本編

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(スポット)【福井県小浜市 人魚の浜海水浴場】




 「はぁ……」


 夏の日差しに照らされて、私はつい、ため息をついた。

 ここは日本海に面する、人魚の浜海水浴場。人工の砂浜が広がる、きれいな海水浴場だ。私は砂浜の端っこに座って、楽しそうにはしゃぐ水着の子供たちを眺めている。






 夏休みが始まって一週間。

 私とお母さんは、お母さんの実家がある福井県小浜市にやってきた。


 毎年、七月の終わりごろの恒例の帰省だ。お盆にはお父さんの実家へお墓参りに行くから、小浜のおばあちゃんの家に帰省するのはこの時期になる。


 小浜には、お母さんのお母さんとお姉さん、つまり私のおばあちゃんと伯母おばさんが暮らしている。

 二人とも、とても優しい。私が子供の頃から、おばあちゃんは昔話を聞かせてくれたし、伯母さんは宿題をみてくれたり、花火をしたり、海へ連れていったりしてくれた。冬は雪ダルマを作って遊んだ。


 夏休みと冬休みに小浜のおばあちゃんの家で過ごす数日間は、私にとって、一年の中でいちばん楽しい時間だったかもしれない。


 ただ、それは去年までの話だ。今年はちょっと、いや、だいぶ違っていた。


 理由は二つある。


 ひとつめは、今年の春、おばあちゃんが体調を崩して入院したこと。

 今は退院して家に帰ってきたけど、定期的に通院しないといけなくなった。伯母さんの負担も増えるみたいだ。

 今年も私たちを笑顔で迎えてくれたけれど、おばあちゃんはちょっと痩せて、伯母さんはちょっと疲れているように見えた。もう、甘えてワガママを言ったりはできないんだろうなって思う。


 ふたつめは、私自身のことだ。

 私は今年、私立の中学校を受験することになった。本当は、どうしても私立に行きたいわけじゃない。でも、学校の先生は勧めてくれるし、お父さんもお母さんも乗り気だ。私もわかってる。私立のほうが学校の環境もいいし、将来の進学にも有利なことが多いって。

 だから、受験することに決めた。志望校は、難関校っていうほどではない。それでもやっぱり、二学期からは受験勉強が中心の生活になると思う。


 それに、合格してもしなくても、来年は中学生だ。部活なんかもあって、自由な時間は減るだろう。

 こうやって、おばあちゃんの家でゆっくり過ごせるのも、今年が最後かもしれない。好きなことだけしていられた子供時代は、ここまでなのかな。


 そんなことを考えると、去年までは楽しみでしょうがなかった小浜への帰省が、今年はなんだか悲しく、寂しい気分の旅行になっていた。






 おばあちゃんに挨拶し、落ち着くと、お母さんと伯母さんは、今後のことを話しはじめた。通院とか、ヘルパーさんとか、そういう単語が聞こえてくる。

 そんな話、聞きたくなかった。現実だってわかっているけど、でも、おばあちゃんの体調が悪いなんて嫌だった。私は、なるべく自然な感じで言った。


「海、見に行ってくるね」


 伯母さんが、心配そうに言った。


「みずほちゃん、大丈夫? いま、お昼のいちばん暑い時間帯だよ?」

「大丈夫、ちょっとだけだから」


 次はお母さんだ。


「帽子、ちゃんとかぶっていくのよ。それと、人通りの少ないところは行っちゃだめだからね」

「わかった。行ってきます」


 私は麦わら帽子を手に取ると、外へ出た。






 こんないきさつで、私は人魚の浜海水浴場へやってきたのだ。


 ここは、おばあちゃんの家から歩いて十五分くらいの、いちばん近い海水浴場だ。毎年連れてきてもらった、思い出の場所でもある。

 ため息をついてしまったのも、暑かったからじゃない。なんとなくブルーな気持ちだったせいだ。


 真っ青な空の下、私より二、三歳年下な感じの水着の女の子と、それより小さい男の子が、スイカ柄のビーチボールで遊んでいる。近くには二人のお父さんらしいTシャツ姿の男の人がいて、二人に声をかけていた。


