5輪:シガレット


 ────それにしても暑過ぎる。


 明日に体育祭の予行練習が控えているが、

美鎖子はその前に燃え尽きてしまいそうだった。

明後日の本番の日が雨になって延期にならないかな、なんて思ったけれど、

次の週まで太陽のマークが並んだ天気予報を思い出し、美鎖子は憂鬱になっていた。



 これからビニールテープで作ったポンポンを割きに行かなければならない美鎖子は、その前に休憩を取りたくなった。

なので始業式の日に、稜太郎と隠れた場所へ向かった。


 美鎖子は水筒の紐をブラブラと振りながら廊下を歩き、1階階段の踊り場の奥にあるドアの前に立った。


 美鎖子は誰も見ていないことを確認し、静かに、そして慎重にドアノブを回した。



美鎖子「フプスッ?!」


 誰もいないと思って開けたドアの目の前に人が座っていたので、美鎖子は変な声を出して驚いた。



稜太郎「……あっ」



美鎖子(み、三毛くん!しかもタッ!タバ…コ?)


 稜太郎は唇を器用に動かしてタバコらしきものをすべて口の中に含み、ガリガリと音を立てながら噛み始めた。

そして自分の口元を指差しながら

「シュガーシガレット」と説明した。



美鎖子「あ、あ、あぁ、ご、御一服中のところ失礼致しました」


 美鎖子は開けたドアを閉めて、校舎内に戻ろうとした。



 しかし、閉じようとしたドアがいきなりガッと固まって、閉まらなくなった。


美鎖子(え?!)


 美鎖子がドアの下の方を確認すると、

稜太郎ががっちりとドアを掴んで押さえていた。

その様子はまるでゾンビ映画のワンシーンのようだった。


美鎖子(な、なにぃ、なんですかぁ…)


 美鎖子は恐る恐るドアを開け直した。

すると稜太郎は顔を上げて、美鎖子をまっすぐ見た。



稜太郎「休みたかったんじゃないの?」


 稜太郎は首を傾けながら聞いた。


 その優しさが胸に沁みて、美鎖子の顔は一瞬綻んだ。

けれど美鎖子は首を横に振って、顔に気合を入れ直してから

「いやなんかもう大丈夫になりましたありがとうございました」と早口で言って、再度ドアを閉めようとした。



稜太郎「なんか!また気付いてないみたいなけど顔色悪いよ!」


 稜太郎が少し声を張ってそう言ったので、

美鎖子はドアを閉めようとする手を止めた。

そしてもう片方の空いた手で自分の顔に触れた。


美鎖子(…冷たい)


 暑さでほてっていたはずの美鎖子の顔は、何度触り直しても冷たかった。


 するとドアが勝手に大きく開いた、いや稜太郎がドアを押さえていた手でドアを開いたのだ。


 そして稜太郎は美鎖子に手招きをして、自分の横に座るよう、コンクリートの段差を軽く叩いた。

美鎖子は小さく数回頷いて、彼の横にゆっくりと腰を下ろした。


 稜太郎は何事もなかったかのようにジャージのポケットから箱を取り出し、シュガーシガレットを1本取り出した。


稜太郎がシュガーシガレットをタバコのように咥える様子を見て、

美鎖子は“サマになり過ぎてる”と思った。


 美鎖子もそんな稜太郎に感化され、水筒のカップにスポーツドリンクを注ぐとお酒のようにちびちび飲み始めた。

そうやって飲みたくなったのだ。



美鎖子(……沈黙)


