亡くなった妻のいいつけ
春風秋雄
柚希さんが風呂から出てこない
遅い。いくら何でも遅すぎる。どうしたものか。柚希さんがお風呂に入って、もう1時間以上経つ。女性のお風呂は長いとは聞いたことがあるが、それにしても長すぎだろう。様子を見にいった方が良いのだろうか。しかし、相手は41歳とはいえ、独身の女性だ。男の俺が行くと、変に思われないだろうか。娘の陽菜乃は2階でもう寝ている。ぐずぐずしている間に、本当に何かあったのなら大変だ。とりあえず、外から声をかけるだけでもかけてみよう。
俺は、お風呂場へ行ってドアの外から声をかけてみた。
「柚希さん、大丈夫ですか?」
しばらく待つが返事がない。
「柚希さん、起きてますか?」
今度はもう少し大きな声で言ってみた。それでも返事がない。これはひょっとすると、大変なことになっているかもしれない。
「柚希さん、入りますよ!」
俺はそう言ってドアを開けた。すると、浴槽に横たわって目をつむっている柚希さんの姿があった。俺は慌てて中に入り、柚希さんを抱きかかえて、浴槽から出した。洗い場に横たえ、声をかける。
「柚希さん、柚希さん、大丈夫ですか?」
柚希さんが目を開けた。
「あ、私、寝てた?」
「大丈夫ですか?」
「ごめん直哉さん、起きられない」
完全にのぼせている。俺はとりあえずバスタオルを柚希さんの体にかけ、タオル掛けにかけてあるタオルを水で濡らし、頭と顔を冷やした。頭に水で濡らしたタオルを乗せ、もう一枚タオルを持って来る。それを水で濡らし、足を冷やす。目のやり場に困るが、そんなことを言っている場合ではない。のぼせている時はいきなり体に冷水をかけるのは良くないと聞いていたので、まずは頭、顔、足を濡れタオルで冷やし、シャワーのお湯を体温より少しぬるめくらいに調整し、バスタオルの上からすこしずつ体にかけた。新しいバスタオルを2枚持ってきて、体をくるみ、抱きかかえる。さっきは無我夢中で抱きかかえたが、改めて抱きかかえると、思ったより重い。ぎっくり腰に気を付けながら立ち上がり、居間へ運ぶ。布団を敷いて、体をよく拭いてから布団に寝かせた。せめて下着くらいはつけてあげたいが、とりあえずはタオルケットを体にかけ、冷蔵庫に入っていたペットボトルの水を取り出す。流しの温水で少し温め、ストローを差して柚希さんのところへ持って行った。
「いっぺんに飲まないように、少しずつ飲んでください」
俺が頭を抱きかかえて飲ませると、言われたとおりに、三口くらい飲んでストローを離した。
「しばらく寝ていて下さい」
俺がそういうと、柚希さんは目をつむった。俺は2階で寝ている娘の陽菜乃の様子を見に行った。
俺の名前は阿部直哉。今年36歳になる。妻の沙奈枝が事故で他界してから、もう3年になる。沙奈枝が残してくれた娘の陽菜乃は6歳になった。柚希さんは、沙奈枝の従姉にあたる。沙奈枝とは年が9歳離れているが、沙奈枝が小さい頃から、よく遊んでくれたらしく、とても仲の良い従姉だった。いまだに独身で、沙奈枝がいなくなってからは、ちょくちょく陽菜乃の面倒をみにきてくれている。陽菜乃がお腹にいるときに、築30年近い中古物件のこの家を買ったのも、沙奈枝が柚希さんの家から近いということで気に入って決めたものだった。今日も夕方から来て、食事を作ってくれ、3人で食べた。陽菜乃の遊びに付き合ってくれ、陽菜乃と一緒にお風呂に入り、陽菜乃を先に上がらせて、柚希さんはそのまま風呂に入ったままだった。俺が陽菜乃を寝かしつけ、1階に戻ってもまだ風呂からあがってなかった。ゆっくりしているのだろうと、テレビを見ていたが、さすがに1時間経っても出てこないので心配して見に行ったということだった。
「直哉さん」
俺が1階におりると、柚希さんが俺を呼んだ。
「どうですか?少しは良くなりました?」
「もう大丈夫。それで、私の下着と服を持ってきてほしいのだけど」
そう言えば、タオルケットの下は裸のままだった。俺が下着に触って良いのかと思っていると、
「もうさんざん見られたあとだから、下着くらい見られても平気だから。脱衣場に置いたままになっているので、お願い」
俺は脱衣場から綺麗に畳まれたままの下着と服を持ってきて渡した。