 私も去年まで、あんなふうだったのにな、と思う。

 水着は知らない人の前で着るのが恥ずかしくなって去年からやめたけど、無邪気に遊んでいられたのは同じだ。


「いいなあ……」


 思わず、そんな言葉が口からこぼれてしまう。

 病気とか受験とか、そんなこと忘れて、ずっと子供のまま、楽しいことだけ考えて過ごせたらいいのに……。


「こんにちは」


 ぼうっと考え事をしていた私は、後ろからそう声をかけられてびくっとした。

 あわてて振り返ると、そこには尼さんが立っていた。


 薄紫のころもに、白い頭巾ずきんを身につけた尼さんが、にっこりと私に微笑みかけてくれている。私はちょっと驚いた。尼さんていうのはみんな、おばあちゃんやおばさんだと思っていたのに、その尼さんはとても若くて、高校生くらいに見えたからだ。


「あ、こ、こんにちは」

「となり、座ってもいいかな?」

「はい」


 尼さんは衣を軽く整えながら、私のすぐ隣に座った。ふわっと、なんだかいい匂いがする。お尻に砂が付いちゃうけど、いいんだろうか。


「お名前、なんていうの?」

「みずほ、です」

「みずほちゃんかあ。私はアンジュって呼ばれてるの」

「アンジュさん……」

「うん。ここ、人魚の浜って名前でしょ。本物の人魚に会えないかなって、たまに来るんだ」


 アンジュさんは、色白ですっごく美人だった。私に優しく話しかけてくれる。

 私たちはすぐに打ち解けて、いろんな話をした。私は帰省中なこと、おばあちゃんのこと、受験のことなど、思っていることをいつの間にか全部話していた。


 私は一人っ子で、兄弟姉妹に憧れていた。特に、お姉さんに。

 こんな人がお姉さんだったらいいのに。アンジュさんに出会ってすぐにそう思った。それで、本当のお姉さんに相談するみたいに、気持ちを打ち明けたのかもしれない。


 アンジュさんは私の話を聞いても、無理に励ましたりしなかった。ただ、穏やかに聞いてくれた。私には、それがとても嬉しかった。

 私の気持ちが落ち着いたのをみて、アンジュさんは不思議な話をはじめた。


「みずほちゃん、八百比丘尼はっぴゃくびくにの伝説、知ってる?」

「おばあちゃんに聞いたことあります。人魚の肉を食べた女の人の話だって」

「そうそう。ある女性が知らずに人魚の肉を食べて、不老不死になるの。何百年も生きたその人は尼さんになるんだけど、最後は病気のお殿様に寿命を分け与えて、入定にゅうじょうするのね」

「うん、その場所が小浜にあるって、一度連れてってもらいました。洞穴ほらあなみたいな場所だったかなあ」

「わあ、行ったんだ。嬉しいなあ。でも、その伝説には続きっていうか、裏話っていうか、そういうのがあるんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。でも、今日はここまでかな。明日、また会えるかな? 明日のこの時間、ここで待ってるから」


 私は明日また来ると約束をして、おばあちゃんの家に戻った。

 アンジュさんのことは、誰にも言わなかった。美人で優しいアンジュさんを、私だけの秘密のお姉さんにしたかったから。






 翌日。

 私は同じ時刻に、人魚の浜海水浴場へ行った。


 アンジュさんは先に来て、私を待っていてくれた。私に気づいて、手を振ってくれる。


「今日はね、おやつ持ってきたんだ。みずほちゃん、一緒に食べよ」


 アンジュさんは小さなバスケットから、プラスチックのお弁当箱を取りだした。ふたを開けると、一口大にカットされたパイナップルやメロンが並んでいる。

 よく冷えたフルーツは、とても美味しかった。アンジュお姉ちゃんと一緒に食べるから、こんなに美味しいんだ。そう思った。


 昨日と同じように、私たちはおしゃべりに花を咲かせた。

 暑さなんて、ぜんぜん気にならない。自動車の音も、蝉の声も、海水浴客の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。聞こえるのは、アンジュお姉ちゃんと私の声だけ。二人だけの、楽しい世界。


 やがて、お姉ちゃんが言った。


「ねえ、みずほちゃん。昨日の話、覚えてる?」


 私は頷く。


「うん。八百比丘尼には、裏話があるって」


 お姉ちゃんは、にっこりした。


「そうなの。この話、ちょっと変だと思わない? 八百比丘尼は不老不死のはずなのに、寿命があるって変だよね? それに、誰かに寿命を分け与えるなんて、普通ありえないでしょ?」


