8輪:罪悪感の所在
────「大丈夫?」
大石先生が去っていくとすぐに稜太郎が声をかけてきたので、
美鎖子は日傘を放り投げて飛び上がるように立ち上がった。
そして「手!手!」と言いながら稜太郎に近づいた。
稜太郎は「ん?手?」と言ってまた左手をヒラヒラと動かした。
美鎖子は「そんな雑にっ!」と大きな声が出てしまったので、
今度は小さな声で「そんな雑に動かしたら傷口に障りますよ」と小声で話した。
稜太郎は左手を動かすのを止めて、その手を観察し始めた。
そうそう、丁寧に、丁寧に扱ってください、と美鎖子が安心した瞬間。
稜太郎は先ほどよりも速くグーパーグーパーと左手を動かし出した。
美鎖子「なんでなんでなんでなんで?!」
美鎖子は稜太郎の目の前で、分かりやすくあたふたし始めた。
稜太郎「いやぁ、こんな怪我したの初めてだから」
落ち着いた口調で稜太郎がそう言うので、
美鎖子は背中を丸めて「ご、ごめんなさぁい」と情けない声で謝った。
昨日母から、稜太郎が小学生の時3階から飛び降りたけれど無傷で済んだ、という話を聞かされたばかりだったので、余計に肩身が狭くなっていた。
稜太郎「いやなんか面白くて。ちゃんと血が通っていたんだなぁって」
稜太郎は自分の左手を裏表と観察するように見た。
美鎖子はまた「すみませぇん」と情けない声で謝り、背中を丸めていた。
背中を丸めたので、美鎖子の目線は自然と下がった。
すると稜太郎の右手に、プラスチックのバケツが握られていることに気がついた。
そのバケツの中には、茶色く変色したブラシが入っていた。
美鎖子(バケツ、水、ブラシ、茶色……
ちちちち血?!
しょ、証拠隠滅?!
あ、あの場所で倒れたことが先生たちにバレたら、
三毛くんの憩いの場かもしれないあそこが閉鎖されちゃうかもしれないから、
今まで証拠隠滅してたってこと?!
わ、私がするべきことなのに…)
美鎖子「しょ、証拠、いん、隠滅、わ、私が…」
美鎖子は壊れた機械音声のような声で喋りながら、震える手でバケツを指差した。
稜太郎「ん?あぁこれ?」
稜太郎はバケツを美鎖子に近づけて見せた。
稜太郎「証拠隠滅?じゃないよ。
人間の皮って、めくれてもすぐに血って出ないんだね、僕初めて知った」
美鎖子(衝撃の事実!人体の不思議!
……じゃなくて!)
美鎖子は焦り過ぎて、心の中でノリツッコミをしてしまった。
美鎖子「え、え、え、えじゃなんで?」
稜太郎は「あぁ」と言うと、バケツを雑に地面に置いた。
そしてジャージのポケットの中から何かを探し始めた。
美鎖子(あれ、よく見たら三毛くんのジャージが新しくなってる。
体操着も白い……
血?!
血のせいかな?!)
美鎖子が歯をガタガタと揺らしていると、稜太郎は何かを取り出した。
稜太郎「これ返したいんだけど、僕の血が」
稜太郎の右手には美鎖子のタスク帳があった。
タスク帳は所々に変色して、茶色くなった血で染まっていた。
美鎖子は大惨事になっているタスク帳を見て、背筋がビクッと反射的に動いた。
しかし自分の方に向けられたタスク帳をよく見てみると、
<体育祭まで 西門掃除(水 ブラシ掃除)>と書かれた部分以外全てに、
美鎖子自身が書いていないチェックマークが付いていた。
美鎖子「あ、え?ななんでチェックマーク?」
稜太郎「え?いつまでとか書かれてたから」
稜太郎は美鎖子が指差したチェックマークを、首を傾けて覗き込むようにしながら答えた。
そ、そういうことじゃなくてですね、と美鎖子は思いながら、
「いやぁ、あのぉ、なんで三毛くんがしてくれたのかなぁと思って」と稜太郎の顔を上目遣いで見た。
稜太郎「え?これって、神楽さんがやらなきゃいけないことじゃないでしょ?」
稜太郎はタスク帳を自分の方に向け直し、パラパラとタスク帳をめくった。
稜太郎「だってこれ、体育祭委員の仕事でしょ?あれ、これ野球部がやってなかったっけ?」
美鎖子は少し考えてから、首を傾げた。
美鎖子「……私、体育祭委員じゃないって言いましたっけ?」
稜太郎はタスク帳から美鎖子の方に目線を移すと、美鎖子と同じように首を傾げた。
稜太郎「……あれ?学級委員じゃなかったっけ?ほら朝会で『並んでー』って」
美鎖子(あ、なるほどぉ。)
美鎖子はゆっくりと数回頷いた。
けれど稜太郎がまた芯から逸れた答えを返したことを思い出し、
美鎖子は「あ、でもなんで、私の代わりにやってくれたんですか?この仕事」と言い換えて質問をした。
稜太郎「神楽さんが倒れた時、保健室に運ぼうと思って持ち上げたら、
美鎖子(も、持ち上げっ、
いやいや三毛くんはさっきから私の質問に答えているようで答えていない気がする。
私は事実じゃなくて、三毛くんが何を思って手伝ってくれたか知りたいのであって…)
美鎖子は少し頬を膨らませたけれど、質問をしても埒が開きそうになかったので…
色々と謝ることにした。
美鎖子「あの、その…私が倒れたことで、そ、その手を、左手を怪我させてしまってすみません。
あと怪我してるのに、私のことを運ばせてしまって、本当にすみません。
で、でも、タスク帳を見たからってそれが三毛くんの仕事になるわけでは…。
もし罪悪感?を持たせてしまったのであれば、ごめんなさい」
美鎖子は勢いよく頭を下げて謝罪した。
しかし稜太郎が何も答えないので、2人の間に静寂が流れた。
美鎖子(こ、このタイミングでの沈黙は何?
