12輪:赤ちゃん…?


 次の日の朝会。


 本日も快晴で、体育館は蒸し風呂状態だった。

ただ蒸し風呂と違うのは、生徒の汗の臭いが充満しているということだ。

これだけで気分が全然違う。

換気のために開けられた窓も、その臭いを循環させるための風を受け入れているようなものであった。


 校長先生はもうすでに20分もの間、“5つのCについて”の話をしている。

生徒もさることながら、体育館の端で生徒を見守っている先生たちまでも目が虚になっていた。


クラスの最後尾、体育館の一番後ろでいつも真面目に先生の話を聞いている美鎖子みさこも、

今回ばかりは一点を見つめてしまっていた。


 それから数分、校長先生は話の締めをタラタラと話した後、満足げに壇上を降りた。



教頭先生「えーっとね、それではねっ、えーっこれから、表彰に移します」


 いつもなら3年生の方から


「なげぇーよ」「まだかよ」


などのヤジが飛ぶのだが、今日はそれを言う元気がないほど生徒たちは憔悴していた。



教頭先生「始業式の日にねっ、私からお話しさせて頂きましたけれどっ」



神楽かぐら美鎖子みさこ(な、なんか怪しい前振り)


 美鎖子は眉を顰めて教頭先生の方を見た。



教頭先生「えぇ我が校の生徒がぁ2人っ、えぇ人命救助っ、をっ行いました」



美鎖子(こ、断ったよね?!


…断ったというか、書類に何も書かなかったよね?)



 美鎖子はすぐに稜太郎りょうたろうの方を見た。


稜太郎はツッパリらしく、いつも整列する時は一番後ろに並んでいるので、

美鎖子は簡単に稜太郎のことを見つけられる。



 すると稜太郎は普通に、何の迷いもない様子で、


体育館の後ろにある扉を開けて出て行った。



美鎖子(あ!?え?!)



 教頭先生は何も気づかないまま、1人漫談を始めた。


なので美鎖子は、稜太郎が開けっぱなしにした扉にゆっくり後退りして近づき、扉の向こうを覗いた。


ぐんぐんと稜太郎の後ろ姿が遠ざかって行く。


ま、待ってぇ…と美鎖子は心の中で稜太郎に呼びかけたけれど、

あくまで心の中での呼びかけなので稜太郎が立ち止まるわけがなかった。



 美鎖子は体育館の方を振り返り、周りを見渡した。


稜太郎の退室がナチュラル過ぎたのか、


まだ体育館ここに拘束されることに絶望しているのか、


誰も稜太郎が出て行ったことに気づいていなかった。



美鎖子(ででででも、私がひとり体育館ここに残ると、私ひとりだけ壇上で表彰されるわよね。


そ、それは嫌!絶対嫌!


やっぱ、私も三毛みけくんに付いて行った方がいいよね!)



 美鎖子は後ろ向きに体育館を出て、顔だけを館内に残し、

キョロキョロと首を振って周囲を確認しながら、扉をゆっくり閉め始めた。



 すると体育館の端の教師列にいた、稜太郎のクラスの担任である大石先生とバチっと目が合った。



美鎖子(やばっ)


 美鎖子は顔をすぐに引っ込め、雑に扉を閉め切って、稜太郎が行った方へ走って向かった。




 ────やっぱりここですよね。



 稜太郎のお気に入りであろう場所。

1階階段の踊り場の奥にあるドア、そこを開けると外に繋がる謎の空間。

体育館の換気窓とは違って、

バリケードのようになっている木々を通り過ぎて来た風は、とても清々しい空気を運んできた。


美鎖子がその空間に入ってきても、


稜太郎は気にする様子はなく、シュガーシガレットを口に咥えていた。

美鎖子は黙ったままコンクリートの段差に腰掛けた。



三毛みけ稜太郎りょうたろう「…いる?」


 稜太郎は美鎖子にシュガーシガレットの入った箱を差し出した。



シンプルもらい…と美鎖子は思いながら、

「大丈夫です」と断った。



稜太郎「人来たら食べちゃえばいいんだよ」



 悪い先輩からタバコを勧められる時ってこんな感じかな…なんて美鎖子は思いながら、

「また今度に」と言って断った


美鎖子が断ると、稜太郎はパーカーのポケットにシュガーシガレットの箱を雑に突っ込んだ。



美鎖子(三毛くん、体育館の中でその格好暑くなかったのかな?)


 美鎖子は稜太郎を横目で見た。


稜太郎の真っ赤なパーカーはチャックは開いているものの、


Yシャツの上に長袖のパーカーを着ていた。


美鎖子は今更校則のことなんて気にしていなかった。



 それからいつも通りの静寂が流れた。


美鎖子は顔の前で指を絡めて項垂うなだれた。



美鎖子(そうだった。


ひとりで壇上に立って表彰されるくらい気まずいことが待っていることを忘れてた…。


何か話すことを考えないと)



稜太郎「神楽さんって将来の夢とかあるの?」


美鎖子「はぇ?」


 稜太郎がいきなり質問してきたので、美鎖子は間抜けな声で返事してしまった。


 稜太郎はボンタンのポケットを探りながら、


「ほら、来週面談でしょ?」と言った。


美鎖子「あ、あぁ!」


 来週は夏休み前最終週で三者面談が控えていた。

先週の帰りの会で、三者面談で扱う資料が先生から配られたのだ。


美鎖子「今週の金曜日まででしたよね、提出」


稜太郎「ぅん」



 稜太郎はボンタンのポケットから四つ折りにされた2枚の紙を出した。


 稜太郎は紙を開くと、解答欄が空白の


<将来の夢について> <進路について>


と書かれた紙をそれぞれ美鎖子の方に見せた。



美鎖子(三毛くん悩んでるのかな?)


