沢邑先輩

猿川西瓜

お題「はなさないで」

 死んだ沢邑さわむら先輩の所に行った。クソ暑い日だった。

 同級生らはみんな大学受験に必死だった。みんなマスクしながらも冷房の効いた部屋にいるだろう。私は酷暑の太陽にさらされながら、平日、高校を休んで東大阪にある寺を目指して歩いていた。

 しかも、喪服を意識して、少し黒めの服を着ていた。

 暑さは倍増した。

 よく熱中症で倒れなかったと思う。


 寺の住職は、最初私が来ることを嫌がっていたらしいけれども、沢邑先輩とは先輩後輩の親しい関係であることを学校の先生に丁寧に伝えてもらったので、ようやく訪問してもいいという許可が取れたという。

 コロナ禍まっただ中だったので、嫌がられるのも仕方ない。


 沢邑先輩はコロナを知らずに死んだ。丁度、コロナが春に始まって、街が無人になったのも、知らずに死んだ。

 沢邑先輩の死因は病死だったけれども、どんな病気だかは分からなかった。


 彼女はいつも猫背で、だらしがない感じだったけれども、文芸部の先輩かつ部長として立派だった。

 痩身でひょろっとしていて、曲がった背で、カタカタとDELLのPCを叩くオタク系女子。眼鏡はいつも汚くて、よく洗って拭いてあげたことがある。

 マイナーな文芸賞や賞の学生部門を取ったりして、学校の講堂で全校生徒の前に立ったりしていた。バスケ部のエースと付き合っているという噂が立ったときは驚いた。


 沢邑先輩はバスケ部のエースについてこんなことを話していた。

 それは蝉の声で人の話し声も聞き取り辛いくらいの日だった。

 食堂横の自動販売機でコーラを買って、二人で暑い暑いと言いながら飲んでいたら、突然沢邑先輩は付き合っているバスケ部のエースを家に招いた話をし始めた。

 最後に「それがね、入らなかったんだ。三ツ矢サイダーのでっかいほうのペットボトルあるでしょ。それくらい。それで無理だったんだ。たぶん、別れると思う」と私に言った。

 私はコーラを飲みながら三ツ矢サイダーをイメージしたので、頭の中がわけが分からなくなった。

「え? コーラ?」

 と、私は聞いた。

「いや、三ツ矢サイダー」

「そうすか……誰でも無理でしょ」

 私は沢邑先輩の顔をまじまじとみた。いわゆる女性から考えてモテるタイプではなかった。男性の心理というのはいつまでも謎だった。

 そういえば、クラスの、背が小さくて太ってる、お世辞にも美人ではない大木さんも、サッカー部の2年レギュラーと結構仲が良かったりする。

 コーラをごくごく飲んでは、あまり聞こえないようにゲップしながら、私は沢邑先輩の次の言葉を待った。

「ラグビー部の村田もそうだった」

「あの真っ黒の顔の……角刈りの……」

「そう。入らなかった。別に狭いわけじゃないみたい。あの二人がデカすぎただけ」

「え……あ……そうなんすね……」

「デカチンを召喚するスタンド使いなのかも」

「デカチンを引き寄せる、ですね。正確には」

「あれ、他の子どうしてるんだろ……」

 沢邑先輩はコーラをゆっくり飲みほしながら、ウォータークーラーを飲む女子バレー部をじっと眺めていた。


 そんな沢邑先輩が急に入院したと聞いた。

 そして、二ヶ月後に亡くなった。

 普通に学校に何食わぬ顔で戻ってくるものだと思っていたから、呆然とするしかなかった。


 一度だけお見舞いに行ったら、小説の話とか色々適当にして、水上勉の山桜の小説で、自分の父親がいない時に父方の祖父と自分の母が桜の下かどこかで楽しそうにセックスしているみたいな描写がたまらなく美しかったということを話していた。


 沢邑先輩と病院での別れ際にも、またペットボトルの話をした。病室で、この話はあと百回はしようと笑い合った。ドアを閉じると、急にドアの向こうの沢邑先輩の気配が消えていく感じがした。静かに閉じる横スライドの綺麗なドアだったことが印象的だった。

 沢邑先輩は自分の病気の進行度がかなり危ないことを、たぶん知っていたのかもしれない。知っていて絶望もせず私とあんなに楽しく話せたなんて、強い人だと思った。それと同時に、性欲も強くて、良い先輩だった。


