離さないでと乞うて

九十九

離さないでと乞うて

 暗い暗い座敷牢の中、誰も彼もに手離されてそこにいた。家の秘密がけして表に出ないように、深く隠されて、女は一人眠っていた。


「おはよう。見つけたよ」

 しんしんと冷える夕暮れ。声に目を開ければ、枕元に丸い色眼鏡を掛けた男がいた。黒い見た事がない装束をしている。正確な年は分からなかったが、多分、年上のようだった。

 ぼんやりとする意識の中、女は微睡から未だに起き上がれずにいた。布団の中で丸まるようにぼんやりと首を傾げる。

「だれ?」

「新しい世話役」

 嘘だと思った。世話役はもうずっと決められている。けして変えられることはないはずだった。

 だって変えてしまえば、この家の秘密が広まってしまうから。秘密を知る人間は少ない方が良いと、皆知っている。

 だから新しい人間に変わるはずがない。変わったとしたら、それは。

「死んだよ。前の世話役」

 前の世話役が死んだ場合だけ。

「死んだ」

「うん、死んだ」

 今日の夕餉を何にするか、そんな風に何でもない事のように落とされた言葉に男の顔を見上げれば、彼は目を細めて女を見ていた。

「好きだった?」

「?」

「前の世話役」

 問いに緩く首を振る。好きではなかった。こちらを見る目も、何もしていないのに行われる折檻も、髪を引っ張る手も、好きではなかった。

「なら、良かった」

 男は嬉しそうに笑って、これから宜しくね、と呟いた。三日月に細められた目の奥で、何かが灼かれていたのを確かに女は見た。


「おはよう、はいこれ」

 未だ寝ぼけ眼で差し出されたものを受け取れば、それは犬の人形だった。上等な布で出来ているのか、手触りが良い。

「これ……」

「あげる」

「ありがとう、ございます」

 男が世話役となって数日、彼は女の元に毎日何かを運んでくる。

 最初は毛布。次には未だ新しい敷き布団。そうして柔らかい枕を数個。暖房に甘味に人形。女の座敷牢は物が溢れていく。

「はい、じゃあ今日も食べれるだけ食べてね」

 差し出された盆の上、お椀の中からはほわりと湯気が立ち、とろりと炊かれ白色が覗く。作り立てのような温かい食事も、日に三度の食事も、男が訪れてから変わったものだった。

「いただきます」

 にこにことこちらを眺める男の傍、箸を取って考える。

 毎日のように持ち込まれる物、温かく三食に増えた食事、これらを女を隠したがっているあの家が、当主が認めるだろうか、と。いや、認める筈がない。誰にも漏らさぬよう隠したがっている女を、あからさまに存在を示すような事はしないだろう。

 それに、とお椀の中を見る。ここ最近、身体の調子が良い。未だ起き上がる事は出来ないが、日に三度も起きれている。多分、食事に薬が混ぜられて居ないのだ。隠すために、逃がさないために、混ぜられていたもの。それを男は混ぜていない。

 そっと男を伺い見た。目が合えば微笑まれ、なあに、と雲みたいなふわふわした声音で問われる。まるで大切だと言うように、色眼鏡に隠された目の奥に情の色が見えた。

「……」

 口を開き掛けて、そうして閉じる。どうして、と尋ねてもはぐらかされる予感があった。

「当主は」

「うん?」

「当主は、今も息災ですか?」

 口から出たのは前置きも何もない問いだった。当主が健在であるならば、男が何かしらの罰を受けないだろうか、と不安に思ったのもある。

「今は生きてるよ」

 男の答えに何かが引っ掛かった。今は。今は生きている、のならこの先は。

「それは」

 これからも、と尋ねようとした口に、ばつ印を作った人差し指が重ねられた。

 男の唇が弧を描く。

「俺は信用されてるから、心配しなくても大丈夫だよ」

 視線が食事と贈り物を滑って、女の元へと帰ってくる。

 男の言葉は嘘だと分かった。あの家が、あの当主が誰かを信用する事はない。そう見えたとしても、使えるから使っているだけだ。家の秘密を隠す事に於いては、それは殊更だった。

「そう、ですか」

 けれども、男の言葉を嘘と知っていて、女は飲み込んだ。言葉を口にして、男が来なくなる事が怖かった。世話役として現れてたったの数日。けれども女にとっては、眩く温い数日だったから。

 食事が終わり、今日は晴れているとか、外にはこんな甘味があるとか、男の昔居た町はどうだったかとか、そんな外の話を交わす。

 男と居る時間は、それほど長い時間ではなかった。男が女が眠っている間も居てくれたのだとしても、女の時間は起きている僅かな時間だけ。だからそう多くの時間、男と共に過ごしていたわけではない。

 けれども、その時間が女へもたらしているものは大きい。既にそれは、女の短く小さな人生の中で、手放せないものになりかけていた。

「じゃあ、また来るね」

 横になった女に手を振って、男が座敷牢の扉から出て行く。瞼が落ちそうになりながらも、女はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 男が世話役として現れたあの日から、牢の扉は開いている。


「今日、雪が降ってるよ」

 声に意識が浮上する。目を開ければ、思ったよりも近くに男の顔があった。色眼鏡に女の姿が大きく反射しているせいで、男の目に焦点が合わない。

「雪?」

「そう、雪」

 雪。白い雪。冷たいそれを知っている。記憶の奥底、窓の外に散る雪を見上げて居たのは、未だ幼い少女だった。

「見る?」

 尋ねられて言葉を反芻する。みる、みる、見る?

