ep.3 凪之国(2)
「慣れないうちはそうなる」
着いたぞ、と藍鬼の声。
恐る恐る青が目を開くと、またがらんどうな堂内の景色があった。
さきほどまで目の前にいた転送術を用いた兵の姿はなく、堂の扉も村のものと異なってあけ放たれている。
どこか違う場所に来たのだと、直感的に分かった。
出口に背を向けて立っていた門衛が、転送された二人組に気づいて肩越しに振り返るも、一瞥しただけでまた背を向ける。
「うわぁ…」
転送陣の堂を出てまず目に飛び込んだ光景は、青がこれまでに目にした建造物の中でもっとも大きいものだった。
七重の塔が遠景の中央にそびえ立ち、背後には剣山のように尖った岩山がまるで塔を護るように鎮座している。
塔周辺にも二重、三重の櫓や屋敷が並び、背の高い石壁が切り立っていた。
青たちが送られた堂は、繁華な場所から離れているようだ。
公園のような広い敷地内には他にも多くの堂が均一の間隔で並んでいて、白い石畳の道の左手には外界へ続く重厚な櫓門、一方で右手の櫓門は水路をまたぐ橋がかけられ門扉が開け放たれている。
人ばかりではなく荷車や荷馬車の出入りもあって、それらは色鮮やかな装飾の街へと流れて行った。
村でも、町でもない、都。
青の少ない語彙力でも、それだけは理解できた。
「跳ぶぞ」
「へ、ふぁあああ!」
都市の規模に呆けて口を開けていたところ、急激な浮遊感に襲われる。
気が付いたら七重の塔の最上階が、青の目線と同じ高さにあった。藍鬼に抱えられて宙を飛んでいるのだ。
耳元で襟や袖がバタバタと強風に煽られてうるさい音をたてる。
眼下に都のほぼ全景が見渡せた。
厚く高い城壁に囲まれた、城塞都市。
剣山を背にそびえる霊山のごとく七重の塔を祀り、護るように街が裾野を拡げている。
凪之国。
母さまが目指していた場所。
「ひゃっ!」
水に落ちたような浮遊感の直後、風の壁に叩きつけられたような圧が全身を通り抜ける。
二回それが続いて目を回しかけたところで、足が床につく感触がした。
「着いたぞ」
手を離された途端によろけた青の手が、咄嗟に手すりを掴む。降り立ったのは七重塔の途中階の外通路だった。
外通路と並列の中廊下を、忙しそうな大人たちが行き交っている。いずれも陣守の村の門衛たちと同属と分かる装い。
突然舞い降りた二人組に驚いたものの、誰も騒ぎ立てる事もなく一瞥だけくれて通り過ぎて行った。日常茶飯事なのだろう。
「ついてこい」
藍鬼を追って、青も外廊下から中廊下へ入る。
「あ…」
ここでも、だ。
すれ違う人々の藍鬼へ向ける目の色が、村の門衛たちと同じ。子ども連れと気づいて、中には小首を傾げる者もいた。
ひたすら進んだ廊下の一番奥には、横幅にして大人四人ほどが並べそうな巨大な扉があった。
両脇には門衛。
扉の前には藤色に金刺繍の敷物。
特別な部屋だと一目で分かる。
「約束はとりつけてある」
藍鬼が一言告げると門衛は恭しく礼をして扉を開けた。
反比例するように遠慮なく室内に踏み込んだ藍鬼を追って、青は恐る恐る室内へ。
「何だ。お前にそんな大きな子がいたとは」
部屋の主の第一声は、それだった。
広い室内の真ん中には寝台二つ分はありそうな机。
片側の壁は都の全景を見渡せる総硝子張り。
室内の面積の割に調度品や家財は少なく、だが殺風景に感じないのは片側の壁一面を埋める本棚と、その前に膨大な数の本が散らかって積まれているからであろう。
声の主は、その散らかった本の前で胡坐をかいていた。藍鬼の姿を見て、本をその場に置いて立ち上がる。
これまでに見てきた軍装の兵たちとは異なる藤色の長衣を羽織っていた。
年は四十路半ばから五十といったところで、落ち着き払った雰囲気から、青の目には藍鬼よりもこちらの方が確かに「おじちゃん」に映った。
「難民孤児だ。保護してやってほしい」
藍鬼の手が、青の肩に添えられた。
「どういう風の吹き回しだね。わざわざ私のところへ来るなんて」
「この恰好で役場をうろついたら障りが」
「そうではない。陣守の村の駐屯兵に託せば済んだ話だろう」
男の含みのある問いに、藍鬼は応えなかった。
そこへ、
「おじちゃんは誰ですか?」
青のごく素朴な質問が横切る。
おじちゃん呼ばわりされた事を気にした様子もなく、部屋の主は青に破顔し、青の前に膝をついて視線を合わせる。
「おじちゃんはね、凪之国の長を務めている。君がこの国で生活ができるようにする人だよ」
微笑みを残して、長は立ち上がった。
「学校の手続きはもう進めさせている。入学は五つの年の春からだけど、不明なら次の春からでも良いね。ちょうど来月だ」
青の頭上で、大人二人が会話を進めていく。
「孤児院にも空きはあって今日からでも入れるが、どうする?」
「頼んだ」
長へ引き渡されるように、藍鬼の手に柔く背中を押された。
青は振り返って藍鬼の袖を引く。
「お師匠とは暮らせないの?」
「え」
仮面の下から、くぐもった反応が戻った。
困らせていることは分かっていたが、掴んだ袖を離さなかった。
「ほう」と長が好奇心の乗った声を漏らす。
「はは、ずいぶんと懐かれたな。お師匠だって?お前弟子をとったのか」
「いや、それは」
「約束したもん」
言いよどむ藍鬼の語尾に青は断言を重ねた。
「お前はキリンになれるってお師匠、言ったよね」
「麒麟?」
長の瞳に鈍い光が差した。
色素の薄い瞳が藍鬼を見やって、青を見て、そして再び藍鬼に戻った。
長に見据えられた仮面の横顔は、口を噤んだまま動かなかった。
何か、言ってはいけない事を口にしてしまったのか。
青はただ、頭上で交わされる大人の無音の会話を見上げるしかない。
「なるほど」
ふ、と長の口が微笑を形どった。
張り詰めた糸がたわむ。
長は戸惑うしかない幼子へ、再び笑みを手向けた。
「しっかり学びなさい」
別れは淡白なものだった。
長室を訪れた文官の女が青の手を引いて部屋の外へ連れ出す時も、黒い仮面はついに振り向かなかった。
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