ep.29 ある日(1)

 炬之国の陽乃姫騒動から、一年後。


 七重塔、蟲之区。

 この日、初めてこの場に足を踏み入れた少年がいた。


 年の頃は十歳ほど。黒髪の一部が銀髪に脱色して斑になっているのが特徴的だ。瞳は片方がこげ茶、片方が髪と同じで銀とも表現できそうに色素が薄い。


 少年は物珍しそうに周囲へ視線を巡らせながら、ゆっくりとした足取りで中央の円形空間から東西南北に伸びるそれぞれの区間を見て回った。


 工房、薬草園と巡り、実験場と札の掛かった区域へ足を踏み入れる。


 そこで少年は、ある奇妙な光景を目撃する。


 実験場内は設備らしい設備はなく、一見して道場のようでもあった。

 三方の壁は全面窓で全開状態となっていて、人気の無い裏山に繋がっている。


 開け放たれた窓からは、人の手があまり入っていない草地が庭のように広がっている。

 床は片面は畳だが、片面は土間となっていて外へ繋がっている構造だ。

 天井も開閉可能な吹き抜け状態で、室内全体の換気が徹底されている。


 そんな室内の一画に、二つの人影があった。


 一つは、紅く長い嘴の朱鷺面を被り首から下を外套で包み隠している、奇妙なイキモノのような、おそらくは女。


 もう一つは、法軍支給品目録の挿絵を具現化したかのような、没個性的な装いの若手技能師の青年。


 そんな二人組が実験場の片隅で、大量の薬瓶が置かれた台を前に並んでいるのだ。


 技能師を目にする機会が少ない少年は、何をしているのだろうと、好奇心のままに戸口から二人の様子を見つめた。


「玉(ギョク)」

 若手技能師の青年唱えに応じて、右手に持つ薬瓶の液体が浮き上がり宙で小さな水玉となる。そこへ、


「玉」

 今度は左手で水術を発動させて別の水玉を顕現させる。慎重な動きで右手と左手を体の正面で組むと、左右の水玉も正面で重なり、融合した。


「混ざれ……混ざれ……」

 覆面の下で呪言のように青年が呟き、その隣で朱鷺面も水玉の様子を食い入るように見つめている。水玉は次第に無色透明から、顔料を落としたように朱に色づき始める。


 だが、

「あ」

 子どもの頬のような紅潮が、急激に色を失くして灰色となり、水は砂へと変質して二人の足元に崩れ落ちた。


「あぁ……」

 見るからに失敗した様子で青年は肩を落とす。


「術の塩梅は良かったけど……毒薬側の純度が足りないんじゃ……」

 師匠と見られる朱鷺面が、作業台の隅に開いて置かれた書物を手繰り寄せ、二人で前のめりになって紙面を指さしながらああでもない、こうでもないと議論しあう。


「あれ、シユウ君かな」

「お?」


 そこへ更に二人の若い男女の技能師が、少年の背後を通りかかる。双方とも手甲には狼の紋。見知った仲の青年へ声をかけようか迷っていたようだが、


「お師匠さんと実験中かしら」

「後でにしとこうか」

 二人は興味深げに師弟の様子を窺いながら、その場を離れて行った。


「……何の実験だ……?」

 少年はそれからも一刻ほど二人の観察を続けたが、結局その後も水玉を作っては薬を混ぜる行為を延々と繰り返していた。


 

 また別の日。

 少年は、訓練施設の一画にいた。


 法軍には士官が自由に利用できる訓練施設がある。

 屋内の道場から屋外の演習場まで多様で、主に若手の利用者が多い。上士や特士等の高位者は秘匿主義、もしくは各々で独自の鍛錬法や場所を持っている場合が多い。


「おい、道場に峡谷上士が来ているらしいぞ」


 そのため、名うての士官が訓練しているとなれば、若手はじめ野次馬が覗きに来るという現象が起きるのは致し方ないのである。


 畳敷きだけの、他に道具もない簡易な道場で組み手をしている長身を、戸口や窓から覗きに来る人影が絶えない。


「相手は誰だ」

 道場の中央では、訓練用の軽装に身を包んだ峡谷豺狼上士が、誰かを相手に袖を掴む、受け流す、を繰り返していた。


 組手の相手は峡谷上士の長身に隠れ、野次馬達からは窺いみる事ができない。


「お相手は、医療士の方です」

 戸口で正座をして組手を眺めていた少年が、近くに立つ士官たちの疑問に答えた。


「医療士? 何で峡谷上士が医療士なんかと組手を」

 見れば峡谷上士より頭一つ分は小柄な青年の姿が、見え隠れする。


「で、対戦成績は?」

「訊くまでもないだろ」


 野次馬の一人が笑うと、釣られて周囲からも失笑が生まれる。


「っ!」


 息を詰まらせたような音がして、峡谷上士の上背が沈んだ。


「――?!」


 戸口で見学していた少年の口が「あ」の形に開いた瞬間、低い不自然な体勢から峡谷上士の足払いが放たれ、今度は逆に組手相手の青年が体勢を崩して直後には抑え込まれてしまう。