「雪を?」

「そう、雪を。庭に敷き積もってるんだよね」

 無理だ、と思った。ここから出られない。牢の扉が開いて居たとて、未だ起き上がることもまともに出来ないのだ。

「む」

 無理だと形作る唇に、指が当てられた。男の人差し指は女の言葉を拒む。

「見たい? 見たくない?」

 庭に敷き積もる雪。降る事はあってもあまり雪が積もる事がない地だから、幼い頃は積もった所など見た事が無かった。もしも、見れるのならば。

「見たい」

「んじゃあ、行こっか」

 無遠慮に腕が身体の下に差し込まれ、次の瞬間には女の目線は高くなる。

 男は女を横抱きの状態にすると、座敷牢の中から軽々と運び出し、急な階段をものともせずに登って行った。

 重く厚い蔵の扉を、男は足一本で苦も無く開ける。ぎいい、と金属が軋む音を上げながら、扉は呆気なく開いた。

 火の灯りとは違う、目を刺すほどの眩さに目が眩む。瞼を閉じてもなお、向こう側が明るい。風の音が聞こえて、冷たい空気が女の身体に触れた。

 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、白色が見えた。何の汚れも無い白。開いた目はじんわりと光に慣れていく。

「あ……」

 雪がある。降り積もった雪が、庭を覆っておる。かつて見た土も池も、雪の底に沈み、木には葉の代わりに雪が咲いている。

「どう?」

「こんなに積もってるの、初めて、見ました」

 呟けば、視界が落ちる。どうやら男が屈んだらしい。

 男は足を支えている方の手で雪を掴むと、女の方へと差し出した。女はそれを受け取り、手で包む。

 握られて少し固まった雪が、指先の温度を奪っていく。同時に雪もまた、指先に冷たさを奪われ少しずつ溶けていく。

 女がじっと雪を包んでいれば、指先から温度が消える寸前、男の手が雪を奪っていった。

「あ」

「完全に冷えちゃうから、おしまい。またいつでも見せてあげるから」

 奪われる雪につられて声を出せば、男がそんな事を言う。いつでも。見れるのだろうか、この家の昏い秘密の女に。

 見つめる女の視線に、男が気がついて笑う。

「もう少しだけ、待ってて」

 影が、蔵で出来た影が男の表情を隠す。それでも声だけは泣きそうになる程優しくて、女は腕を伸ばして、男の頭を抱え込んだ。

「寒くなっちゃった?」

「少しだけ」

 女がそう言えば、男は女の上半身に回した手で、規則的に背を叩く。

 この腕が離れなければ良いのに、と、そう考えて、女は強く瞼を閉じた。


 女が座敷牢の中で動けるようになった頃から、座敷牢に来る男の身体からは僅かに鉄錆た匂いがした。そう言う時、男はあまり女に触れない。

「美味しい?」

 固形物が増えた食事に頷けば、男は相変わらず嬉しそうに笑う。

「ねえ」

「はい」

「座敷牢の外に出たい?」

 その言葉は、知っていて尚聞いたような、そんな響きを持っていた。それに頷けば、何かを、何かの背を押してしまうような、そんな気がする。

「外」

「そう、外」

 男の視線と女の視線が絡まる。

 出たいか、と問われれば、答えは肯定だった。

 けれども、と、一瞬躊躇う。その時、座敷牢から出た後、男は側にいるだろうか。

「その時」

「うん?」

「その時、あなたはどこに居ますか?」

 男の色眼鏡に映った己の瞳が不安げに揺れる。なんて事はなく聞きたいのに、失敗している。

 男は少しだけ目を見開いて、そうして少しだけ何かを逡巡するような顔をする。

「どこに居ると思う?」

 男の、何かを乞うような色をした目が真っ直ぐ女を見た。その色に浮かされて、言葉がぽろりと出る。

「傍に」

 吐息のような声だった。

 掠れて小さい声は、けれども男には届いたらしい。男の目が柔らかく細まる。

「じゃあその時が来たら、離さないで、って言って」

 ね、と男が持って来る甘く溶けた甘味のような声が響く。

 女は、色眼鏡に映る自分の顔が、安心したように笑うのが見えた。

 嗚呼、何かの背を押してしまう、と頭の片隅で誰かが言う。けれども望んでしまった。

「外に出たい」

 答えを口にすれば、男の唇が笑みの形を作る。何かの、後ろ暗い何かの背を押される事を望んでいたように、嬉し気に。

 その瞳の奥に赤い炎が揺らめいて居た。

 

