ep. 41 一蓮(12)【第三部完結】

 長室を出て、七重塔の階下へ降りるまで、青はずっと己の手の甲を見つめていた。


「龍……師匠の龍……」


 光に翳して眺めたり、指先で彫りを撫でてみたり、顔に近づけたり離したり。廊下ですれ違う文官たちが奇妙な顔で青を見送る。


「朱鷺一師は何と仰るだろうか……わっ! …と」


 廊下の継ぎ目につま先を引っかけて転びそうになったところを警備係に見られて苦笑される。

 体勢を立て直して、青は締まりのない己の顔を両手ではたいた。


 藍鬼や朱鷺と同じ称号にたどり着く――念願の一つであるはずなのに、龍を受け取って一歩を進むごとに胸の錘が重たくなっていくようだ。


 朱鷺に喝を入れてもらわなければ。

 そんな事を考えながら、表玄関を出た。


 チイ。


 頭上から鳥の声。

 晩秋の昼下がり、薄曇りの空から式鳥が文を携えて青の手元に降り立った。

 今度こそ、医院からの報せだ。


 用件が済み次第、速やかに来られたし。


 まるで青が七重塔に召喚されていた事を把握していたかのような頃合いと、文面だ。


「……?」

 少しの胸騒ぎを覚えながら、青は医院のある白月区へと足を速めた。


 乳白色の石垣を抜けて、

「ごめんくだ…」

 白木の引き戸を開けると、すでに受付係の医療士が取次の間に静かに立っていて、青を出迎えた。


 ふわりと、白檀の香りが仄かに漂う。


「お待ちしておりました、シユウ殿」

 受付係は恭しく一礼し、廊下をゆったりとした歩調で先導する。

 檜の床を三度曲がり、二又に別れた廊下を、中庭を左手に右へ曲がる。


「どうぞ」

 足を止めて廊下の端に寄った受付係に譲られて、青は廊下の先の個室にたどり着いた。


「朱鷺一師…」

 引き戸を静かに開ける。


 いつもの個室――白と淡い香色だけの空間、窓際の寝台、そして寝台の側に置かれた籐椅子に、部屋の主の姿は無かった。


「…あの、朱鷺一師は…中庭に?」


 見舞いに来ると度々、朱鷺とハクロが共に中庭で季節の草花を眺める姿があった。

 だがこんな寒くなってきた日に、と不思議に思いつつ、青は医療士に尋ねようと振り返る。

 そこに、白鷺(はくろ)の仮面がいた。


「シユウ一師。龍の位への昇格、お喜び申し上げる」


 青が何かを発する前に、ハクロが頷くように会釈を手向ける。

 その背後で、受付の医療士も一礼した。

 もう既にハクロの耳に人事の報せが入っている事に驚く。


「お…恐れ入ります。あの、朱鷺一師は」

「応龍、朱鷺殿は、ご逝去された」

「――え……」


 そこから、青の記憶は霞の中に沈んだ。


「シユウ一師が帰還されるより少し前のことだ」

 低く、静かなるハクロの声を意識の隅で聞きながら、青は再び室内へ視線をやる。


 寝台の側に置かれた卓の上に、白磁の香炉が置かれていた。

 満ちる白檀は、弔い香だ。

 香炉の前に、見覚えのある冊子が重ねられている。


「……これ…」

 覚束ない足取りで室内へ歩を進め、青は卓の前に立つ。

 それは、青が朱鷺に土産として渡していた、西への旅の記録だ。


 頁の端々が折れたり撓んだりと、何度と読み返したであろう痕跡がある。


「貴重な記録であるから、それはシユウ殿にお返しするようにと、言付かっている」

「あの…」

「昇格のご報告は間に合わなかったが、長より伺った任務での「一蓮」の成果をお伝えしたところ、とてもお喜びだった。「これで確実だろう」と、このたびの昇格を、朱鷺殿は確信されていたようだ」

