眠り姫には目覚めのキスを

藤原くう

第1話

 目を覚ましたとき、私の手にはおりんがあった。お寺とか仏壇に備えつけられているお椀状のアレだ。それを握りしめていた。もう片方の手にはおりんを叩く棒。

 それが何なのかはわかった。

 でも、どうしてそんなものを持っているのかがわからない。

 というか、私の名前さえわからない。

 理由は見当もつかなかった。頭の中をまさぐってみてもぼんやりとした空間が広がっているだけ。今の私を叩いたらカーンと間の抜けた音がするに違いない。

 自分自身を見てみればセーラー服を着ているらしい。シワ一つ改造一つないセーラー服。私が記憶している限りでは、女子高生が身に着けていることが多かった。ということは私は女の子なのかな。

 くるりとスピンすればスカートがひるがえる。自転しながら、辺りを見回してみる。

 まわりはあまりに白かった。霧か霞か、周囲を覆いつくす白いベールの先は、私の頭みたいにはっきりしない。

 回るのをやめて立ち尽くす。

 これからどうすればいいんだろう。

 そう思うと、胸に漠然とした焦燥感が浮かんできた。誤って手を切ってしまったときのようなヒリヒリじりじりした感覚。

 私はぽっかり浮かんできた焦りに引っ張られ、わけもわからずおりんを叩いた。

 ゴーン。

 ハンディサイズにしては、来世にまで届いていきそうなほど、ずっしりとしていて厳かな音が響いていく。清らかな音色は焦燥感を洗い流し、私は不意に目的を思い出す。

「……いかなきゃ」

 どこに行けばいいのかはわからない。でも、行かなきゃいけないという気持ちだけは何よりも強かった。焦る心に従って、ミストの中へ足を踏みいれる。

 漂う霧が濃密な泡のようにまとわりついてきた。泡と違うのは窒息しないですむということだけで、そのうっとうしさは何も変わらない。

 私はまた、おりんを叩いていた。なぜそうしようと思ったのかやっぱりわからない。そうすれば何とかなる――そんな絶対の信頼だけはなぜかあった。

 金属が振動し、音を奏でる。おりんを持つ手が安堵に震えるたび、白いしっとりした粒子が晴れていった。音波によって吹き飛ばされたかのように。

 なにかを覆い隠すような白がなくなると、ピンぼけした世界が輪郭を得ていく。

 そこは道だった。

 私は車道のど真ん中に立っており、ぱちりと瞬きすれば、目の前から一対の眩い光が私を――。

 つんざくクラクション。

 すり切れるようなブレーキ音。

 思わず目を閉じた私を取り囲む、焼けたゴムの曲がるような臭い。

 恐る恐る目を開ければ、目の前の車から、困惑と恐怖と怒りをミックスさせた男が下りてこようとしていた。

 でも、そんなのはどうだってよかった。

 霧がかった世界が一瞬にして街へ変わっていたことに比べたら、ささいなことだ。

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