「そう言えば……そうかも」


 私は、なんだか大事な秘密を教わっている気になった。

 急に興味がわいてくる。


「これはね、比喩ひゆ。はっきりとは語りにくいことを、それとなく暗示しているの。不老不死の八百比丘尼にも、寿命がある。これは、不老不死だけれど、不死身ではないことを示しているわ。自殺や、殺されたりすれば死んでしまうの。初代様が入定なさったのがそう。八百比丘尼はねえ、長すぎる命に疲れて、最後は自ら死を選ぶものなの」


 私は思わず息をのんだ。殺されるなんて言葉が、突然出てくるとは思ってなかったのだ。アンジュさんは続ける。


「不老不死になる方法があると知れば、権力者はたいていそれを求めるわ。けれど、人魚の肉なんて簡単に手に入るはずがない。ただし……」


 真夏だというのに、私は背筋がゾクリとした。ここから先は、聞いてはいけない話のような気がする。でも、聞かずにはいられない。


「もうひとつ、方法があるの。人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼の肉を食べれば、同じように不老不死になれるのよ。八百比丘尼が寿命を分け与えるとは、本当はそういう意味なの」


 アンジュさんは、バスケットからもうひとつお弁当箱を取りだし、ふたを開けた。

 中には、薄くスライスされた肉が二切れ。焼いてあるけど、牛肉とも豚肉とも見ためが違う。お姉ちゃん、これ、なんの肉なの……。


「みずほちゃんに、お願いがあるんだ。私の、妹になってほしいの」


 私はなにか言おうとしたけど、喉がカラカラで声が出ない。


「私、何歳だと思う? 実はねえ、三百歳を超えてるんだ。三百歳からは、数えるのやめちゃったけどね。先代が命を絶ってから二百年くらいかな。そのあいだ、ずっと、ひとりだったんだ。年をとっても外見がそのままだし、いつまでも死なないから、普通の人間と一緒には暮らせないの。でももう、ひとりは嫌になっちゃった。寂しいよ。話をしたり、楽しく過ごせる仲間が欲しいよ。これまでの八百比丘尼はね、伝説にあるみたいに、相手に教えずに肉を食べさせてたんだ。でも私、みずほちゃんと仲良くなれたし、だますようなのは嫌なの。だから」


 アンジュさんは左の袖をまくった。左腕の手首の少し上には、昨日はなかったはずの包帯が巻かれている。


「みずほちゃん、楽しいことだけ考えていられたらいいのに、って言ってたよね。私の妹になって、姉妹でずっと一緒にいようよ。ずっと今のまま、楽しく笑って過ごそうよ。だめかな?」


 アンジュさんが、私に向かってお弁当箱を差し出した。

 この肉を食べたら、アンジュさんが本物のお姉ちゃんになってくれる。そのかわり、お父さん、お母さん、おばあちゃん、友達、みんなとお別れだ。


 そんなの嫌だよ。できないよ。

 確かに、そんなこと言ったけど、そういうつもりじゃなかった。思い通りにならないことがいろいろあって、不満を言いたかっただけなの。子供の頃はよかったなって、言いたかっただけなの。

 だからお願い、アンジュさん、そんなに真剣な目で見つめないで。


 涙があふれだした。怖かったのか、悲しかったのか、わからない。声にならなくて、私はひたすら首を振り、いやいやをした。それが精一杯の意思表示だった。


 アンジュさんの真剣な表情が、ふっと緩んだ。

 お弁当箱が、バスケットに戻される。


「ごめんね、みずほちゃん。逆に困らせちゃったね」


 そう言ったアンジュさんは、とても悲しそうな顔で笑っていた。


「今年はお別れだけど、来年もまた来てほしいなあ。もう、こんなお願いはしないから。みずほちゃん、私のこと、嫌いにならないでね」


 アンジュさんは私に背を向け、歩きはじめた。

 十メートルくらい離れたところでまた私のほうを振り向いて、名残なごり惜しそうに手を振る。


「でも、もし、妹になってくれる決心がついたら、いつでも言ってね。私、ずっと待ってるから。さよなら!」


 それが最後だった。

 アンジュさんが、離れていく。

 寂しげな後ろ姿は、アスファルトの陽炎かげろうにゆらゆら揺れて、やがて見えなくなった。


 蝉の声が聞こえてくる。

 子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。


 アンジュさんのいなくなった海水浴場に、夏の音が戻ってきたのだった。

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アンジュ 旗尾 鉄 @hatao_iron

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