「あ…あの…」

「朱鷺殿のご最期は、安らかなものだった。君への指導は楽しかったと振り返られ、そして案じておられた」

「………あの、ハクロ特師…」


 喘ぐような息から、青はようやく言葉を発する事ができた。

 ハクロは黙って、辛抱強く、青の次の言葉を待ってくれている。


「朱鷺一師の……その、ご葬儀…は、と、弔いを…」

 自分で口にしながら、まるで現実感がない。

 自分の口を誰か他人が借りて言葉を発しているような感覚に、青は混乱していた。


 覚悟はとうにしていたはずなのに。


 縋るような青の声に、ハクロは静かに、ゆるりと、首を横に振った。


「法軍人としての朱鷺殿は、ご親族間でしめやかに弔われたと聞いた」

「……」

「毒術師としての朱鷺殿は、密(ひそ)やかに消えたのだ」

「……消え……」


 素性も、本当の名も、素顔の記憶も残さずに、ただ消える。

 残るのは、生前に作り上げてきた成果物や功績のみ。

 技能師の死とは、そういうものなのだ。


「朱鷺殿は、君にとって最期まで、そしてこれからも、毒術の師でありたかったのだ」

 朱鷺の遺志を汲み取って欲しい、と、ハクロの声には説得の色が込められていた。


「………」

 青は手元の冊子へ視線を落としたまま、しばらく動かなくなる。

 ハクロの背後で、医療士が心配気に青の様子を見つめていた。


「シユウ一師、これを」

 そこへ、ハクロの手が七つ折りの書状を差し出した。


 表書きに「引合状」と書いてあった。

 これは? と問う目で、青は顔を上げる。


「引合状(ひきあわせじょう)、朱鷺殿が遺したものだ。いつか君が龍に昇格したら、会わせたい人物がいると仰っていた。その方に宛てた、君を紹介する書状だ」


 最期に遺したものが、青本人に宛てた手紙ではないところが、朱鷺らしい。

 霞の中で真っ白になりかけた思考の隅で、青はそんな事を感じていた。


「気持ちが落ち着いたら、それを長にお渡しするといい。お相手が、君に会っても良いと判断したならば、知らせが来るであろう」


 一体、誰に宛てたものだろう。

 青は受け取った書状を裏返して裏面をのぞくが、他に情報は記されていなかった。


「朱鷺殿が君に引き合わせようとしていたお相手は、毒術の神麟(しんりん)様だ」


 神麟。朱鷺の応龍と同じく、現役を退いた、元・麒麟だ。

 男は神麒、女は神麟となる。


「神麟様に…私を…?」

「その御方は、かつて禍地特師に麒麟の座をお譲りになった方だ」


「!」

 青の心臓が、強く鼓動した。

 指先から力が抜けて、手にした書状や冊子を落としそうになる。


「神麟様は当時、藍鬼一師と、禍地…当時の一師のどちらに麒麟を譲るかの選択に、禍地特師をお選びになった。外様の人間を麒麟になどとんでもないと多くの反対があった中、神麟様は決断を押し通された」

「しかし…」

「そう。知っての通り、その後間もなく、禍地特師が凪を出奔した。想像を絶する苛烈な批判や誹謗が神麟様を襲った事は想像に容易であろう。神麟様はそれから人里を離れいずこかに身をお隠しになり、表舞台からは姿を消してしまわれた」