 峡谷上士に、一本。


「ほらな」

「体格差からして、相手にならないよな」

 野次馬が一人、二人、苦笑しながら去っていく。


「……」

 戸口に正座していた少年は、微量に軽蔑の色をにじませた目でその背中を一瞥した。


「峡谷上士の方がやられかけたの、見えなかったのか……?」


 どこに吐き出すでもない罵りを呑み込んで、少年は再び道場の中央を見つめる。


「危なかった。大月君、さっきの何?」

 峡谷上士が、自ら組手で倒した相手を引っ張り上げるところだった。大月君、と呼ばれた相手は「くやしいなあ」と苦笑いしながら立ち上がる。


「腕のこのあたりに」

 大月医療士が峡谷上士の腕をとり、

「点穴があって」

「いたたたた、それ! それ何!」


 痛がりながらも笑って体を捩る峡谷上士と、執拗に腕のツボらしき箇所を押そうとする大月医療士。


 その子犬が取っ組み合うような攻防を繰り広げる二人を戸口で眺める少年は、ほんの少し前に目撃した光景の記憶を脳裏に巻き戻す。


 あの瞬間――大月医療士の右手が峡谷上士の左腕を掴んだ、その刹那に見えた峡谷上士の目許は確かに、痛みか焦り、いずれかの理由で歪み、長身の上背から力が抜けて落ちかけたのだ。


 しかしそこはさすが天才と名高いだけある故か、峡谷上士が驚異的な体幹をもって不自然な姿勢から足をかけ、抑え込んで一本を奪う事に辛うじて成功したといったところ。


 とはいえそこまで計五回の組手で峡谷上士が圧倒していた事には、変わりがないのだが。


「今日もありがとうございました」

「俺の方こそ」


 点穴の解説も一通り終えたようで、両者が引き上げてくる。壁際の棚に置いた鞄や手ぬぐいを手に、先に峡谷上士が戸口の方へ歩み寄った。「お待たせ」と、正座する少年へ口角を上げる。


「大月君に紹介しておきたかったんだ」

 峡谷上士は立ち上がった少年の肩に手を添えて、大月医療士を振り向いた。少年の存在に気づいた大月医療士が「こんにちは」と柔らかく微笑んで会釈をする。


「彼は日野君」

「日野……」


 名前を耳にして大月医療士の表情に驚きが通り過ぎたのを、少年は読み取っていた。


「日野よぎりです。妹のあさぎが、大変お世話になりました」

「!」


 年に見合わぬ礼儀正しさで頭を深々と下げられ、大月医療士は少々面食らったように黒目を丸くさせる。すぐに気を取り直して、


「大月青です。君があさぎちゃ……すみません、妹さんは元気ですか。ぜひよろしく伝えて下さい」

 よぎりにあさぎの面影を重ねているのか、大月医療士は懐かしげに破顔した。


「俺が日野君の指南役に任命されてね。日野といえば、と思いだしたから紹介したくてさ」


 峡谷上士の説明に大月医療士は「という事は」とよぎりへ向き直って、また黒い瞳を丸くする。


 法軍では新米の下士は一定期間、上官の下について行動を共にする、いわゆる実施訓練、研修制度があるのだ。


 あさぎと双子であるよぎりは、現在十歳。

 幼年でありながら、一法軍人として自立を果たした事になる。


「おめでとうございます、日野下士」

「恐縮です」

 もう幾度とかけられたかわからない祝いの言葉へ、よぎりは礼儀で塗り固めた面持ちと会釈で返礼した。


「しかも指南役が峡谷上士だなんて凄い。僕が羨ましいくらいです」

「……光栄です」


 名高い人物を指南役につける人事決定は、よぎりに対する法軍の期待値の現れだ。


 何故か嬉しそうに声を弾ませている大月医療士を、よぎりは不思議そうに見つめた。


「大月「先生」にそう言われるとなあ」

 峡谷上士は苦笑して後頭部をかいて、訓練着の上に上被の袖を通す。大して汗をかいていないのだろう。


「先生、ですか?」

 よぎりが首を傾げると、


「そう。大月君は俺に勉強を教えてくれる先生だから。じゃ、また式送るよ」

 ぜひ、と会釈を返す大月医療士へ手を振って、峡谷上士は道場を後にした。よぎりはその背中を追いかける。



「日野君はどう思った?俺と大月君の組手」

 訓練施設の廊下を出口に向かい歩くさなか、前方を向いたままの峡谷上士がよぎりに問うた。


「最初の四戦は圧勝でしたが、最後の最後に峡谷上士が落ちかけたのが見えたので、危なかったと感じました」

 弟分の正直な回答に、上官は「見られてたか」と笑う。


「あの人は、優しそうな顔しておいて毎度、何か仕掛けてくるから油断ならない」

 廊下の先を見据えたままの上官。懸命に足並みを揃えながら、よぎりはその横顔を見上げる。


 大月医療士と別れるまでたたえていた笑みは既に消失していて、色素の薄い瞳には、深い思案の色が浮かんでいた。

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