントンさせている。私もトントンしたい。罰を受けた生徒みたいに突っ立ってなどいたくない。
不意にチャイムの音が鳴った。ひび割れた音に、私の心臓はドキリと痛む。ウェストミンスター寺院の鐘の音を模したもので、そのありがたい音色が鳴った瞬間、生徒たちは会話をやめて、各々走りはじめた。
私にとっては全然ありがたくなかった。むしろ、閻魔様の前に呼び出されたような気さえした。おまえ、どうして下駄箱の前に突っ立っているんだ、と問いただされているようで。
昇降口の入り口からはどたどたという足音がし、転がり込んできた生徒は、上履きを履くことなく土足のまま階段を駆け上がっていった。
キンコンカンコン。
チャイムが鳴り終わると、昇降口は台風の過ぎた後のように静かになった。騒がしかった生徒たちの黄色いさえずりは今はもうしない。その静寂の中、私は廊下へそっとつま先を伸ばした。
土足許可。
気がつけば、記憶にはない張り紙が壁を埋めつくしていた。
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