部屋を出て、服を身につけるのを待っていると、「もういいよ」と声がした。
中に入ると、入れ違いに柚希さんは洗面場へ行ってドライヤーで髪を乾かしているようだ。
柚希さんが戻ってきて、座卓に座った。
「すっかり心配かけてしまったね」
「びっくりしましたよ」
「そろそろ出ようと思って立ち上がったら、立ち眩みがして、これはダメだと思ってそのまま湯舟につかっていたら、寝てしまったのか、気を失ったのか」
「あのまま溺れなくてよかったです」
「助けてくれてありがとう」
「入っていいものか迷いましたけど、思い切って入って良かったです」
「すっかり何もかも見られてしまったね」
「気が動転していたので、見ている余裕なんかなかったですよ」
とりあえずそう言ったが、本当はしっかり目に焼き付いている。
「どうしてあんなに長湯したんです?いつもはもっと早く出てくるじゃないですか」
「ちょっと色々考え事をしていたら、あんなことになってしまった」
「色々考えることがあるのですか?」
「まあね」
あまり言いたくなさそうだったので、俺はそれ以上突っ込んで聞かなかった。
「今日は泊まっていったらどうです?」
「そうしようかな」
明日は休日なので、俺も柚希さんも仕事はない。それからしばらく陽菜乃のことや、沙奈枝の親戚の人の話をして、お開きにした。
柚希さんは、あれから1か月くらい来なかった。仕事が忙しいのだろうと思っていた。そんな時、久しぶりに沙奈枝のお母さんが訪ねてきた。
「陽菜乃ちゃん、久しぶり」
陽菜乃はお祖母ちゃんを見るなり抱きついて行った。陽菜乃は俺のお袋よりも、沙奈枝のお母さんの方が好きみたいで、良く懐いている。
お義母さんは、陽菜乃の大好きなハンバーグを作ってきてくれていた。もともと沙奈枝が作るハンバーグが大好きだったのだが、それはお義母さんが沙奈枝に教えたものらしく、同じ味だった。陽菜乃自身は沙奈枝が作ったハンバーグを覚えてはいないだろうが、当時から美味しい美味しいと食べていたので、陽菜乃の好みの味だったのだろう。外食してハンバーグを食べても、そこまで美味しいとは言わない。
「そういえば、柚希ちゃん、結婚するかもしれないよ」
いきなりお義母さんが言った。
「そうなんですか?」
「この前お見合いをして、先方はかなり乗り気みたい。あとは柚希ちゃんがOKすれば結婚は決まりだね」
「そしたら、もうここへは来られなくなりますね」
それを聞いていた陽菜乃が聞いてきた。
「柚希ちゃん、もう来ないの?」
「結婚したら、なかなか来られないだろうね」
「そんなの嫌だ。柚希ちゃん結婚しなければいいのに」
「そんなこと言うものじゃないよ。柚希さんだって幸せにならなければいけないんだから」
「柚希ちゃん、ママの代わりにここに住めばいいのに。そしたら幸せになるんじゃないの?」
「そうね。柚希ちゃんがもう少し若ければ、直哉さんの再婚相手になっただろうけど、直哉さんよりいくつ上だったっけ?」
「5つ上ですね」
「それじゃあ、直哉さんが可哀そうだものね」
俺はどうリアクションすればいいのかわからなかった。そうですねと言えば柚希さんに失礼だし、そんなことないですと言えば、話がややこしくなる。それより、柚希さんが結婚するかもしれないと聞いて、俺の胸がざわついているのは何故だろう。あの時、柚希さんの裸を見てしまってから、俺は柚希さんのことを女として意識してしまっているようだ。
お義母さんが来て、2週間くらいしてから、柚希さんがやってきた。
いつものように、食事を作ってくれ、3人で一緒に食べた。
陽菜乃が寝たあと、二人でお茶を飲みながら話した。
「お見合いしたらしいじゃない」
「もう知っているの?」
「この前お義母さんが来て話してくれた」
「そうか」
「結婚するの?」
「どうしようか迷っている」
「あまり良い人ではないの?」
「優しそうな人だし、収入もそこそこあるし、次男だから親の面倒をみる必要はないし、条件はまあまあなんだけどね」
「だったら、いいじゃない」
「そうなんだけどね。何かピンとこないんだよな」
「外見が?」
「外見とかそういうことではなくて、あの人に抱かれるということが、想像できない」