 ぎいい。既に、蔵の扉が開く音で目は覚めるようになっていた。

 次いで、男の足音が聞こえる。

「こんばんは」

 いつもの調子で男が顔を出す。ふわりと微かに鉄錆た匂いがした。

「準備出来たから、出よっか」

 にこり、と微笑まれ、女は頷く。

 男に後ろに付いてもらう形で階段を登り、蔵の重い扉を開けて貰う。

 踏み出た外にはまあるい月が出ていた。

「こっち」

 男が先を行く。それに続いて歩いていけば視界の端に見慣れぬ小屋が映った。

「ああ、あれね、豚小屋。豚ってね、なんでも食べるんだよ。まあ、もう直ぐ居なくなっちゃうけどね」

 女の視線に気がついた男が教えてくれる。 

 屋敷の前へと辿り着けば、幾人かの男達が玄関口に並んでいた。皆一様に黒い服を着た男達は、男と女の姿を認めると揃って頭を下げる。

「お疲れ様、宜しくね」

「かしこまりました」

 男が言葉を交わせば男達は恭しく頭を下げ、言葉少なに屋敷の中へと入っていく。

 その後を追うように、男と女も屋敷の中へと入っていった。

 

 屋敷の中は不自然なほど静まり返って居た。何の音もしない。床が軋む音も、扉が開く音も、窓が揺れる音も、人間が居るのであれば聞こえる筈の音がしない。音がするのは女の足元だけだった。

 それに、灯りが付いていない。外から差し込む月明かりだけが屋敷の光源で、暗い影と、輪郭がはっきりとした光が屋敷の中で共生していた。

「おいで」

 呼ばれて、男の後ろに続く。男達の何人かがその前を歩いていた。

 一階の廊下を通り過ぎ、階段を登る。二階まで上がった時、廊下の少し先の当主の部屋の扉が開いているのが見えた。その中に男達は入っていく。

 当主のいる筈の部屋。蔵に入る未だ少女だった女の姿を、窓から冷たく見下ろして居たその場所。僅かに開いたその扉の先に赤色が見えた気がした。

 不意に、視界が遮られる。大きくて無骨な男の手が女の目を覆っていた。

「あれは見なくて良いものだよ」

 柔らかい声。幼子に言い聞かせるかのような声は、けれどもどこか仄暗さがある。

 ばたん、と扉が閉まる音がして、手が離された。

「行こうか」

 離れていく手を目で追いかけていれば、先を示される。再び、月が煌々と照らす廊下の中で、男の後ろ姿を追いかけていく。

 男の足が止まったのは、屋敷の中の最も奥、当主の書斎部屋だった。幼い頃、けして入るなと言いつけられていた部屋。家の者でさえも誰も入れなかった場所だ。

 男が懐から何かを取り出す。月明かりを反射して光ったのは、部屋の鍵だった。それは当主が肌身離さず持っていた物だった筈だ。 

 かちり、と音を立てて鍵が開く。扉が開けば、もう一枚扉が出てきた。それもまた鍵で開ける。

 部屋の中の家具は机と椅子、棚だけだった。幼い頃に想像していたよりは広く、棚にはコレクションらしきものや書類が並んでいる。

 コレクションらしきものが並ぶ棚の中、一番上の棚からガラス張りの箱を引っ張り出すと、男は何かを取り出した。

「はい、これ」

 差し出されて手を出せば、指先に指輪が嵌められる。銀色の指輪。それはずっと昔に見覚えがあった。

「お母さんの形見」

 女の母。この屋敷の娘。指で光るそれは確かに、母の指に嵌っていた指輪だった。

「持っていな」

 男を見上げれば、その視線は指に嵌った銀色を見ていた。

 頷いて、指輪を撫でる。母が亡くなる前に、お前にあげる、と言っていた指輪。けれども取り上げられた指輪。もう戻りはしないと思っていた。

 撫でた指輪が、月明かりの下で柔らかく光った。


「これでもう好きに出来る」

 屋敷から出た夜空の下で、男が大きく伸びをする。ばきり、とわざと鳴らしたらしい肩からは嫌な音が鳴った。

「好きに」

 言葉を反芻すれば、男が、そう、と頷いて、振り返る。

 そうして視線を合わせると、指を二本立てた。

「このままここに残る事も、どっか行っちゃう事も出来る」

 一つずつ折られた長い指を女は目で追う。丁寧に折られた指、握り込まれた拳は、けれども次の瞬間には大きく開かれた。

「どうしよっか?」

 開かれた手とは反対の男の手が、彼の目元に伸びて、色眼鏡を掴む。そうしてするりと外された。

 色眼鏡と夜によって覆い隠されていた男の瞳が、月明かり照らす夜空の下に晒される。

 何かを乞う瞳が、真っ直ぐに女を見ていた。

 答えは、女の中に一つしか持ち合わせて居なかった。

「離さないで」

 袖を掴み、そう乞えば、とろりと溶ける瞳が女を見た。

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離さないでと乞うて 九十九 @chimaira

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