三毛くんは言葉を選んでるの?
それとも私の謝罪内容が悪かった?
謝罪のタイミング?
もしかして私の頭に何かついてる?旋毛押そうとしてる?)
美鎖子はそんなことを考えながら、
稜太郎の赤い靴下のクマの刺繍としばらく見つめ合った。
すると美鎖子の視界の隅に白い布…、
いや、包帯が垂れ下がってきた。
美鎖子「いやなんでなんでなんでぇ?!」
美鎖子は頭を勢いよく上げた。
しかし稜太郎は美鎖子の大声に動じることなく黙々と包帯を外し、
傷口を覆ったガーゼをラップ越しに眺めた。
ガーゼには血と得体の知れない黄緑色の液体が染み出していた。
傷口が直接見えていないのにも関わらず、稜太郎が凄まじい傷を負ったことが分かるほどであった。
稜太郎「…あれ?意外と治ってる?」
稜太郎はつまらなそうな声でそう言ったけれど、
美鎖子は「治ってませんよ?!」と大声で叫び、稜太郎の右手から素早く包帯を奪い取った。
美鎖子(わ、わからないよぉ。
なんで今包帯外してみようって思ったのか、わからないよぉ。
もはや怖いまであるよぉ)
美鎖子は稜太郎の左手を自分の方へそっと引き寄せ、傷口に障らないように丁寧に包帯を巻き始めた。
傷を覆ったガーゼからはツンと刺すような消毒液の
美鎖子は口の中に紅茶のような味が広がったので顔を顰めた。
稜太郎「…罪悪感はないよ」
稜太郎がいきなり美鎖子の謝罪に対して答え始めたので、
美鎖子は“タ、タイミング…”と思いながらも、黙って話を聞いた。
稜太郎「大した怪我じゃなかったし、治りかけてるし」
美鎖子(いやいやいやいや!
三毛くんの細胞たちが悲鳴を上げて変な液体出してるじゃないですか!)
美鎖子は大声でそう叫びそうになったけれど、その言葉を心の中に収め、包帯を巻き続けた。
稜太郎「罪悪感を持つべきなのは体育祭委員の人たちであって、僕じゃない」
美鎖子(…あ、あれ?なんかド正論かまされてる気がする)
稜太郎「でも
神楽さんができなかった仕事のことを考えて、
罪悪感というか、色んな人に申し訳ないなぁって思ってそうだな、とは思った。
だから手伝ったんだけど…。
まぁ神楽さん、今は僕に罪悪感抱いてそうなんだけど」
美鎖子「お、お、おおっしゃる通りです」
美鎖子はいきなり先ほどの質問攻めの答えが返ってきたことに驚いた。
それに加えて、自分の考えが図星だったことに動揺して声が震えた。
美鎖子は包帯が緩まないようにしっかりと結んだ。
そして先輩たちが用意してくれた椅子の方に行き、椅子の後ろに置いておいた保冷バックを持って稜太郎の方へ戻った。
美鎖子「そ、粗品ですが、お、お詫びに……」
美鎖子は軽く頭を下げて、稜太郎にシュガーシガレットの入った保冷バックを差し出した。
自分の代わりに稜太郎が仕事をしておいてくれたとは思っていなかったので、
美鎖子は母がシュガーシガレットを2箱買って来てくれたことにとても感謝した。
稜太郎「え?何これ?」
美鎖子「シュガーシガレット60個です」
稜太郎「……60?」
美鎖子「はい60個です、
2箱…箱買い…
シックスカートン…」
稜太郎は少し間を空けてから、美鎖子から保冷バックを受け取った。
美鎖子は稜太郎が大人買いバックを受け取ってくれたので、
やっと、ちゃんと顔を上げることができた。
すると稜太郎が「何か、さ」とぽつりと言った。
稜太郎「上手く言えないけど、
神楽さんって生きるのが下手というか何というか、
もっと自分勝手に生きればいいのに」
美鎖子は息を呑んだ。
稜太郎「別にやり過ぎだとか、やめればとか言ってるわけじゃないんだけどね」
稜太郎に『別にやり過ぎだとか、やめればとか言ってるわけじゃないんだけどね』と優しさを付け加えられてしまったからだ。
美鎖子はゆっくり息を吐いて、両腕を絡めた。
そして「私もそう思います」と、稜太郎から目を逸らしながら答えた。
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