2輪:ツッパリの君


 ────っは!


 中学生になって初めての始業式の日、登校途中。

美鎖子は車道を挟んだ向こう側の歩道で、ランニングウェアを着た白髪のおじさんが仰向けに倒れるのを見た。


 美鎖子が“行かなきゃ”と思った時には、すでに体は動き出していた。

美鎖子は今まで経験したことのないほどに、自分の体が一瞬で軽く、熱くなるのを感じた。

それにその体をコントロールしている意識がない、という不思議な感覚を味わった。


 美鎖子は倒れたおじさんの位置を確認し、ちょうど青信号になった横断歩道を急いで渡って、おじさんの方へ向かった。



 美鎖子が着く頃には、おじさんの周りに多くの人が集まっていた。

美鎖子はその人だかりの中から、男の子の「大丈夫ですか!」「あなたは救急車を!」「誰か近くにAEDがある場所知ってますか!」という大きな呼びかけを聞いた。


美鎖子「て、手伝います!」


 美鎖子は人だかりの外側から精一杯手を伸ばして大声で言った。

そのまま周りにいる人たちをかき分けて、人混みの中心に入った。


 美鎖子が倒れているおじさんのそばに駆け寄ると、おじさんの肩を叩いていた男の子は顔を上げて、美鎖子をまっすぐに見た。



 パーマのかかったくすんだ茶色の髪を、軽くオールバックにした髪型。


勝手にアレンジを加えて短ランになった学生服の中に、パキッとした赤色のパーカー。


なにより中学生らしからぬ、小さな丸いレンズのサングラス。


そのサングラスの上から、スモーキーな深緑の瞳が美鎖子を捉えていた。



 美鎖子は息を呑んだ。



 ……三毛稜太郎くんだ。


 入学式でその風貌から体育館中をざわつかせた男の子だった。

入学式の時はカッチリとしたオールバックにしていて、世代の参列者に優しい笑みを向けられていた。

その印象が強く残っていたので、美鎖子は名前まで記憶していた。



稜太郎「あの、携帯を持ってる?」


 稜太郎は、さっきまで大きな声で呼びかけていたとは思えないほど落ち着いた声で聞いた。


美鎖子「ももも持っていないですっ!」


 美鎖子は手を横に振りながら、急いで稜太郎の近くに膝をついた。


 おじさんは苦しそうに息を切らし、その全身は痙攣していた。

美鎖子は必死で救急処置のガイドラインの手順を思い起こした。


そして周りにスマホを持っている人がいないか、辺りを見渡して確認した。



 ……え?



 美鎖子はその瞬間、尾骨から頭の先にかけて一気に凍りつく感覚に襲われた。



 車道にいるのにも関わらず、自転車に跨ったままこちらにスマホのカメラを向けている、スーツ姿の会社員。


「初めて見た」と言いながらおじさんの写真を撮り、ニヤついた表情でスマホをいじりながら立ち去って行く高校生。


隠し撮りをしているかのようにスマホを持つおじさん。


小さい子どもを連れているのにも関わらず、動画を回すのに夢中な母親。


ライブ会場にいるかのように、スマホを高く掲げておじさんを撮っている人々。


 美鎖子がどの方向に首を動かしても、たくさんのスマホがおじさんに向いている。

にも関わらず、稜太郎が自分にスマホを持っていないか尋ねてきたことに、美鎖子は衝撃を受けた。


 美鎖子の中で心臓の音がどっどっとゆっくり、鈍く響いた。

心臓と肺が、誰かに鷲掴みにされたように窮屈になり、勝手に動くことを憎らしく思った。

おじさんの元に駆けつけるまで熱く、軽かった美鎖子の体は血の気が引き、嘘のように冷たく青白くなっていた。



稜太郎「AED、どこにあるか、知ってる?」


 その声に美鎖子はハッとして、稜太郎の方を見た。


 稜太郎はすでに心臓マッサージを始めていた。

美鎖子は急かされるように頭の中で地図を広げて、AEDの場所を探した。


美鎖子「え、えっと、AEDなら、あそこのスーパーのエレベーター横に、たしか!」


 美鎖子は200mほど先のY字路の真ん中にある、スーパーの方を指差しながら言った。


 でもその声は美鎖子の緊張した喉から発せられたため、裏返った声だった。

それを気にした美鎖子は、

今度はささやくような声で「で、でも、まだ開店時間じゃないと思いますっ」と付け加えた。


 稜太郎は顔を上げることなく心臓マッサージを続けた。


稜太郎「裏口は?知ってる?」


美鎖子「わわわ分からないです」


稜太郎「心臓マッサージはできる?」


美鎖子「さい!それは!」


 稜太郎は相変わらず、落ち着いたトーンで美鎖子に話しかけた。

美鎖子も相変わらず、喉の調節が効いていない声のまま稜太郎に答え続けた。

美鎖子はそんな状態に加えて、自分の舌も頭も回っていないことに焦りを覚えていた。


稜太郎「お願いしていい?」


美鎖子「ふぁい!」


 美鎖子は返事をした後すぐに立ち上がろうとしたけれど、膝の関節が油を差していない歯車のように引っかかった。

体制を崩しかけたが、膝に手をついてなんとか持ち堪えた。


 早くしないとっ!