「生理的に受け付けないということ?」
「そこまでではないけど、性的魅力を感じない。抱かれたいと思える相手ではないってこと。この年になれば、子供を作ることはないわけだから、夫婦の行為は子作りではなくて、単純に性的な交わりしかないわけじゃない。そう考えると、結婚相手として考えるときに、抱かれたい相手かどうかということは、女の私にとって結構重要なの」
そうか、子供を作らない年になってからの結婚というものは、そういうことを考えるものなのか。
「だったら、断るの?」
「だから迷っている。両親は結婚した方が安心するだろうし、私自身生涯独りで過ごすということに不安がないわけじゃない。良い相手がいれば結婚したいとは思っている。でも、それがあの人なのかどうか」
これ以上は俺が口出しすることではない。しかし、すんなりと結婚というわけではないと知って、どこか安心している自分がいた。
義母の話だと、あれから柚希さんは、お見合い相手と何度かデートをしているようだった。義母はそのまま結婚に進むことを期待しているようだ。あの時柚希さんはあんなことを言っていたが、デートを重ねることで、相手に魅力を感じて「抱かれても良い男」に昇格するかもしれない。俺の心の中がざわついているのがわかる。極力考えないようにしているが、ふと考えると、胸が締め付けられる思いがした。
柚希さんは、以前ほどではないが、それでも週に1回はうちにきてくれていた。3人で食事をしている時に、陽菜乃がいきなり柚希さんに聞いた。
「柚希ちゃん、結婚するの?」
「まだ決めてないけど、ひょっとしたら結婚するかもしれないな」
「嫌だよ。結婚したらここに来てくれないのでしょ?」
「そうだね。今までのようには来られないけど、それでもちょくちょく顔を出すようにはするよ」
「柚希ちゃん、パパと結婚すればいいじゃない。そうすればここに住むことになるでしょ?それが一番いいよ」
柚希さんは固まった。
「陽菜乃、柚希さんを困らせたらいけないよ」
俺がそう言って陽菜乃をたしなめると、柚希さんが諭すように言った。
「陽菜乃ちゃん、結婚というのは私がそうしたいと思っていても、相手がそうしたいと思ってなければ出来ないの。だから私がいくらパパと結婚してここに住みたいと思っても、パパがそう思っていなければ無理なの」
「パパは柚希ちゃんと結婚するのは嫌なの?」
子供というものは、いきなり核心に触れてくるものだ。
「パパは嫌じゃないけど、大人にはそれだけでは結婚できない事情というものがあるんだ。だから、この話はこれでおしまい」
陽菜乃はしきりに「大人の事情って何?」と聞いてきたが、俺は取り合わなかった。ふと柚希さんを見ると、ジッと俺の顔を見ていた。
陽菜乃が寝てから、柚希さんが聞いてきた。
「直哉さんは、私と結婚するのは嫌じゃないの?」
俺は一瞬、どうやって答えようか迷った。しかし、言葉を選ぶより先に、口が勝手に動いた。
「嫌じゃないですよ」
「こんな5歳も年上のオバサンでも?」
「年は関係ないです。柚希さんはとても魅力的な女性です」
一度口に出してしまうと、俺の感情はもう止まらなかった。
「柚希さん、俺と結婚しませんか。そして、陽菜乃と3人で、ここに住みませんか?」
柚希さんは返事をしなかった。というより、返事をしようかどうしようか迷っているようだった。その返事がYESなのかNOなのかは俺にはわからない。
長い間二人は黙ったまま向き合っていた。しばらくして、柚希さんがやっと口を開いたと思ったら、
「直哉さん、お風呂に入ったら。私は洗い物をするから」
と言って流しに行ってしまった。
仕方なく俺は、立ち上がり、風呂に入る準備をした。
浴槽で体を温めていると、ドアのむこうから柚希さんが話しかけてきた。
「面と向かってだと、話しづらいから、こうやってドア越しに話すけど」
「何でしょう?」
「私、ずっと前から直哉さんのこと好きだった。もちろん沙奈枝ちゃんがいた頃はそんなこと考えもしなかったけど。この何年かここに通ううちにそう思ってきた。この人に抱かれてみたいと思うようになった」
俺は、ドキッとした。
