ep. 44 再訪、滴りの森(3)
「あ、あんたは」
トウジュも青――シユウに気がついたようで、泥や傷で汚れた顔が綻んだ。が、それも一瞬で、ただちに険しい目に変わる。
斜面側から藪と木々を突き破り、鮮やかな紅色の影がトウジュを目掛けて跳躍した。
獣ではない。
長い尾を持つ巨大な爬虫類のようだ。
「っ!」
何かを庇うようにトウジュは体を丸めて伏せる。無防備な背中を、紅の鈎爪が狙っていた。
「お任せを」
再び真っ先に反応し行動に移したのは、紅鶴だった。
「を」の時には既に紅色の外皮の頭上から双刀を振り下ろす瞬間だった。
「速っ……」
感心する暇もない。
瞬きした後に青の視界に入ったものは、宙で寸断された獣の体だった。
「式か」
血や体液の噴出が無い。
ばらけた肉片は砂塵のように消え失せ、切り刻まれた式符だけが地に落ち、それも風に吹かれてどこぞへと舞った。
「まだ来ます」
続いて出流も飛び出して、水平に薙いだ刀が手前側から飛び出した紅蜥蜴を横に裂いた。
同じように二つに切れた式符だけが残る。
「もう一匹いる!」
顔を上げたトウジュの掠れた声と同時に、青は斜面の茂みに向けて苦無を放った。
手応え。
紅鶴と出流が振り向く中、青は手首を返して苦無を手中に引き戻す。特殊な糸を繋いだ仕掛け苦無だ。刃先に式符が刺さっていた。
「お見事です」
「皆も」
「手当をしましょ」
式蜥蜴の襲撃が止んだ事を確認し、蓮華が動く。
膝をついた状態のトウジュの元へ駆け寄った。
「あら、あらあら?」
素っ頓狂な声が上がる。
体を起こしたトウジュの外套の下で、右腕に人間が抱かれていた。
生成り色の麻布を頭から被り、全身を覆い隠している。布からはみ出た白く細い手が、縋るようにトウジュの胸元の衣を掴んでいた。
細かく震えている。
「ああ、えーっと……、こいつは……」
トウジュの言葉が詰まる。
隠そうとしているのではなく、言いあぐねている様子だ。
「わ……私(わたくし)から……」
か細く震えた声。
トウジュの胸元を掴んでいた手を外し、頭に被さる麻布を自ら取り除く。
現れたのは、錆色の粗末な衣服に身を包んだ若い女。
衣はあちこちが血や土で汚れ、擦り切れや裂け目が目立った。
袖からのびる細く白い両腕や両脚にも、裂傷と見られる傷跡が見える。
女はトウジュの腕から体を離すと、地面に正座をして青たちを見上げる。
痩せこけた頬、青白く生気のない肌、だが、元は美しかったであろう顔立ちは見てとれた。
「――あ」
女の顔をしばらく凝視していた青は、思わず声を漏らした。
「陽乃姫……様……?」
「まだそのように呼んで下さる方がいらしたとは……」
女は淋しげに微笑んだ。
「姫??」
と技能師らの面々が顔を見合わせる中、女はそろえた指先を地に添えて、頭を下げた。
「私は元、炬之国篝州長の娘、陽乃と申します」
「確かに姫だわ」
一同が息を呑んだ空気が伝わる。
その中で紅鶴はやはり、平静を保っていた。
「州長って、州侯様ですよね……そのお身内の方が何故?」
困惑する鹿花の言葉に、陽乃は頭を垂れたまま。
「……今は無籍の罪人の身です」
「罪人って……、あんた何も悪い事してねーんだろ?!」
弱々しい語尾を遮るように、トウジュが声を荒げる。
陽乃はただ、力無く首を横に振っていた。
痩せた背中が、着衣の色もあいまって老婆のようにすら錯覚する。
「……」
あまりの変わりように、青は絶句した。
色鮮やかな着物に身を包み、豺狼に恋をし頬を染める少女だった頃の華やぎが、微塵も残っていない。
凪より南に位置している炬之国といえど、冬は季節相応に寒い。
にも関わらず、陽乃は首回りや手足が露出した薄衣――囚人着であろう――を着用させられている。
燃ゆる黄紅葉のように鮮やかであった長い髪が、今は枯れ葉のようにくすんでいた。
肩ほどまでの長さに切られ、毛先が不揃いで乱雑だ。
まるで処刑前に、小刀で千切られたかのように。
「榊准士、だっけ? あなたまさかとは思うけど」
満身創痍の陽乃の体を診ていた蓮華が、声を顰めた。
その先は青にも想像に容易だ。
目の前にある状況に加えて、トウジュの性格を鑑みれば、自ずとこの状況に至るまでの過程が推測できる。
「処刑場から攫ってきたか」
紅鶴の冷静な声が、あっさりと解を導き出した。
「ハァ~~~??」
「ふぁあぁ~~…」
蓮華の盛大な溜め息と、鹿花の奇声が同調する。
相変わらず出流は表情を一切変えずに、大人たちの様子を見ていた。
「あのね……榊准士、君も大人なら分かるでしょう。民間人ならともかく、元・他国の諸侯の姫君となれば、下手すれば政治的干渉になるの」
「……申し訳ありません」
言い訳の言葉もなく、トウジュは唇を噛みしめる。
蓮華が大いに呆れた様相を見せる後ろで、青は内心で納得していた。
トウジュなら、助けに動くかもしれない、と。
「やってしまった事は取り戻せぬ故、仕方ありませんな」
変わらない声色で、紅鶴は蓮華と青にそれぞれ目配せを送る。
「……」
あのねぇ、の「あ」の字に口を開きかけて、蓮華は鼻腔から溜息を逃がした。
「……っ」
冷たい乾風が通り抜ける。
背中を丸めていた陽乃が、細い両腕を体に巻き付けて身震いした。カチカチと、歯の根が鳴る微かな音がする。
気づいてトウジュが外套を脱ぎ取り、陽乃の体へ巻き付けるように背中から被せた。薄汚れた麻布よりも、防寒に役立つ。
「ひとまずは難民村へ向かい、手当を。それからの事は改めて考えましょう」
青は森林道の先を指し示した。
道を抜けた先で合流する川を辿れば、最初の村落に辿り着く。
今は凪の救援隊が難民の寄合所を管理しているため、あの頃より幾分も過ごしやすいはずだ。
「……」
青は辺りを見渡す。
黒髪の侍女、檀弓の姿は無いようだ。
かの護衛任務に参加した凪の面々からは、主の我儘に振り回されながらも忠実に尽くす気の毒な侍女、と同情をかっていた。
だが青の記憶に浮かぶのは、護衛任務の別れ際、その横顔に刹那だけ差した黒い笑みだった。
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