ep.8 任務(1)

 二刻ほどが経って、森の鳥の鳴き声が変わり始めた頃。


「か……じ……」

 奥の部屋から掠れた声が漏れ聞こえた。


「師匠??」

 青が振り返ると、横になっていた藍鬼の片腕が持ち上がり、宙を掴もうとしている。


 うなされていた。

 熱が上がったのかもしれない。


 水の入った湯呑みと木匙を持って向かおうとする途中で、青は足を止めた。

 藍鬼の手が止まり「何だこれ」と手ぬぐいが巻かれた目許を弄り始めたのだ。


 覚醒したようだ。

 青は慌てて背を向ける。

 衣と畳が擦れる音がして、


「青?」

 背中に声がかかる。

 体を起こして、手ぬぐいが外れたようだ。


「仮面!」

「え?」

「そこに置いてあるから」

「え、あぁ」

 まだ少し寝ぼけたような声と、床が軋む音が続く。


「もういいぞ」

 音が近づいたかと思うと、藍鬼の足が脇を通り過ぎかけた。途中、青が持っていた湯呑みを、筋張った長い指先が取り上げる。もう片方の手には仮面。


 藍鬼は青に背を向けて水を飲み干してから仮面を装着し、それからようやく振り向いた。

 いつもの鬼豹面が、青の前に腰を下ろす。


 藍鬼が何かを言い出す前に、

「悪い夢みてたの? うんうん言ってて苦しそうだった」

 心配色の面持ちで、青は詰め寄った。


「思い出したくない野郎の顔が出てきただけだ」

 それより、と藍鬼は脇腹を撫でる。

 青が手当をした箇所だ。


「世話をかけたみたいだな」

「僕はぜんぜん……」

 青は首を横に振る。


「ハクロさんって、鳥の仮面の人が解呪してくれたんだ。心配で戻ってきてくれたみたいだよ」

「そうか。ハクロが」

「師匠の顔、僕も見てないし見せてなかったからね!」

「さっきの手ぬぐいもお前か」

 黒い仮面の下から、くぐもった苦笑が漏れた。


「ハクロさんに、見たのか、ってすごい怒られそうだったんだ。何でダメなの?」

 ハクロも仮面を着けていたことから、傷を隠すため、といった藍鬼の個人的な理由ではなさそうだ。


「狼以上の技能師は素性を隠さねばいけない。仮面でなくとも良いがな。覆面の奴もいる」

「変な規則」

「大人の事情ってやつだ。お」


 ふと、仮面が青の傍らに向き、長い腕が伸びた。

 指先が二枚の証書を持ち上げる。


「これを、俺に見せに来たのか」

「あ、そうだった! うん!」

 一番伝えたかった事を思い出し、青は破顔する。


 そんな弟子の無邪気な様子と合格証書を見比べる仮面の模様が、どこか感慨深そうにも見えた。


 つい一年前に出逢った時は、何も物を知らない放浪の子であったのに。


「よくやったな」

 師の手が、弟子の柔らかい黒髪をかき混ぜるように撫でた。


「……」

 青は動きを止めた。

 初めて褒められた気がする。


 触れた手のひらから伝わる温度が、頭から体の芯を通って広がるような感覚に、懐かしさを覚えた。


「二級もがんばるね」

 師を喜ばせ、褒められたいという気持ちが、自然と言葉になった。


「……ああ」

 細かい傷が多い手は、しばし黒髪をかき回し続けていた。




 日が傾きかけた森を、陣守の村へむかって師弟は並んで歩いた。


「休んでいなくていいの」

 青の目線は、ちょうど藍鬼の脇腹にある。


「俺も都に用がある。それに寝不足だっただけだ」

「お腹に穴が空いてたくせに」

「ハクロが大丈夫だって言ってたのだろう? 奴は薬術の獅子だ」

「ハクロさんって師匠の部下?」


 恐ろしげな妖鳥の面がいまだ青の脳裏に残ってチラつく。大人の事情であること以上の、顔を隠さなければならない理由はまだ聞かされていない。


「階級としてはそうだが。部下ではない」

 青が覚えた技能職の階級一覧表では、藍鬼が持つ龍の下に獅子が位置していた。階級の上下と、部下であるか否かの違いは、青には分からなかった。


「ハクロさんって、どういう人なの」

 小屋で見た、ハクロの藍鬼への接し方が青には印象的だった。大人同士でしか見たことのない上と下もしくはもっと別の関係性、これも青にはまだ理解できないものだ。


「あんなナリだが珍しい善人だ」

 師匠も、あの仮面が変だと思っていたらしい。

 弟子はにやけた口元を、指先で隠した。


「いずれ薬術の麒麟になるだろうと言われている」

「麒麟に?! へぇ……」


 青は前々から尋ねたかったことを口にした。

「じゃあ、毒術の麒麟って、どんな人?」


 答えはすぐに返ってこなかった。


 師匠? と青が見上げれば、まっすぐ前を見据える鬼豹の仮面、その隙間から見える口端が、固く引き結ばれて見える。


「ロクでもない野郎だ」

 ぽつりと、それだけが返ってきた。





 自称・弟子を都まで送り別れた後、藍鬼は七重塔へ向かった。

 七重塔は俗称であり、機能としての名は官邸および行政と法軍本部であるが、関係者も「七重塔」を通称として使っていた。


 藍鬼は文字通り真っ直ぐに長の執務室へ向かう。風を操り、跳び、途中階の外廊下から侵入するのがいつもの経路だ。誰もそれを咎めないし気に留めない。


「ケガをしたと聞いたが」

 出迎える長も、それを黙認していた。


「寝不足だ」

「ここまで来られるなら元気だね。良かったよ」


 それで、と長は執務机上に置いた両手を組んだ。長衣の袖がはらりと擦れる。


「例の特別任務について、返事をくれるのかな」

「その件だが」


 鬼豹の仮面が肩越しにちらと、入口に立つ護衛官らを見やった。長が片手を上げると、両者は礼を残して室外へ去っていった。


「一年、待ってほしい」

「あの子がいるから、か?」


 仮面の返答に、長は軽く小首を傾げた。わずかに顔を逸らした仮面が、無言の肯定となる。


「いまさら、君が誰かに入れ込むなんて意外だとは言わないよ」

 机上の書類を一枚手に取って、長は徐に立ち上がる。


「あの子、二種で三級を獲ったらしいね。六歳だろう。誰かさんの五歳の最年少記録が脅かされるとは」

 誰かさん、で長の微笑を象った両眼が、鬼豹の横顔へ向いた。


「今のところ、君が見込んだ通りの子だったという訳だ。平凡な難民孤児であれば地方の子どものいない夫婦に託して地方の学校に通わすくらいが通例だが。君がわざわざ私に連絡をよこしてきたと思ったら、霽月院に入れて都の法軍学校に通わせて欲しい子がいるときた」


 長の手から、書類が机上に戻される。

 表紙には「大月青」と氏名が記載されていた。


「猶予はあと一年、で足りるのかい」

「一年あればいい」


 黒き仮面は、頷いた。

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