ep. 42 冬凪の龍(1)
――様
――ロ様
「ハクロ様」
「!」
至近距離から名前を呼ばれ、ハクロは仮面の下で目を開けた。
眠っているつもりはなかったが、白昼夢を見ていたようだ。
顔を上げる前に、仮面の下に指を差し入れて目元の雫を拭った。
目の前に、前髪と肩までの黒髪をまっすぐに切りそろえた少女が首を傾げ、ハクロの面を覗き込んでいる。
赤みが仄かに香る支子色(くちなしいろ)の着物に、緋色の帯と髪紐。
「し、失礼した…」
「お待たせして堪忍です。山吹のおばあちゃんはこっちです」
子どもらしい声と言葉に促され、ハクロは籐椅子から立ち上がった。
小さな平屋の客間から出て、一度、玄関から外へ出る。
少女に導かれて家屋沿いにぐるりと半周すると裏庭は雑木林となっていて、池の中島に小さな檜皮葺(ひわだぶき)の庵が置かれていた。
日の出のような丸窓の向こうに、小さく丸い人影が見える。
ここは凪より離れた、名もなき隠れ里。
ハクロは長より命じられ、この場所を独り、訪れた。
毒術の神麟に書状を渡すために。
支子色の太鼓橋を進んで中島へ渡ると、
「回り込んで入っておいで」
と庵の主の声がした。
言われるまま壁沿いを東回りに歩く。
開け放たれた東側の格子戸の向こう、室内の真ん中に置かれた火鉢の側に腰掛ける、老女の姿があった。
山吹色の長衣の上に、深藍の綿入れを羽織っていて、頭と顔の半分を隠す同色の御高祖頭巾と、口元を隠す襟巻きが、上半身を覆っている。
影が丸く見えたのは、着膨れのせいであった。
老女の名は山吹、位は神麟。
凪之国、毒術師の元麒麟である。
「お初にお目にかかります。薬術が麒麟の位、ハクロと申します」
頭を下げようとしたハクロへ、
「お入りなさい。そこでは景色が楽しめないよ」
老女は長衣の袖で手招きする。
火鉢の側にはもう一つ、籐椅子が置かれていた。
誘われるがままに空席の前に進み振り向くと、四角く切り取られた空間の向こうに、借景まで明瞭に映す冬の水鏡が広がっていた。
「これは…美しい」
自然と、妖鳥の仮面の下から感嘆の吐息が漏れる。
「はい」
景観に見惚れるハクロの前に、山吹色の袖が差し出された。
「――はい?」
「お使いに来たのだろう?」
「あ」
ハクロは懐から平たい絹の包みを取り出す。
捲って中身を取り出そうとする前に、山吹色の袖が風呂敷ごとお使い品を強引に受け取っていった。
「せっかちですまないね」
行動と言葉に反して、穏やかでゆったりとした声。
「薬膳茶だよ。温まるからお飲み」
火鉢にかけた土瓶からは白い湯気が立ち上り、ハクロの右手側に置かれた小卓の上には空の湯呑みと茶菓子が置かれている。
思いがけない神麟の気安さに少しの驚きを覚えながら、ハクロは遠慮なく土瓶に手を伸ばした。
老女――神麟、名は山吹(やまぶき)――は、絹包みから書状を取り出し、表書きから裏書きの順番に眺める。
「この字は…朱鷺だね」
山吹の独言が、茶を湯呑みにそそぐ音と共に、ハクロの耳に流れてきた。
「朱鷺殿を、ご存知なのですね」
「あの子がまだ新米狼だった頃に、少しばかり説教しただけさ」
手指を覆い隠す山吹色の袖が、器用に書状を開いていく。
「筆の流れが散らかる悪字癖は治らなかったんだねぇ。逝ってしまったと風の噂で聞いたけれど…」
語尾が憂愁に掠れて消える。
看取ったのは自分であるとハクロが言葉に出せないまま、しばし溶けた朝霜の露が土を打つ音だけが続いた。
「……この婆に何の遺言かと思ったら」
衣擦れと共に、書状が畳まれる音。
「ひよっこに会ってやって欲しいのだと」
「先日、新たに龍の位を授かった者です」
「龍だろうと、ひよっこならトカゲの子だよ」
独特な諷刺が山吹の舌で転がった。
「朱鷺殿の弟子です」
「そうらしいね」
書状は山吹色の袖袋へ差し込まれ、書状を包んでいた絹布は、ハクロの手元へたたんで返された。
「禍地や藍鬼の系譜を継ぐ者だと書いてあったが…どうであろうかね」
「大変に熱心で有望な若者だと、私は思います」
さりげないハクロの推挽(すいばん)を受け流し、神麟は水鏡に映る冬の借景を見つめる。
「知っているよ。ひよっこを龍に推挙したのは、わたしだから」
「――は、んぐ」
ハクロは強引に口を閉じた。
驚きと同時に、薬膳茶の強烈な香りで咽そうになっていた。
「長からお伺いが来たのさ。背中を押して欲しかっただけだろうがね」
技能師の昇格の可否を議決するにあたり、鶴の一声を持つ長からの相談が度々、各職の神麒・神麟のもとに舞い込んでくるという。
「わたしがここで閑居安穏な隠居生活を楽しんでいると思っていたのかい」
「そんな滅相なことは…」
「上がった」龍や麒麟は、前線や任務の現場から退く代わりに、後任育成の使命を担っている。
「それで、彼にはお会いに…?」
下から窺う視線を送るハクロを、山吹は「いいや」と一蹴した。
「ハクロ特師。お前さんや、朱鷺、藍鬼、禍地にはあって、ひよっこに足りないものは…明らかであろう?」
唐突に名指しされ、思案に硬直したハクロの湯呑みに、山吹は更に茶を注ぐ。
「あのひよっ子は、自らの首を絞めてしまったねぇ。さて、どうなることやら」
「…ぅ、う?」
山吹の言葉と、湯呑みの水面から立ち昇る主張が強い香り。
ハクロはまたひとり、咽かけていた。
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