ep. 46 黒い眼(1)
難民村は、帯状に伸びる田畑の三方を山に囲まれていた。
村の北側はひらけていて、炬之国までの街道に面している。
一方で、村の南側は黒黒とした峰が折り重なり、村の背後で壁のごとく道を塞いでいる。
狐の体液の跡は、山道の東側へ分け入っていた。
青と紅鶴が山道に入ると、少し距離を空けながら追いすがろうとする鹿花が続く。
最後尾との距離を、がしゃがしゃと鳴る後輩の鞄の音で測りながら、青は足元に覆い被さる羊歯の葉を踏み分けて進んだ。
廃村となってから人が踏み入った様子がなく芝があちこちに伸び放題だが、一部の樹木が意図的に間引かれて道を成していた名残が窺えた。
「かつてここにも、山道があったのでしょうな」
木々を見上げ、紅鶴も同様の感想を抱いたようだ。
青の記憶が正しければ、かつて村で朱鷺と出会った日――山裾の東側から炬の式虎が飛び出し、同じ方角から豺狼も追って来た。
すなわち、炬の国へと繋がる通り道が存在していたのかもしれない。
「あ、そ、そうだ……!」
最後尾から鹿花の声。
振り向くと、歩きながら大判の地図を広げている。
最新の軍用地図ではなく、何やら古地図めいた図柄が見えた。
「鹿花佳師、その地図は?」
「はい! ちょっと古い時代の地図です」
尋ねられて満を持したとばかりに鹿花は破顔した。
村落が廃村になる前の時代に作られたものだという。
今では全壊もしくは半壊してしまった家屋や畑、獣道と化した人道など、かつての人の営みが想起されるほど詳細に描かれている。
「何故これを」
鹿花の行動は、青に素直な好奇心を抱かせた。
「はい! 一師より賜りました「古い地名には採取の手がかりになる情報が隠れている」との教えに基づきまして、こうして古地図も持ち歩くようにしました!」
「見せてもらえるか」
「は、はひっぃ!」
青は地図を開く鹿花の背後から顔を覗かせて、村から続く山道を指で辿る。
村からの道は三又に分かれていて、右は木こり場へ続く。真ん中は山神の社への参道で、左側の道は「蕨道(わらびみち)」と名称が記載され、道を示しているであろう破線が描かれていた。
線は途中で消えているが、そのまま稜線に沿って指を動かしていけば、やがて炬之国領へと続いている。
「し、資料によりますと」
がさがさと音をたてながら、鹿花は地図に重ねていた資料の一枚を、読み上げる。
「この抜け道は、この古地図の時代よりもさらに昔、国境沿いの村同士での交易を目的として使われていたそうなんです。郷土史資料にも「蕨道」の記載がありました」
「なるほど……ここを放置していたら、危険そうだな」
後で凪の救援隊へ報告しよう、と心に留めながら、今は先へ進む。
点々とする体液を辿りながら斜面の上り下りを数回繰り返すうち、踏みしめる土の色が湿気た焦茶から、乾燥した黄土色へと変化しはじめた。
炬との国境線が近づいている証だ。
「あの狐、どこまで逃げるつもりなんだろうか……」
「ずいぶんと遠くまで来ましたな」
広葉樹から針葉樹へ、羊歯からイネ科の草へ――生態系が入れ替わっていく境目で、青はいったん足を止めた。
地に届く陽光が増え、辺りが仄明るい。抜け道跡の両側は窪地になっていて、冬枯れのイネ科の雑草に覆い尽くされていた。山を抜ける風が、波を描く。
「……人が通った形跡があります。ごく最近に」
紅鶴の言葉通り、炬之国側の茂りに踏みつけられた跡があった。
獣によるものではない、明らかに人間の足跡だ。
広範囲に歩き回ったようで、草が点々と潰されている。
「――わわっ」
山裾から吹く谷風が通り過ぎ、反対側の窪地の斜面を覗き込んでいた鹿花の背を押した。
身長の半分ほどの段差に片足を滑らせ、小柄な身体が窪地の中へ沈んでいった。
イネ科の雑草に覆い尽くされていて、見た目よりも深かったようだ。
「やれやれ。荷が重たすぎるのではないか……小生が引き上げてき参ります」
「頼んだ」
世話がやけますのう、と、だが満更でもなさそうに、紅鶴も鹿花の姿が消えた窪地へ足を踏み入れた。
胸元までを覆う冬枯れした狗尾草の沼をかき分けて、孫ほどの年齢の「同期」の姿を探す。
鹿花の事は紅鶴に任せ、青は炬側の茂みに残る足跡を確認しようと、後輩二人と反対側の斜面を滑り降りた。
陽当りの差か、こちらの藪の背丈は青の膝丈ほどで、生えている草の種類も異なった。
「あ」
浅いすり擂鉢状の窪地の中で、力尽きた「狐だったもの」を発見する。
