ep. 37 西の陣守村(2)

 翡翠ノ國は西方へ転送陣を敷く導入として、あらゆる条件が揃っていた。


 凪から最も距離が近かった。

 僅かな規模とはいえ、細々と交易が行われており国交の礎があった。

 為政者が東方との外交に理解を示していた。

 穏やかな国民性。

 

 ここに続く二国目は、これら全ての条件が保証されていないため、無の状態から手探りしなければならない。


「転送術の距離限界を越えるためには、一度必ず翡翠を経由する必要がある。なれば、二箇所目は翡翠からの距離限界間際を狙うべきかと」


 西方進出を担う凪隊の面々が、室内の中央に置かれた大机に広げられた、諜報部が作成した西方の軍用地図を囲んでいる。


 翡翠に続く転送陣設置地域はどこか。

 西へ赴いた経験のある面々が集まり、知見と意見を出し合うのだ。


「そうだなぁ。はじめから友好的な翡翠ですら許諾を得てからここまで整うのに一年かかったんだ。ちまちま進んでちゃ、獅子國にたどり着くまでにどれだけかかるのやら」


 うーん、と猪牙の低い唸り声が漏れる。


「ここから同距離ほど進んだ範囲の国や地域と言うと…砂丘を越えた先に天の柱(あまのはしら)と呼ばれる峻険が連なる地帯があって、鷹の巣と呼ばれる台地に白鷹ノ國があるが、ここは陣守村を開くには地理条件が厳しすぎる。そこを越えれば草原が広がって蒼狼ノ國がある。地理条件的には開村向きだが、ここは遊牧民族が多くてな。陣守村に適した既存の村があるかどうかはさらに細かい調査と交渉が必要だろう」