「この前、お風呂でのぼせたとき、本当は大したことなかったの。ちょっと立ち眩みがして湯船に座り込んで、そのまま寝てしまったのは事実だけど、直哉さんに起こされたとき、自分で動こうと思えば動けた」
そうだったのか。
「でも、ちょっと恥ずかしかったけど、直哉さんに甘えてみたくなったの。ひょっとしたら、直哉さんが変な気をおこしてくれないかという期待も少しあったかな」
俺は、あの時、変な気をおこして良かったのか。
「さっき、結婚しようと言ってくれて、とても嬉しかった。でもね、沙奈枝ちゃんのことがあって、返事できなかった」
「沙奈枝のこと?」
「あれは沙奈枝ちゃんが高校生の頃だったと思うけど、テレビドラマかなんか見てたときかな。奥さんを亡くした旦那さんが、奥さんの妹さんと再婚したのよ。それを見ていた沙奈枝ちゃんが、私が亡くなった奥さんだったら、絶対嫌だと言ったの。自分がまったく知らない人ならいいけど、良く知っている人と自分が愛した旦那さんが結婚するなんて、絶対嫌だって」
沙奈枝がそんなことを。
「見ず知らずの人にとられるより、気心のしれた人と一緒になってもらった方がいいのではないの?と聞いたら、私は絶対嫌だ。私が知っている人より、見ず知らずの人の方が、気が楽だものと言うの」
俺は柚希さんの話を黙って聞いているしかなかった。
「その言葉が忘れられなくて、私が直哉さんと一緒になったら、沙奈枝ちゃんは怒るだろうなと思ったの」
「でも、それは高校時代の話だろ?結婚して、娘が生まれたら考え方も変わったんじゃないかな」
「そうかな?」
「母親になれば、まずは自分の気持ちよりも、子供の幸せのことを一番に考えるだろ?そうすると、見ず知らずの人より、自分のことを良く知っている人の方が子供を大切にしてくれると思うんじゃないかな」
「そうならいいんだけど」
「俺だってそうだよ。再婚するにあたって、自分の好みの女性であるかどうかより、陽菜乃のことを大切に思ってくれる人が最優先になるもの。その上で、自分の好みの女性であれば言うことないって感じ」
「私は、陽菜乃ちゃんのこと可愛いと思うし、大切にするよ。その上で私は、直哉さんの好みの女性?」
「もちろんだよ。柚希さんがお見合いしたと聞いた時から、俺は心穏やかではなかったんだ。だからさっき結婚しようと言ったんだよ」
「それ、本当?」
「本当だよ」
「ねえ、今日は泊まっていっていい?」
「もちろん、いいよ」
「直哉さんは、まだお風呂入っているでしょ?私ももう一度入ろうかな」
「え?俺と一緒に入るってこと?」
「この前、さんざん裸見られたのだから、私はもう気にしないよ」
「わかった。じゃあ、入っておいでよ」
柚希さんはドアの向こうで、準備を始めたようだ。
俺は、ひとつだけ柚希さんに嘘をついた。というより、本当のことが言えなかった。
あれは陽菜乃が生まれてすぐの頃だった。柚希さんがうちに遊びに来た時、俺はついつい柚希さんを目で追っていた。すると、それに気づいた沙奈枝が言った。
「柚希ちゃんはダメだよ。私は多少の浮気には目をつむるけど、私が知っている人は絶対ダメ」
「俺はそんな気はないよ」
「これだけは覚えておいて、直哉が私の知っている人と、そういう関係になることだけは、私は絶対に許さない」
沙奈枝は、真剣な目でそう言っていた。
ただ、あの時は自分がこの世にいることが前提だった。
今沙奈枝は天国でどう思っているのだろう。
やはり柚希さんと再婚することは絶対に許せないと思っているのだろうか。それとも、陽菜乃のことを考えて、一番陽菜乃を大切にしてくれる柚希さんと再婚することに、賛成してくれるのだろうか。
いずれにしても、俺は陽菜乃のことを一番に考えたい。あれだけ陽菜乃が懐いて、陽菜乃を大切にしてくれている柚希さん以上に、俺の再婚相手としてふさわしい人はいないだろう。だから、例え沙奈枝が許さないと言っても、俺は柚希さんと結婚しようと思った。
そんなことを考えていると、ガチャっと柚希さんがドアを開ける音がした。
亡くなった妻のいいつけ 春風秋雄 @hk76617661
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