 美鎖子は一生懸命踏ん張って立ち上がり、稜太郎と反対側にしゃがみ直した。


 美鎖子は一度、拳をぎゅっと強く握りしめた。

しかし手から強張りと緊張感が取れる気配を感じなかったので、美鎖子は強引に手を重ねて指を絡めた。


 美鎖子の「1、2、3!」という掛け声に合わせて、稜太郎と心臓マッサージを交代した。


稜太郎「僕そこで救急車も呼んでくるからっ」


 稜太郎が美鎖子の顔を覗き込むように声をかけたので、

美鎖子は今までの会話の中で一番大きな声で「はい!!」と返事をした。


稜太郎「ごめんね、ありがとう」


 稜太郎は柔らかな声でそう言うと、スーパーの方へ走って行った。


 美鎖子は数を口に出して数えながら心臓マッサージを続けた。

けれど今何セット目の心臓マッサージをしているのか、分からなくなっていた。

様々に浮かんでくる思考が、心臓マッサージの邪魔をしていた。


 どうしてさっき、三毛くんは「ごめんね」って謝ったの?

心臓マッサージの交代くらい謝ることじゃないし。

普通のことだし!

私の代わりにAEDを取りに行ってもらってる訳だから、私の方こそ謝らないといけない……。


 私が来る前、三毛くんはちゃんと具体的に指示を出していたよね?

私聞こえたもの!


なのに、なんで誰もスマホ貸してくれないの?


救急車を呼ばないの?