冬枯れする事のない雄日芝(オヒシバ)に抱かれて、異形の狐は平らに体を伸ばしていた。
結局どこへ向かおうとしていたのか、分からないままだ。
青は狐の側に片膝をついた。
完全なる蜥蜴への変異はしておらず、体長は狐の名残を残しているものの、首から上、胴体の皮膚の一部は大型爬虫類そのものだ。
柔らかな冬毛で膨らんでいたはずの尾も、平らに潰れて硬化してしまっている。
「……ごめんな」
誰にともなく、呟く。
青は近くに落ちていた枯れ枝を拾い、死骸を検分する。
毒を有している可能性を考え、素手で触れる事は躊躇われた。
青が命中させたはずの苦無は、見当たらない。
それより気がかりなのが狐の背中と腹に、新たにできている傷跡だ。
小刀に似た深い刺し傷が、背中と腹部それぞれ等間隔に並んでいる。
まるで、鋸の刃で強く挟まれたかのような状態だ。
「……噛まれた……?」
再び谷風が山裾からのぼる。
背後から吹きあがる風に混じる、鋭い吐息めいた音――
「!」
音を感じた方を振り返る。
視界に、三頭の大蜥蜴が迫っていた。
「しまっ……!!」
山道の反対側から、紅鶴が弾かれるように振り向く。
だが紅鶴が己の失態を罵るより速く、青の両手は苦無を放っていた。
右手が放った初撃が大口を開けた一頭目の喉奥を貫く。
続く左手の二撃目は二頭目の下顎から喉にかけてを貫いた。
青が両手首を返すと苦無が手元に還り、二頭の姿は宙空で霧散した。
手元に戻った苦無の刃先にはそれぞれ、破れた式符が刺さっている。
「――っ」
時間差で迫る三頭目へ、戻った苦無を掴んだ動線の軌道上で再び両腕を振り抜く。
曲線の軌跡を描く二本の苦無は、上と下から蜥蜴の喉を同時に刺し貫いた。地に落ちるより前に、三頭目も霧消する。
やはり苦無の片方の刃先には、三枚目の式符が刺さっていた。
「す、すすすす、凄い……苦無が自由自在に……え」
斜面をよじ登った鹿花の鼻先を、風圧が掠める。
瞬きの直後には抜刀し、青の頭上を飛び越える紅鶴の姿があった。
式がいたという事は、術者――足跡の主がいるのだ。
「クソッ……!」
逆手に刃を構えた紅鶴が突っ込んだ薮から、舌打ちと共に人影が飛び出す。
男だった。
男は紅鶴の攻撃から逃れ、すぐさま地を蹴った。
刀を手に一直線に再び青を狙う。
男が襲いかかるよりも速い紅鶴の動き出しに気づいた青は、外套の中で抜きかけた武器を収めた。
「ぐあぁっ!」
直立不動の青の目の前で、男の身体が地に叩き伏せられる。
「愚かな」
そのまま紅鶴は押し倒した男の背中に乗せた膝に体重を掛け、ねじり上げた両腕を背中側できつく掴んだ。
男に暴れる隙を一切与えず、型のように美しい制圧術だった。
「お前が何者か、答えてもらおうか」
尋問の第一声を述べてから青は改めて、男を観察した。
紅鶴の手腕に見惚れるあまり、やるべき事を忘れかけてしまいそうになる。
男は炬の法軍人の装いではなかったが、戦いを考慮した軽装の出で立ちではある。
くすんだ消し炭色を基調に、袖や襟に血潮のような赤を刺していた。
男は口を開かない。
顔面から一切の表情を落として横を向いている。
紅鶴の巧みな抑え込みによって、首から上しか動かせない状態であろう。観念したのか、抗おうともしていない。
「簡単には吐きそうにありませんな」
紅鶴の所見に、青も同感だった。
いくらの青でも都合よく自白剤を持ち歩いてはいない。難民村の凪隊に引き渡し、然るべき尋問手続きをとるのが正当だ。
それまで男には眠ってもらおうと、青は腕の針差しに手を伸ばす。昏睡のツボを一突きすれば、睡眠薬は必要ない。
もぞり、と抑え込んだ男が僅かに身動ぎをした。
「……ん?」
男の背中を固定する脚の下、紅鶴の目は男の腰付近から何かが転がり出たのを見た。
革帯に装着した道具袋から落ちたのであろうか、楕円形の黒い、卵のような――
「これは」
ほぼ無意識だった。
紅鶴は両手で交差させて掴んでいた男の両手首を片手に持ち替えて、空いた手で卵を拾い上げる。
「っ!」
首だけ僅かに背後へ動かした男が、目を見開いた。
針を取り出して腰を屈めようとした青の視界に、拘束が僅かに緩んだ隙に男が上半身を捩り、装束の襟の飾り紐を口に含んだ瞬間が映った。
「逃げ――!」
「――っ?!」
青が紅鶴に体当たりしたのと、男が紐を強く引いたのは、ほぼ同時だった。
男の身体を起爆剤に、大火球が破裂した。
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