「……」


 青は再び視線を書状に戻した。

 かつて、禍地に麒麟を託した人物。

 藍鬼ではなく、禍地に。


「応じて下さるでしょうか……」

 その真意が、知りたい。


「すっかり人嫌いになられたであろうから、なかなか難しいかもしれないが…君の人となりを知れば、きっと興味を抱いてくれるであろう」


「ハクロ特師…」

 顔を上げた青に、白き妖鳥の仮面はゆるりと頷く。


「そのためにも、更に精進を続け、武勲を立てる事だ。自ずとその評判は、神麟様のお耳にも届く」


 学び続け、研鑽を続け、励み続けなさい。

 この書状は、師・朱鷺から、弟子・シユウへ贈る、最後の叱咤激励だ。


 どこからか吹き込んだ風が、弔い香の白い煙をふわりと揺らした。



 医院を後にして、それからの記憶は曖昧だ。


 気がついたら青は、森の小屋の前にいた。

 既に幻術は解かれていて、引き戸に手をかけたところで、体が止まっていた。


 日の入りが早くなりはじめた秋の終わり、森は逢魔が刻に沈みかけている。


 長期任務に出て以来ぶりの帰宅。

 庵に作ってもらった手引を元に、残りの休暇を小屋の修繕にあてて気分転換をしよう、そう考えていたはずなのに。


 今は頭の中が空っぽだ。


「…さむ…」

 寒風が首筋を撫でていく。

 肩を震わせ、目が覚めたように青は、改めて引き戸に手をかけた。


「固…っしょぃ!」

 建付けが悪化している引き戸を、青は気合と共に力ずくで開ける。

 砂埃が立ち昇り、室内の淀んだ空気が一斉に放出された。


 室内に上がった青は、棚に置かれた藍鬼の仮面の前に、懐から取り出した龍の甲当てを置いた。

 朱鷺の遺品として受け取った冊子や書状を、卓の上にそっと並べる。


 それから窓を開け放って空気を取り込み、小さな行灯に明かりを灯した。


 次に竈門の側に置いてあった火鉢に「玉」と火を入れた。

 紙や可燃性の素材が多いため、あまり室内では火を使う事ができないが、狭い小屋の中では、それだけで仄かに暖かい。

 任務から帰還する頃には寒い季節になっているであろうと見込んで、出発前に準備しておいたかいがあった。


 任務帰りの片づけや簡単な掃除を一通り済ませ、ようやく一息ついて、棚の仮面と対面するように座る。


 動き回っていないと、途端に室内は静寂に沈む。

 秋の虫もなりを潜め始めているようで、窓の外から聞こえてくる音は少ない。


「……」

 そんな中、青も無言で鬼豹の仮面を見つめていた。


 次に、視線を卓上に並べた朱鷺の遺品に移す。

 何となしに手を伸ばして冊子の頁を指先で弄んだ。

 渡した時にはついていなかった、頁の折り目の感触。


 目許が熱くなる。

 パタパタと、畳に滴が落ちる音。

 身じろぎせず、涙もそのままに遺品を見つめたまま、青はしばらく動かなかった。


 どれほどの時間が経過したか。


 空気を入れ替えるために開け放たれた戸の外に、気配が現れた。


「大月君」

 横から声がかかる。


「え…」

 尋ねるまでもない。

 よく知っている気配と声だ。

 振り向くと、思った通り、戸口にキョウがいた。


 反射的に青は顔に触れて覆面の有無を確認したが、

「あ…もう、いいのか…」

 キョウの前ではその必要がないと気づいて、手を下ろす。


「突然、申し訳ない…って、どうしたんだ」

 泣きはらした目と、生気のない青の顔色に、キョウは思わず土間へ足を踏み入れた。


「…どうして、ここへ」

 青の掠れた声が尋ねる。


 ああ、と若干の躊躇の後、キョウは言葉を続ける。

「庵練師に君の事を聞いた」

 蟲之区で見かけて声をかけようとしたが、青が係官に声をかけられ立ち去ってしまったため、一緒にいた庵に声をかけたという。


「小屋の修繕をするって言ってたので、用事が済んだらそちらへ戻るのでは」

 と聞き、小屋といえば以前、幼い青の捜索任務で立ち寄ったこの場所を思い出し、記憶に従って辿り着いたという。


「大月君に話したい事があって…と思ったけれど、出直した方がいいかな」

「…どうぞ、埃っぽいですが」

「あ…ありがとう。閉めた方がいい?」


 尋ねながらキョウが後ろ手に引き戸を動かそうとしたが、びくともしなかった。


「コツがいるので、そのままで大丈夫です」

「確かに、修繕が必要だ」


 苦笑と共に、キョウは引き戸から一歩前へ進んだ。

 室内の様子は、十数年前に見た時と驚くほど変わった様子がない。


「すみません、水を入れ替えていないので、お茶も出せませんが…」

 腰を浮かして青は「座布団どこだったかな」と室内を見渡した。


