離さないで…!

神在月ユウ

決死の果てに

「はなさないで…!」


 俺は崖から身を乗り出して、必死に叫ぶ彼女の手を握っている。


 崖下までおよそ80メートル。

 下は岩場だ。

 落ちたらまず助かるまい。

 どんな姿になるか想像して、脳内再生された惨事を頭から叩き出す。


「離すもんか…!」


 俺は歯を食いしばって、彼女の手を握る。


 デート中の事故で崖から滑り落ちた彼女を助けられるのは俺しかいない。

 俺のこの手が、彼女の生を繋ぎ止める唯一の命綱なのだ。

 周囲には誰もいない。

 助けを呼ぼうにも、ポケットのスマホまで手を伸ばす余裕はない。

 俺が引き上げるしか方法はない。


 だというのに――


「ぐ……っ、くぅぅ……っ!」


 一向に彼女が持ち上がる気配はない。

 

 右手にかかる約50キロの重さが、彼女に腕を伸ばした時に痛めた肘の腱に、裂くような痛みを与える。


 助けたいのに。

 こちらを見上げる彼女の不安な顔を、笑顔にしてあげたいのに。

 肘が裂けそうだ。

 それでも、絶対に――


「諦めるかっ!」


 笑顔が素敵な彼女。

 俺の為すことに大げさに喜んでくれる。

 スタイルだっていい。


「たすけて、おちる……」


 消え入りそうな声の、青ざめた表情の彼女。

 いつまでも変わらぬ状況に、不安がありありと相貌に浮かんでいる。


 助けたいのに、助ける手段がない。


 そんなとき、俺の体が崖に向かってじりじりと滑るのを感じた。


 彼女に引っ張られて、俺も崖下にいざなわれている。


 まずい、このままでは二人とも落ちてしまう――!


 彼女も自分の体がずるずると落ちているのがわかっているのか、繋いだ手が震え、呼吸が浅く早くなる。


「ねぇ、おちてる!はやく!」


 彼女の悲鳴を受けても、俺は自分の腕が上げる悲鳴の方が気になっていた。


 腕が裂けそうだ。

 とにかく痛い。


 この負傷した腕では彼女を引き上げることはできない。

 助けも呼べない。

 自分一人では、この状況を打開して、二人で助かる手段などない。

 このままじゃ共倒れだ。

 このまま二人とも崖下に落ちてしまうのなら、せめてどちらかだけでも助かる方がいいのではないか?

 無意味に二人死ぬよりも、一人でも助かる方が、いいのではないか?


「ねぇっ」


 もう、まともに彼女の言葉が入ってこない。


 代わりに、彼女のと思い出が蘇る。


 高いバッグをよく欲しがっていたな。色々と切り詰めて買ってあげたな。

 デートの当日にドタキャンも何度かあった。

 家事が全然できなくて、一緒になっても俺が全部やることになるのかな。

 あれ、そういえば専業主婦になりたいとか言ってなかったっけ?

 え?料理できなくて掃除もできなくて洗濯機の使い方もよくわかってないのに?

 こんなの、見た目がいいだけの女じゃないか?

 彼女が見せる大げさな反応も、キャバ嬢のそれと同じじゃないか?


 っていうか、本当に彼女が付き合っているのは俺だけか?

 俺は、都合のいいなんじゃないのか?


 互いの手が滑り始める。

 握力だけの問題ではない。どちらか、もしくは双方の手汗が滲み、滑りを良くしている。


「ねぇっ、はやくあげてっ!」


 彼女の語気がどんどん荒くなる。


「はやくたすけなさいよ!」


 もう、ここまでくれば彼女を助けることはできないだろう。

 しょうがない。

 俺だって、助けられるものなら助けたい。

 でもさ、しょうがないじゃん。

 助けたくても手段がないのだから。


「ごめん…」


 ぼそりと、呟く。


 彼女の耳にはしっかりと、俺の声が届いていたようだ。


「なによ、ごめんって、なに⁉」


 バタバタと暴れ出す。

 ほら、そんなに暴れるから、どんどん手が滑っていくよ?


「ごめん、本当は、助けたいん、だけ、ど…」


「だったら、たすけ――」


「しょうが、ない、じゃん」


「はっ?」


 彼女は本当に、何を言っているのかわからないという顔で、呆然と俺を見上げていた。


 なぜわからないのかと、俺の中でなぜか怒りが湧いてきた。


 周りには誰もいない。

 この状態は長くもたない。

 だから仮に電話して救急とか呼んでも無駄。

 手は滑っていく一方で、ものの数秒でもう手を握っていられなくなる。

 このままじゃ二人とも崖下真っ逆さまで死んでしまうのだから、せめて一人だけでも生き残るのが正解だろう。

 なぜ、この女はこんな簡単なことがわからないのか?

 本当に俺のことが好きなら、巻き添えにしたくないと、なぜ考えられないのか。

 いや、彼女は俺のことなどどうでもよくて、ただ自分が助かりたいからこんな自分勝手なことを言っているのだろう。


 そもそもだ。

 そこから落ちたのだって、「うわ、高ーい」とかはしゃいで下を覗き込んだせいだった。俺は「危ないからやめなよ」と止めたのに。


 全部、自分が悪いんじゃないか。

 俺を巻き込まないでくれよ。

 死ぬんなら、自分一人で死んでくれ。

 俺を、巻き込まないでくれ。


 もう、互いの指が引っ掛かる程度しか接していない。


「ごめんね、でもしょうがないんだ」


 俺はせめてもの謝罪を口にするが、


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■—――――――――!!!!」


 この女は何か、とんでもなく口汚く罵ってきた。


 せめて、「今までありがとう」とか「あなただけでも助かって」とか、そういう言葉をかけられないのだろうか。


 互いの手が、完全に離れる。


 女は、絶望と激昂を織り交ぜながら、怒号と怨嗟を口にしている。


「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■—――――――――!!!!」


 意味のない言葉、もしくは悲鳴だったのだろうか。

 女は思い切り叫びながら、4秒間に時速140キロまで加速し、ごつごつした岩場に叩きつけられた。


 俺は下を覗き込まない。

 凄惨な光景であることはわかりきっているのだから、これ以上俺の心に負担をかける必要はないだろう。

 俺はやれることをやった。

 手は抜かなかったはずだ。

 一生懸命頑張って、その結果なのだから、仕方がない。






 一年経った今でも、この日の夢をよく見る。

『ねぇ、なんで助けてくれなかったの?』

 血だらけでひしゃげた体の女が俺に怨嗟を吐くオマケつきだ。


 今日は心療内科の予約の日だ。

 

『あなたに責任はない』

『思い詰めないで。やれるだけのことはやったのだから』


 そんな慰めと処方箋を貰いに、俺は身支度を整えて自宅を発った。

 

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離さないで…! 神在月ユウ @Atlas36

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