毒使い

ep.7 負傷（２）

　臭いを追って進むと、小屋が見える一帯にたどり着いてしまった。

　いっそう、錆の臭いが強くなる。

「え……」

　見ると森の奥方向から、小屋の入口に向かって赤い点々が筋を描いていた。筋は開け放たれた戸口から中へと続いている。

「だ、誰が」

　獣に襲われた負傷者が偶然みつけた小屋へ逃げ込んだのか、それとも――

　採集用に持っていた苦無を片手に、青は忍び足で小屋へ近づく。

　戸口を跨いだ青のつま先に何か軽い物が当たった感触がした。

　土間に仮面が転がっていた。

　黒い鬼豹の仮面。

「え、し、師匠の」

　拾い上げて見ると、外から差し込む光の中で、仮面に赤黒く乾いた液体が付着しているのが分かる。

　内側へ裏返すと、まだ新しい血液が彼岸花を描いていた。

「！」

　顔を上げて室内を見やる。

　戸口から指す光の先、赤い点々は土間から居間へ上がり、更にその奥へ続いていた。青が踏み入る事を許されていない奥の部屋へ続く扉が全開している。

　だが外からの光は十分に届かず、部屋の様子までは土間から窺うことができない。

「し、師匠？　いるの？」

　恐る恐ると居間へ上がり、奥の部屋へ近づく。

　強くなる血臭、それに伴い奥の部屋からの音も耳に入ってきた。

「は……っ、……は……」

　息遣いだ。

　荒く、苦しげな喘ぎ。

　近づくにつれ、奥の部屋の様子も弱い光源のもとに輪郭が見えてきた。

　まず青の目に入ったのは、誰かの足。

　床に横倒しになった人間―おそらく男。

　黒い履物から黒い衣服に包まれた脚にかけて。

　腿に巻かれた革帯には針差しが装着されている。

　更に一歩近づくと、光は次に上半身を映した。

　不規則な呼吸に上下している胸。

　見覚えのある腰帯と道具袋、刃物差し。

　力無く放り出された腕には凪の紋章を刻印した腕章。

　そして刃物差し。

「師……」

　駆け込もうとして青は踏みとどまった。

　光は奥の部屋で倒れている男の血で濡れた口元までを映している。そこから上は影に隠れていた。

　仮面は土間に落ちている。

　顔が見えてしまう。

「どうしよ……」

　顔が見えたところで問題など無いはずだ。顔を見せられない理由も聞いていない。

　だが、そこに在るものがとてつもない禁忌に思えて、青の足を竦ませた。

「ごほっ……、は……」

「！」

　咳き込む声に、青は我に返る。

「見ない。見ない」

　青は自分の道具入れから手ぬぐいを取り出した。

　見ない、見ない、と自分に言い聞かせ、視線を反らし焦点をぼやかしながら、倒れている男―藍鬼に近づく。

　拡げた手ぬぐいを藍鬼の顔へ被せ、鼻筋から目許と額が隠れるように巻いて軽く結んだ。これで人相は判別できない。

「し、師匠、どうしたの、分かる？」

　青は声をかける。

　ここまでしても青の存在に気付かない状況が、もはや異常なのだ。

　血で汚れた口で呼吸をし、胸当てに包まれた胸部が不規則に上下している。全身が黒ずくめなのでわかりにくいが、腹部あたりに濃い染みが浮かび上がっているように見えた。傷が開いたのだろうか。

「傷を洗わないと」

　持っていた苦無で衣服の腹部を裂く。露になったのは肌色ではなく、赤と黒だった。脇腹広範囲が赤黒く変色していて、その中心で鮮血が脈打ってぽたりぽたりと滲み出ていた。

「これ……」

　その肌色に、青は見覚えがあった。

　森で妖獣に襲われた時にできた腹の傷に残った、妖瘴（ようしょう）と同じ。

　呪いや特殊な毒の類だと藍鬼は言っていた。青には解毒の方法が分からない。できる事をするしかなかった。

「まず洗って、血を止めて……それから？」

　それから、村へ走って助けを呼ぶのか。

　しかし村まで走っても一刻半はかかってしまう。

　こんな時に、つゆりのように風術を使って高速移動する事ができれば。

「あとで考える！」

　悪い考えを取り払うように頭を振り、青は立ち上がる。

　戸口へ走り桶を掴んで小屋の側の小川へ走って水を汲んだ。土間の竈門に水を入れて火を焚べる。着火程度の炎術であれば使えるようになっていた自分に感謝しながら。

　残った水を持って奥の部屋へ。

　傷口周辺の血を濡らした手ぬぐいで拭き取ると、黒ずんだ肌の中心に傷口と分かる裂傷が確認できた。僅かずつではあるが、呼吸に合わせるようにそこから血が漏れ出ている。

　血が止まらないのはこの妖瘴のせいだろうか。

　それでもせめてと、青は再び居間へ戻る。

　棚から薬研を拝借して煮沸し、さきほど森で集めた薬草を洗い、すり潰し始めた。

　いずれも止血と化膿止めの効能がある植物だ。乾燥させてしまうと効果がなくなるが、生の状態ですり潰すことで抽出できる精油成分には強力な殺菌成分が含まれていると聞いた。

　煮沸した布で濾して絞り出した液体を皿に集め、絞り粕となった草を切ったサラシの上に薄く塗って、その上に濾した液体を浸すように塗る。

　そうして出来上がった即席の止血剤を、傷口の上に貼り付けた。

「あ、薬があったんだ」

　思い出して道具袋を探ると、藍鬼に分け与えられた解毒と解熱効果のある粉薬があった。

　薬袋を手に、ちらと藍鬼を見やる。

　師はまだ苦しげな呼吸と共に眠ったように横たわったままだ。意識がない人間に粉薬を飲ませる事はできるのだろうか。

「そうだ」

　思いついて再び、青は竈の前へ。

　道具袋から非常食用に持たされた兵糧丸を一粒取り出し、まな板上ですり潰し粉状にした。その一部と粉薬を混ぜて、沸かした湯で溶く。すると少しの粘り気を帯びた葛湯のような状態になる。

　薬や毒は粘膜を通して体内に浸透するというので、飲み込めないのであれば、せめて口の中に留まらせておくだけでもマシなのかもしれない、という思いつきだ。

　奥の部屋へ戻り、部屋の隅に積まれた掛布を引っ張り出し、畳んで枕代わりに藍鬼の頭の下に敷く。木匙でほんの半掬いだけ、少しずつ口へ流し込む。

　咽ないよう様子を見ているうち、こくりと嚥下音がした。

「飲み込めた……！」

　試しにもう半掬い流してみると、今度はほどなくして飲み込んだ。

　これで容態が多少でも改善するようであれば、急いで村まで走って助けを呼びに行こう。

　そう決めて青は使った道具の片付けを始めた。