AEDを探そうとしないの…。


 美鎖子は上を向かないことだけを心掛けた。

周りにいる人たちの顔を見てしまうと、その人たちの思考を悪く捉えてしまいそうな気がしたからだ。


 おじさんの痙攣は随分前に止まったけれど、美鎖子の心臓マッサージをする手は、ずっと小刻みに震えていた。



稜太郎「っAEDできるっ?」



美鎖子「んんんん?!」


 美鎖子は声にならない声を出しながら勢いよく顔を上げた。

ついさっきスーパーに向かったばかりの稜太郎が、あまりにも早くAEDを持って帰って来たからだ。


しかも稜太郎は着けていたサングラスを外しており、顔の印象が全く変わっていたので、

美鎖子は一瞬、稜太郎だと気づかなかった。


 美鎖子は“200m以上ある、あり、ありますよね?”と目を丸くさせながら稜太郎に目配せをした。

けれど息を切らして真っ直ぐに見つめてくる稜太郎の圧(?)に負けた美鎖子は「でででできますっ!」と答えた。


稜太郎「マッサージの方代わるからっ、お願いしていいっ?」


美鎖子「ははい!」


稜太郎「ごめんね、ありがとっ」


 また謝った。


 美鎖子はそう思いながら、稜太郎と心臓マッサージを交代した。


 手の震えはだいぶ治っていたけれど、まだ体の芯の部分が震えていることを美鎖子は感じていた。

美鎖子はもう一度拳を握り締め、わざと指を大きく開いてから、AEDの入っているバックのチャックを開けた。


稜太郎「ハサミ出せる?服切ってくれる?」


美鎖子「は、ははい!」


 AEDの自動音声が流れる中、稜太郎は美鎖子に適切に指示をだし続けた。


 美鎖子はヒヤヒヤしながら、おじさんのランニングウェアを縦にハサミで切った。

そして付属のタオルでおじさんの汗を急いで拭きあげた。


 美鎖子は電極パッドの入った袋を勢いよく破り、パッドをシートから剥がそうと試みた。

しかし体が震えて、美鎖子の指先は思った通りに動かず、パッドを剥がすのに手こずってしまった。


 稜太郎はそんな美鎖子に「落ち着いて、ゆっくり息して、大丈夫だから」と優しく声をかけた。

美鎖子が浅く呼吸をしていることに気づいたからだ。


 美鎖子は大袈裟に深呼吸をして、もう一度電極パッドに向き合った。

今度はしっかりパッドの端に指先を引っ掛かったので、パッドを剥がしきって、おじさんの右胸に貼った。

もう一個の電極パッドはあっさりと外れたので、急いで左脇腹に貼り付けた。



 AEDが心電図解析を始めると、近くのスーパーの制服を着た小太りの男性が人混みをかき分けて来た。

そしてスマホを振りながら、稜太郎に救急車が向かっていることを伝えた。


 稜太郎は額に浮き上がる汗をパーカーで拭いながら、その店員に周りにいる人たちの誘導をお願いした。


 美鎖子はその店員を見ながら、

“三毛くん、この店員さんのこと置いてきてたんだ…”と思い、唾を飲み込んだ。



 すると鼓膜を劈くようなAEDのブザーが鳴り響いた。


 稜太郎は「触らないで!離れてください!」と再度周りの人たちに呼びかけ、美鎖子に目配せをした。


 美鎖子はおじさんに誰も触れていないことを確認し、

「ショックボタン押します!」と大声で言い、点滅するボタンを力強く押し込んだ。


 美鎖子は電気ショックを加える時、おじさんのことを見ないようにしていた。

おじさんが知っていたからだ。


 でもその甲斐もなく、周りで見ていた人たちの「うわっ」というどよめきのせいで、美鎖子の胸はぐぅっと締めつけられた。


 すぐに稜太郎は心臓マッサージを再開させた。

けれど美鎖子は呆然としてしまい、AEDの画面をただ眺めることしかできなかった。



 一分もしないうちに、遠くからサイレンが聞こえた。


 美鎖子は救急隊の邪魔にならないように、おじさんのそばから離れようとした。

けれど足がすくんで、立ち上がれなくなってしまった。


 救急車が到着すると、降りてくる救急隊のために、人だかりがさーっと道を開いた。

その流れのまま現場を後にする人もいたが、スマホをおじさんに向けている人の多くはその場に留まった。


 救急隊がおじさんの元に駆けつけると、稜太郎は救急隊と心臓マッサージを交代した。

そしておじさんの倒れていた状況や、心配蘇生を始めて何分ほど経ったかなどを早口で伝えた。



救急隊「大丈夫ですか?下がれますか?」



 救急隊の一人が美鎖子に声をかけた。

美鎖子は「すすすすすみません!」と大声で謝って、立ち上がろうと努力した。

けれどその体に力が篭ることはなかった。



 すると美鎖子の様子に気づいた稜太郎が、彼女の横にしゃがみ直した。


そして美鎖子の腕を自分の肩にまわし、美鎖子を持ち上げたのだ。



 美鎖子は正座した状態で宙に浮いた。


側から見れば大変不恰好な状態だったけれど、

そのまま歩道の隅まで運ばれて行った。



美鎖子「すみません!!」


 稜太郎は美鎖子の腕を自分の肩から外して、その腕を美鎖子の膝の上にそっと置いた。


稜太郎「こっちこそごめん」


 この短時間の間に何回三毛くんに謝られたんだろう。


 美鎖子はそう思いながら稜太郎を見つめた。


 稜太郎は美鎖子の隣にヤンキー座りをした。

そして赤いパーカーのポケットから、黒いレンズのサングラスを取り出していた。


 薄めの唇。


鼻筋の通った鼻。


少し垂れ目な大きな瞳。


整えられた訳ではないが綺麗な形をした眉。


 “ワンちゃん”って感じの優しい顔だな。

サングラスをしている時とだいぶ印象が違う。


 美鎖子がまじまじと稜太郎の顔を見つめてしまったので、

稜太郎はサングラスをかけようとする手を止めて「どうしたの?」と聞いてきた。


美鎖子「あ、いや、え、あ…」


 美鎖子は稜太郎の顔を眺めていたことがバレてしまったので、口をもごもごさせた。

しかし"このままでは気まずい"と、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。


美鎖子「…あ、あのなんで、そんな、そんなに謝るですか?」


 稜太郎はサングラスをきちんと掛けた。

そしておじさんを乗せたストレッチャーが救急車に運び込まれる様子を、未だにスマホに収めようとする人たちの方に目を向けた。


 稜太郎は小さくため息を吐くと頬杖をつき、クセのある掠れた声で答えた。



稜太郎「……怖い思いさせたと思って」



 それは三毛くんのせいじゃないです、と美鎖子は言おうとしたけれど、口に出す前に飲み込んだ。


自分のせいじゃないことくらい稜太郎は分かった上で、自分に謝り続けていたのだと推測したからだ。


 美鎖子は俯いて、制服のスカートをくしゃくしゃに握り締めた。




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