 美鎖子は稜太郎が差し出した紙を眺めた。



美鎖子「そうですねぇ、私は<進路について>の方の紙には、高校名は書かずに目標の偏差値だけ書きました」


 稜太郎は黙ったまま首を大きく捻った。


美鎖子は稜太郎の反応が思っていたのと違っていたため、

「で、でですね!」とすぐに言って<将来の夢について>の紙を指差した。



美鎖子「こっちの紙には公認心理師って書きました!」



稜太郎「…心理学勉強したいの?」


 稜太郎は首を捻ったまま美鎖子に質問した。


美鎖子「は、はい」


 稜太郎は「へぇ」と言って、2枚の紙を重ねて自分の膝の上に置いた。



稜太郎「どうして?」


美鎖子「り、理由はいくつかあるんですけど、


1つは私が考え過ぎてしまう性格なので、


相手の人のボディーランゲージ、身振り手振りとかでその人の本音が読めればなぁと思って…」


 稜太郎は「ふーん」と言って小さく何度か頷いた。


その反応に美鎖子は“こ、これも答えになってなかったかな?”と少し不安になった。



稜太郎「今も勉強してる?」


美鎖子「入門書、みたいなのは少し…」


 美鎖子は親指と人差し指の間で“少し”を表現した。


しかしその親指と人差し指の隙間は、紙が1枚入るか入らないか分からないほど細かった。



稜太郎「へぇ、じゃぁ僕がシュガーシガレットこれが好きな理由とかわかる?」


 稜太郎はシュガーシガレットを指差しながら聞いた。

美鎖子は口元に手を当てて考えた。



美鎖子(シュガーシガレット、咥える、


ツッパリ、


タバコ、クセ、手持ち無沙汰……)



美鎖子「たしか口唇こうしん欲求だった気が…」


稜太郎「こうしん?」


美鎖子「口と唇で口唇ですね」


稜太郎「どういうこと?」


 稜太郎は美鎖子の方に体を向けた。



美鎖子「あのぉほら、


赤ちゃんってお母さんのおっぱい吸ったり、


おしゃぶり吸ったりするじゃないですか、あれです。


たしか甘えん坊とか


寂しがり屋とか、


依存、体質、なんだ、と、お、思い……」


 美鎖子は最初口唇欲求について饒舌に語り始めた。


しかし最後の方にかけて


に対して何を言っているんだ”と思い、話す速さを明らかにスローダウンさせた。

なので“ます”とまで言い切ることはできなかった。



美鎖子(どうしよどうしよどうしよどうしよ!!


赤ちゃん!


お母さんにおっぱい!


おしゃぶり!


甘えん坊! 寂しがり屋!


依存体質とまで!



 やってる、完全に私やってる。


詰んでる、完全に詰んだよ、私……)


 美鎖子は肩をすくめて、体をできるだけ小さくした。



稜太郎「……当たってるかも」



美鎖子(…え?)


 美鎖子は勢いよく稜太郎の方を向いた。


稜太郎は咥えていたシュガーシガレットを、指先でコロコロと転がしながら眺めていた。



美鎖子「どどどどこらへんが?!」


 美鎖子は驚き過ぎて、言葉遣いが若干荒くなっていた。



稜太郎「赤ちゃん」


 稜太郎は指先で転がしていたシュガーシガレットを、可愛らしく咥え直した。



美鎖子「あ、赤ちゃん?」


稜太郎「ぅん、赤ちゃん」


 美鎖子は稜太郎を見ながらゆっくりと瞬きをした。

そして体を正面に向き直すと、口を真一文字に結んだ。



美鎖子(……赤ちゃん?


パーカーがちゃん?


靴下の色が


いやいやいやいや三毛くんがそんなダジャレを言うとは思えない!)


 美鎖子は大きく首を横に振って、話題を変えようと試みた。



美鎖子(えーっと、何話そう…。


あ、そういえば大石先生のの話!


もしかしたら私たちが感謝状を受け取るのを拒否したからだったりする?

さっき目が合った時、正直ゾッとしたよぉ。


えっ、じゃぁ三毛くんなんて大石先生が担任だし、いじめられてるんじゃ…!)



 美鎖子はまた稜太郎の方に体を向けようとした。


しかし体育祭の予行練習の時に、大石先生が稜太郎に言い負かされていた(?)ことを思い出し、動くのをやめた。



美鎖子(この大石先生のメンツはなしって、三毛くんは対象外……?)


 美鎖子は自分の上履きの蝶々結びが緩んでいることに気づき、靴紐を解いた。



 靴紐を結び直していると、美鎖子は昨日稜太郎にあった時のことを思い出した。



美鎖子(そういえば私、三毛くんに『良い人』って言われた気が…)


 美鎖子は蝶々結びに苦戦した状態のまま、「あの、全然話変わっちゃうんですけど、


三毛くんにとっての良い人ってどんな人ですか?」と稜太郎に聞いた。


稜太郎「んー」



 美鎖子が稜太郎の方を見上げると、

稜太郎は短くなったシュガーシガレットをうさぎがにんじんを齧るようにガリガリと食べていた。

それを飲み込んだ稜太郎は、ちょっと考えるような素振りをした。


けれど返ってきた答えは、美鎖子が想像していたものとは違っていた。



稜太郎「そう言われると僕、


あんまり良い人そのことについて考えたことなかったな」


 稜太郎がそう言い終えると、ちょうど予鈴がタイミング良く鳴った。



美鎖子(…え、あ、わ、私、昨日三毛くんに『良い人』って言われた、けど、


か、考えなしに言われてたの、ね……)



 稜太郎は生徒たちの声が校舎内から聞こえてくると、校舎の方へ戻って行ったけれど、


美鎖子はしばらくの間、蝶々結びと格闘を続けた。





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