 諜報部代表として天陽が地図を指し示しながら、西方の国々や集落、地形を詳説していく。その間、一度も手元の資料に目を落とす事が無い。


「天陽おじちゃん、イキイキしてる」

「西方の事は全て頭に入っておられるんだな。ちゃんと東雲准士とお呼びしろよ」

「おじちゃんは、おじちゃんだもの」


 議論の輪の外で傍聴している双子がまた無意識に顔を寄せて、ひそひそ声を向け合っている。


「今更な質問で恐縮ですが…」

 遠慮がちな青の声が横切った。

「どうぞ、二師」

 議長であるキョウの許可を待って、青は言葉を続けた。

「陣を設置する最終目的地はやはり最西の大国、獅子國となるのでしょうか」


 一度、キョウと猪牙が顔を見合わせる。


「…陣の置き場は交渉次第にはなりますが、少なくとも凪の目標は、獅子國との有益もしくは友好的な国交を持つ事です」

「獅子國は西方の中で最も歴史が古く、そして最大の強国だ」


 続く天陽が、大机の地図の最西を指し示した。


「長い歴史の中で西方の国々の多くは、傀儡国や従属国、保護国として、獅子國の影響を大きく受けてきた。翡翠は西方でも例外に入ると考えた方が良いだろう」


 西方を語るに獅子國の存在は決して無視できない、という事だ。


「翡翠に陣を敷いてから、獅子國から何かしらの接触はあったのですか?」

「その可能性も想定して構えていたが、今のところ特には」

「西方の宗国たる獅子國からすれば「そっちから挨拶に来い」ってところじゃないかしら」


 ホタルの言葉に、檜前と雲類鷲の二人が「はい」と頷いた。


「ホタル一師のご意見に同意します」

 雲類鷲准士が言葉を続ける。


「あの国の宗家たち自らが東方に歩み寄るとは思えません。東方は野蛮な未開の地だと。少なくとも、下民の間ではそう教えられるのです」


 民の東側への国外逃亡を防ぐためであろう事は、想像に容易だ。


「……下民の間では…」

 外套の襟に半分隠れた口許に、指先を無意識に添えながら、青は呟く。


「お二人も、幼い頃にそう教わっていたのですか? 東方は野蛮で未開だと」

 以前檜前が、獅子國における彼は神獣人に相見える身分ではない、と話していた事を思い出した。青の指摘に二人は後ろめたさを感じてか、目を伏せる。


「……はい、今となっては恥ずかしながら」

「責めるつもりではないのです。わずか十三の年齢で「野蛮で未開」と思っている東へ旅に出るのは、相当の覚悟であったのだろうと思い」

「………」


 二人が獅子國出身の獣血人であると知らされている面々は、静かに青とのやりとりを見守った。


「話を、聞いたのです」

 檜前が継ぐ。


「東方の国々を見てきたという人物から」


 当時幼かった檜前ら孤児たちを前に、その人物が語ったのは。

 東方には発展した社会を営む国々があり、そこには「半端もの」の概念は存在せず、誰しもが努力と実力次第で立身出世も可能である、と。

 それはまさしく、五大国の理念そのものだ。


「それでガキが命がけで国を飛び出したのか…すげぇ決断だぜ」


 感嘆の吐息と共に何度も深く頷くのは、猪牙だった。蔑まれる身分の孤児たちにとって、その人物の話は夢のような物語であっただろう。


「はい。話を聞きながら、孤児仲間の皆で口をぽかんと開けていた事を思い出します」


 もっとも、共に夢物語を聞いた仲間たちのうち、生きて理想郷へ辿り着く事が叶ったのは、僅かに三人。

 亡き友たちを想うのか、いつもは鋭利な光を宿す雲類鷲の瞳が、追憶に和らいだ。


「その人物いわく。東方では、半端ものでも麒麟になる事ができるのだと。身に着けていた麒麟の紋を見せてくれて」


「え…っ」

 その瞬間、顔色を変えたのは青だけでは無い。


「麒麟の紋…?」

 広机を挟んだはす向かいに立っていたホタルの白頭巾が一瞬、強く震えたのが見えた。


「その人物は、麒麟の紋を身に着けていた?」

 努めて平静な声色で、青は獣血人の両名へ問いかける。


「はい」

「「どこ」に、着けていましたか」

「どこ…」


 質問の意味を咀嚼しているのか、思い出そうとしているのか、両名は一度顔を見合わせた。


「衣服のどこかだったか…」

「腕……?」


 宙を彷徨っていた檜前の視線が、青の手で止まった。


「そうだ、手、手甲です。ちょうど一師や二師と同じように……って」


 そこまで口にして、檜前は再び雲類鷲と顔を見合わせ、そしてホタル、青へ、動揺に揺れた瞳を向ける。


「まさか、技能師…」

「しかも麒麟……?」


 東方では「半端もの」でも「麒麟」になる事ができる。

 言葉の辻褄は合う。


 混乱しかける記憶を懸命に整理しようとしているかのように、獣血人の両名は視線を右往左往させている。


「え、ど、どういう事? よぎり」

「しーっ…静かに聞こう」


 突然の空気の変化に、輪の外側から傍聴していた双子は自然と肩を寄せ合っていた。


 キョウ、猪牙ら上士両名と、天陽は神妙な面持ちのまま議場のやりとりを見守る。


「その麒麟を着けていた人物は、どんな容姿をしていたか、覚えてる?」

 さらりとした衣擦れの音に目をやると、腕を組み替えたホタルが僅かに小首を傾げている。

 紅を引いた唇の動きや声に、感情の揺れは見えなかった。


「仮面を着けていたので印象に残ってはいましたが、素顔の記憶はありません」

「仮面……」


 東方を知る者。

 麒麟の手甲。

 仮面。

 その時点で青の脳裏に浮かぶ名は、一つしか無い。

 それはおそらく、ホタルも同じ。


 凪之国、毒術師の麒麟、禍地。


「どんな形の仮面だったかしら?」

「ずいぶんと恐ろしい形の面だったような」

「妖の類だろうか」


 獅子國出身の二人の幼なじみは、互いに記憶を探り合う。


「額から角が二本と、口は獣のように開かれていて大きな牙があって…」

「あれは――鬼?」

「……」


 二人の会話を聞くホタルは、頭巾の襟もとを指先で弄んでいる。紅を引いた唇は無感情に引き結ばれていた。広机を囲む面々がみな、ホタルの次なる言葉と反応を待っている。青もその一人だ。


「他には?」

「――え…?」


 ホタルからの問いが続く。


「その人、他に特徴はあった?」

「他に…あぁ…そういえば」


 何かに気が付いたように、檜前と雲類鷲は顔を上げた。

「私は最初、その人物を女性と見紛いました」


 雲類鷲の言葉に檜前が「そう、そうだった」と独り言を漏らす。

「俺…は、孤児仲間の年長者の少年と勘違いをして「何でそんな仮面を着けてるんだ」と、からかったのです」


 次々と掘り起こされる記憶。

 いわくその人物は、十数年前当時の、雲類鷲少年の線が細い体格とさほど変わらず、袖からのぞく腕は細く白磁のようであったという。故にその華奢さから、女とも、体躯が未発達な少年とも見えた。