 始業式の日も沈黙の時間はあったけれど、それは稜太郎が美鎖子の名前を思い出そうとしてできた間だった。

まぁ話すことないから良いんですけどね、と美鎖子は開き直った。


 美鎖子からして、稜太郎は色々と読めなかった。


稜太郎の元々の気質のせいなのか、


美鎖子の"三毛くんはツッパリだ"という固定概念が邪魔をしているせいなのか。


それとも美鎖子のが、誰にでも使える代物ではないからなのか。

美鎖子はそんなことを考えながら、稜太郎を横目で観察し始めた。



 今日も軽くまとめられたリーゼントに小さい丸いサングラス。


でもグラスのレンズの色は、黒色から透明な深緑色に変わっていた。


稜太郎の口元を見ると、咥えているシュガーシガレットが上下に揺れている。


右手首には緑色のハチマキが雑に巻かれている。


お下がりなのか、少し黄ばんだ体操服が肩まで捲られていて、裏地がほつれたジャージのズボンも膝下まで捲られていた。


 の解像度高いなぁ、と美鎖子は感心してしまった。


 さらに美鎖子が目線を下の方にやると、赤いくるぶし丈の靴下、そのワンポイント刺繍のビーグル犬と目が合った。


 美鎖子は気がつくと、目線だけでなく完全に体ごと稜太郎の方に向けていた。

なので正面にゆっくり向き直り、口を真一文字に結んで目をしばたたかせた。



 気まずくなった美鎖子は、自分の顔を手の甲で触って体温を確かめた。


美鎖子(さっきよりマシ、かしら。

でもまだ冷たい。

…でもこの気まずさから早く解放されたい!)


 美鎖子は急いでコップに残ったスポーツドリンクを飲み干し、そのコップを水筒に被せて勢いよく閉めた。


そして素早く立ち上がり、

「あの!もう!」と言ったその瞬間。



美鎖子の視界はゆっくりと、黒くフェードアウトしていった。


 あっ、脳貧血だ、やっちゃった、貧血ユーザー(?)としてあるまじき行為だよこれは…、と美鎖子が思った時には、もう遅かった。




 ────え!?


 次の瞬間、美鎖子の視界には真っ白い天井とピンクの医療用カーテンが映った。

美鎖子は状況がわからず、目だけをキョロキョロと動かして周りを見渡した。


美鎖子(こ、ここって病院だよね?

て!点滴っ…)


 しかし点滴の袋の中身が入っていなかったので、相当な時間、自分が病院のベッドで気絶していたことに美鎖子は気づいた。



 すると「開けますね」という小さな声とともにカーテンが開いた。


看護師「あ、目覚めましたか?気分は大丈夫ですか?」


 看護師は微笑みながら、美鎖子に優しく声をかけた。

美鎖子は返事をしようとしたけれど、喉がカサカサで思い通りに声を出せなかった。


美鎖子「ぁ、あい」


 美鎖子は情けない返事をした。



釉氷ゆうひ「みーちゃん大丈夫?」


 すると看護師の奥から美鎖子の母が顔を覗かせた。

美鎖子の母は、看護師の声で美鎖子が目を覚ましたことに気がついたようだった。


美鎖子「マ、ママ」


 か細い声で美鎖子がそう言うと、手足をバタつかせて起き上がろうとした。


しかし「落ち着いてください」と看護師さんに宥められたので、

美鎖子は冷凍マグロのようにピンと固まった。

看護師はそんな美鎖子の背中に腕をまわし、そっと彼女のことを起こしてくれた。



釉氷「みーちゃん倒れて体育の荒川先生?が背負って病院まで連れてきてくれたのよ」


 美鎖子は母の目をじっと見つめた。


その目は充血していて。


美鎖子「ママ、ママっ」


 美鎖子は母に“口元に涎の跡が付いていますよ”と指で合図を送った。


美鎖子の母は「あらやだ、恥ずかしい」と言って握っていたハンカチで口元をゴシゴシと吹き始めた。

看護師はそれを見て「ふふふ」と軽く笑って、美鎖子の点滴の針を抜くためワゴンを取りに行った。


 美鎖子は母の顔を見ていると気が抜けて大きなため息が出た。



 けれど次の瞬間、視界がフェードアウトした時の記憶が蘇ってきた。


美鎖子に近づいてくる、焦ったような表情をした稜太郎の顔がぼんやりと。



美鎖子「え、マ、ママ、あの、私ってど、どうやって運ばれたの?」


釉氷「だから荒川先生が背負って」


 美鎖子の母はまだ口元をハンカチで拭っていた。

力強く拭き過ぎて肌が赤くなってきている。


美鎖子(あーあー違う違う、そうじゃなくて)