「俺は玄関先で良いから…あれ…」

 キョウは土間に立ったまま、ふと、書物や道具箱などやたらと物が多い棚を見やる。


「大月君、これもしかして」

 その視線が、藍鬼の仮面の前に置かれた、龍の紋章で止まった。


「……あぁ……はい」

 キョウが見ているものに気づき、青はバツが悪そうに目を伏せて頷いた。


「昇格の呼び出しだったのか! おめで――大月君?」

 祝福を口にしかけて、キョウは言葉を切った。


 目を伏せる青は、どう見ても喜んでいるように見えない。


「何かあったのか…?」

 キョウは土間と室内の段差――上がり框に腰掛けて半身を傾け、青に視線の高さを合わせた。

 火鉢と行灯の仄かな明かりと、窓から差し込む微かな夕日の残光が、青の白んだ顔色を映す。


「……朱鷺一師が、亡くなりました。僕が帰還するより前に、すでに…」

「………」

 キョウは驚く様を、表には出さなかった。


 キョウとて、朱鷺との任務での付き合いは決して少なくなかったが、誰よりも朱鷺の死を悼んでいるのは、青なのだから。


「考えれば考えるほど、本当に僕が龍であっていいのか分からなくなってきました」

 頭でも気持ちでも整理しきれない内なる淀みを、青はただ声にする。


 獅子への昇格までは、賜った紋章を身につける喜びに奮えた。

 だが今は、師匠から譲り受けた龍が重く圧しかかる。

 身につけるのが恐ろしくも感じて、懐に仕舞ってここまで帰ってきた。


「僕は…恩人や大切な人に、迷惑をかけてばかりで…」

 俯いた青へ、キョウは改めて口を開いた。

「それは誰だって…君の師匠たちでも同じだったはずだ。俺も、君に怪我を負わせたりして多くの迷惑をかけたし、助けてもらってきた」


 項垂れた青の首が、力なく横に揺れる。

 膝に置いた青の拳が、固く握られた。


「最初の師・藍鬼師匠も、三人目の師・朱鷺一師も、恩返しができないまま、見送り、弔う事もできなくて…」

「……」


 訥々(とつとつ)と、言葉を手繰り寄せるように、震える声を絞り出す青を、キョウは静かに見守る。


「恩人に不義理をしただけでなく、さらに大切な友人までも違背に巻き込んでしまった…」

 青の声が、強く震えた。


「……大月君」

 ぱちりと、火鉢の中で炭がはじける音が響いた。

 自分の事が語られていると気付いたキョウの瞳が、僅かに揺れる。


「要塞での事は、任務違反であろうが、俺は君の行動に間違いは無いと判断した。だから俺自身の決断でもある。それと、君の秘密を知ってしまった事も罪だというなら、俺は死ぬまでそれを背負う」


 え、と顔を上げた青の瞳が見開かれた。


「俺は」

 キョウは片膝を畳につき、座り込む青の両肩を掴んだ。


「君と一蓮托生も厭わない」

「……」

 真っ直ぐすぎる言葉と眼光に見据えられ、青はただ、瞬きを忘れていた。


 そしてまた、お互いに無言の静寂が横切る。

 今回も、先に言葉を発したのはキョウの方だった。


「…約束、覚えてるかな」

 キョウは軽く青の肩を押し返して離れ、土間に立ち上がる。


「約束?」

「初めて翡翠之國へ向かった任務で、露流河の手前まで進んだ日の夜」


「あー…」

 少しずつ、青の脳裏に記憶が浮かび上がる。


 深く広い森と大河、そして翡翠への道を塞ぐ壁のような連峰を見渡せる崖上での夜営。

 火を囲んで酒を飲む隊員たちから少し離れた岩場で一人、青が地図を広げていたところ、キョウが話しかけてきた。


 任務の目的や、翡翠之國について話をして、キョウがザルだと聞いて笑って、それから――


 いつか許される時がきたら、飲みに行きましょう


「飲みに…」

 思い出した、と青が顔を上げると、日が落ちて暗さを増した室内で僅かな光を受けて浮かび上がる、キョウの碧い視線とかちあった。


「聞かせて欲しい。大月君がこの先に背負うであろう試練について。これまで出来なかった話もしたい」


 ふっ、と浅い吐息と共に、端正な口許に笑みが浮かぶ。


「俺は口が堅いよ。酒で失敗もしない。「フチだけの水瓶」だしね」

「……ふはっ」


 泣き笑いが入り混じった声で、青は吹き出した。


 藍鬼の殉職を知った夜。

 初めて無垢の命を奪った任務を達成した後。

 かつて独りきりで泣き明かしていたこの場所に、今は一蓮托生の友がいる。


 凪に新しい龍が誕生した、杪秋(びょうしゅう)の夜の事だった。




毒使い 第三部 完

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