 だが言葉を交わしてみれば、口調や振る舞いは檜前少年たちが知る「大人」のそれで、未知なる東方の国々の物語に夢中になるうち、初対面時の違和感は消え失せていたという。


「……」

 話を聞きながら、青の内心は疑問と失望がごちゃ混ぜになった感情に疼いていた。


 凪から出奔した時期も合わせて、その人物が禍地である可能性は十分にはらんでいる。

 だが、十数年前の時点で女または少年に見紛えるいで立ちとあれば、禍地が三十歳手前で麒麟の位を受けたとされる凪の記録との、齟齬が生じる。


 その人物は、禍地ではない他人か。

 もしくは――


「私には、その人物が何者であるのか断定はできない。――けれど」


 ホタルの声が、静寂が降りていた室内で、青の鼓膜にはひどく響いて聞こえた。


「私たちが知る凪の毒術師、麒麟の位、禍地特師の特徴に限りなく近い事は、確か」


 私たち。

 その言葉に応じるように天陽が頷いたのが、青の目には映っていた。


「……かの国……」

 その人物が禍地であるならば、ハクロが「かの国」と濁して語った、藍鬼と禍地を追って旅立った先は、やはり獅子國だったのだ。


「――ぃ…っ」

 唐突に左腕に疼きが走り、青は呻きをかみ殺した。外套の裾に隠れた位置で左袖をたくし上げる。藍鬼が残した刻印の端が、少し熱を帯びたように紅潮していた。


 十五年近くが経過しても消えない、もはや身体の一部となっていた「鍵」。


 かつて藍鬼の遺言箱を開くための鍵であったものが、今は西方への道を開いている――そんな気がした。


「麒麟…か」

 何かを思い立ったかのように、天陽が天井を見上げ、そしてすぐさま腰を屈めて広机に手を突いた。


「その手があるかもしれん」

「東雲准士?」

 紙面が檜の広机と擦れ合う音。面々が見守る中、地図を示す天陽の指先が、翡翠から北へ大きく迂回する。


 ちょうど獅子國と、翡翠で三角形を描いた頂点にあたる位置。


「ここいらには、中立地帯があってな」

「中立地帯?」

「如何なる勢力もここで血を流す事は許されない、不可侵の里がある」


 各地の戦傷者、家族や家を失くした者、迫害された者、年老いた者。

 あらゆる弱き者が身を寄せ、静かに穏やかな余生を過ごす場所、と伝わる。


「……しろたえの里みたいな場所だな」

 と猪牙。隣でキョウも頷いていた。


「西方にはこうした不可侵の地がそこかしこにあると言われている。多くが隠れ里であったり、特殊条件下でなければ辿り着けなかったりするようだが」


 故にチョクトクでも把握できている箇所は少ない。だが青が翡翠で好々爺たちから仕入れた、数多くの「しろたえの里」と類似する救済の地を表す伝承の存在が、その裏付けとも考えられる。


「ここの中立地帯は「くりんの里」と呼ばれている」

「くりん?」


 天陽は筆をとると傍らの半紙に「涅麟」と書いた。


「涅は黒色、麟は雌の麒麟。すなわち、黒麟が護る里だ」

「麒麟が……?」


――きりん様は一番えらい神獣様なんだ


 村落で鈴に痛み止めのおまじないを教えてもらった時に聞いた、物語。


「しかし麒麟は西方において、その、特別な神獣なのでは」

「よくご存知で」


 青の言葉に天陽が破顔する。視界の端で、ホタルの白頭巾が徐ろに青を向いた気配を感じた。


「麒麟は西方において神獣の頂点と崇められている存在だ。血胤、血族ではなく、千年に一度だけ光臨する神とされている」


――千年に一度しか生まれないんだよ


 鈴が語った「きりん様」の物語とも一致している。

 血を繋ぐ存在でないのであれば、麒麟とは突然変異で生まれるものなのであろうか。


「麒麟は天変地異を引き起こすとも言われるが、神話や古事によって様々で、その力は未知数だ。故に無碍に里を侵そうという者はおらず、里も自ずから外界と接触はせず隔絶と静寂を保っている」


「触らぬ神になんとやらってところか」

 猪牙が肩を竦めた。


「しかし、そんな神と崇められる存在が、なぜ隠れ里に」

 それこそ、西方を治める為政者として君臨する事はないのか。

 キョウの問いは、青の疑問を代弁していた。


「私たちにとって麒麟は御伽噺の存在でしたから、そのような場所があるとは知りませんでした…」

 獅子國出身の二人はちらりと目配せしあう。両名とも麒麟に対する認知は共通しているようだ。


「御伽噺…それはどのような内容でしたか」

 青から投げかけられた問いに、キョウの片側の口角が小さく上がった。


「色々あった気がしますが…覚えているものでは…」

 二人が記憶を探りながら絞り出したのは、


「妖から人々を護るために戦った」

「どこかの湖は麒麟がクシャミをした勢いでできた」

「どこぞの地形は麒麟が風を起こして岩が削れたからできた」


 といった類の、麒麟を称える英雄譚や、如何に麒麟の力が強大かを語るものが大半だった。

 

――千年前に生まれたきりん様は、鬼に喰われて死んじゃった

――きりん様を守るために戦士様たちは鬼退治をするの


 鈴から聞いた麒麟の悲劇と類似する物語は、二人の記憶には無かったようだ。


「鬼が登場する御伽噺も多く存在します」

 檜前と雲類鷲いわく。

 鬼は常に「悪」の象徴として登場し、最後には倒されてしまう存在として描かれる。子ども向けの勧善懲悪譚の典型的な題材のようだ。神獣の対極、敵と位置づけられる存在だという。


「我々が知らぬだけで、麒麟を喰ったという話があってもおかしくはありません」

「なるほどな。しかし、ここでも鬼の登場か」

「その特師といい、麒麟と鬼には何やら因果関係があるのか」


 猪牙とキョウの素朴な疑問に、


「………」

 天陽は神妙な面持ちで目を伏せた。

 次につなげるべき言葉を探っているように。


「麒麟……鬼……」

 外套の襟に装着した黒い鬼豹の留め具を、青はそっと握りしめた。

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