美鎖子「保健室には?」


 美鎖子の母はその質問に目を大きくさせて反応した。


 そして「あ、そうそうそうそう!」と段々と声を大きくして、

ハンカチを持った手で“ちょっと聞いてよ”と言わんばかりのジェスチャーをとった。



釉氷「みーちゃん運んでくれた子、みーちゃんが頭打たないようにしてくれたみたいで」


 美鎖子は素早く息を吸い込んで、呼吸を止めた。



釉氷「ほらあのツッパリ?の子よ、あの子よ!

でね左手でこう、庇ってくれたみたいで」


 美鎖子の母はジェスチャーを交えながら説明した。


母の抱きしめるような仕草を見た美鎖子は、母の説明する姿を目を細めるようにして見た。



釉氷「骨折はしてみたいなのよ。

でもか、か、皮が、ベロンて」


美鎖子(……か、皮が、ベ、ベロンて?)


 母が持っていたハンカチをバナナの皮のように剥いたのを見て、

美鎖子の体は勝手にソワソワと動き始めた。


美鎖子「え、え、ええと…大っ丈夫な、の?」


釉氷「そうなのよ!すごくね、ママね、謝ったのよぉ」


美鎖子「う、うん!そりゃ!」


 美鎖子は大きな声で相槌を打った。



釉氷「でもね、その子のお姉さんが『この子がちゃんと血が出る子で安心したぁ』って。

『大丈夫ですよぉ』って、すごく笑ってたのよ」


美鎖子(『この子がちゃんと血が出る子で安心した』?

弟の怪我に大爆笑?)


 美鎖子は眉を顰めて“なぜ?”と考えたけれど、いくら考えても分からなかった。



釉氷「その子」


美鎖子「み、三毛くんね」


釉氷「あらミケくんって言うの、可愛い名前ねぇ」


美鎖子「苗字ね」


釉氷「あ、そうよね、そうね。そうそう、それでね」


 母が天然を炸裂させるので、

はたから見て、美鎖子は冷静にツッコミを入れたように見えた。

しかし美鎖子の内心は、稜太郎のことでいっぱいいっぱいで、ツッコミは脊髄反射で行っていた。



釉氷「そのミケくんが小学生の時?3階から飛び降りたことがあったらしいんだけど、

無傷だったそうなのよ」


美鎖子(『小学生の時3階から飛び降りたことあったらしいんだけど、無傷だった』?)


 美鎖子は母親の言葉を心で復唱し、目をしばたたかせた。


美鎖子(み、三毛くんの話なの?


それともハリウッド俳優の逸話?


というかなぜ三毛くんは、小学校の3階から飛び降りているの?)



看護師「失礼します、点滴の針抜いていきますね」


 美鎖子は頭にクエスチョンマークがたくさん浮かんだまま、

看護師に点滴の針を抜いてもらった。



釉氷「それでね、ミケくんに何かお礼しないとってママ思ってぇ。ミケくんの好きなものとかお菓子とか、知ってる?」


 看護師が点滴の処理をしている後ろで、

美鎖子の母は普通に話を続けた。


 美鎖子は看護師が血の付いた針をテープで包むところを見ながら、稜太郎について考えた。


というより、自分に近づいてくる稜太郎の顔が頭の中で何度もリピート再生されて、

母の質問に対する答えが全然浮かんでこなかった。



看護師「少々お待ちください」


 看護師がそう言ってベッド脇から離れると、

美鎖子は稜太郎の横顔をふと思い出した。

そして母の方を向いて、人差し指を立てながら答えた。



美鎖子「シュガーシガレット、カートンで」




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