 沢邑先輩の眠るお寺を訪れたのは夏休みの時だった。3年の夏休みはみんな受験に忙しいはずなのだが、私は暇だった。どうして暇なのか分からなかった。受験しなくても入れるところを考えていたからかもしれないし、将来の夢がなかったせいかもしれなかった。

 自分は文芸部で、永遠に続くとも思われる学生時代の繰り返される日々を過ごしながら、文芸部以外誰も読まないような下手な文章を書いて、たまにギャルっぽい子に褒められるのを経験しながら、日々は終わっていくのだった。時間が終わっていくのを私は待っていた。


 私は寺を目指す。寺まで徒歩25分かかるという。東大阪の寺だ。東大阪は工場が多く、一つ一つの建物の土地が大きく、何もかもがやたら遠い。住宅街の中を歩きながら、日傘を気休めにさして、汗だくになって歩いた。

「沢邑先輩の猫背。あれは骨になった。骨は、猫のようだっただろうか」と、そんなことを何度もつぶやきながら、もうろうとしながら先へ進んだ。

 寺の前に到着する。

 ここまで、誰ともすれ違っていない。

 まわりは一軒家が多くて、子どもの三輪車とか、小さなプールが家の前に置いてあった。


 住職のお爺さんと、その奥さんからは、冷たい麦茶と大量のお菓子を出していただいて、とても歓迎してもらった。

 柔和な笑顔で、ものすごくでかい手作りの布マスクを二人ともしていて、いかにもな年寄りのお坊さんだった。

 私は慣れないマスク越しに、簡単に自己紹介をして、文芸部で部長になっていると言った。それは凄いと褒めてくれた。文章ぜひ読ませてね、と、言われて、ただうつむくことしかできなかった。文章を読んだらきっと失望される。

 そんな気持ちになりながら、ふと、仏像の下に目をやると、きらきらした、それでいてしっかりして固そうな袋に入った物体があった。

「あ……」と声に出せないような声がでた。

 久しぶりに先輩に会った気がした。

 ちょこんと置いてある、先輩の骨の箱。豪華な袋に包まれてる。


「あれがね、沢邑さんのおこつでね。家族の方が、まだお墓に入れないで欲しいって。ここに来て、何度も話しかけるの。こう、撫でて。何度も撫でて、お話して帰られるのよ」

「撫でて……」

 私は沢邑先輩の骨が入っているであろう豪華な袋を前にした。

 先輩との距離を近づけていく。


「なんて、なんて……小さくなったんだよ、沢邑さんよう……」


 私は話しかける。


「こんなに、人間って、小さくなってしまうのかい……」


 正座しながら、分厚い座布団の上で、しばらく袋を見つめていた。

 蝉の声も、大きなお堂までは届いてこなかった。

 お堂の中は空調が効いていて、過ごしやすく、そして綺麗だった。

「音楽が好きで、戒名に『音』の字が入っているのよ」

 と、住職の奥さんが言った。


 沢邑先輩は一度も音楽の話なんか私にしなかった。彼女の作品にも出てこない。なんの曲を聴いていたのだろう。

「なんの曲を聴いていたんですか」

「さあ、そこまでは……今の流行のものとかじゃないかしら」

 奥さんは笑った。私も笑って、また骨に向き合った。


「あんた、何も書いてなかったな。作品に。音楽も、男のことも……はなさないでいた」


 しばらく、ムスッとした表情だった私は、帰るころには笑顔に戻っていた。住職の話がうまく、話題が途切れなかった。


 私には、寺の訪問の他に、もう一つやることがあった。沢邑先輩の作品をまとめて一冊にして、家族に渡して、それから学校の図書館に収める仕事が待っているのだ。

 編集後記に、なんて言葉を書いてやろうか、まだ固まっていなかった。


 ただ「確かにラグビー部もバスケ部もペットボトルだったよ、先輩」というような一文を、どこかに忍び込ませてやろうか、考えていた。誰にも分からないように、死んだ沢邑先輩しか読み取れないように、遠回しに編集後記に残そうと思っていた。

 天国で、苦笑いしてくれ。


 住職と奥さんに、また来年来ることを告げて後にした。ここは秋の花がたくさんあって、綺麗で、次は秋に来なさいと言われた。

「大変な時代になったけれどもね」

「あ、はい……また来年、よろしくお願いします」

 深々と私は礼をした。


 帰り道は短いように感じられた。あっという間に、駅にたどり着いた。

 道路に水をまく、作業服の男とたくさんすれ違った。


 電車の冷房が、身体を急速に冷やしていく。その心地よさに身を任せて、私はスマホを操作し、編集後記を書いていた。

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