叫ばせろ
雪葉
第1話 告白
――好きです。付き合ってください。
そう言ったのは幼馴染の葉月伊涼(はづきいすず)。保育園からの幼馴染だ。
私は、小学校で一番大きな、まだ桜の咲いていない木の後ろで、彼の姿を見守った。
「はい。よろしくお願いします」
親友である如月立華(きさらぎりつか)の甲高い声が聞こえて私は歓喜のあまりに、眼を見開いた。
「え。良いの?ほんとに良いの?」
「うん。もちろん」
伊涼の声が高くうわずっている。
私は木の後ろでガッツポーズを取った。
この時は、まだ自分が彼と同じ思いをするとは思ってもみなかった。
なぜさっきの記憶が今蘇ったのか。自分でもよく分からないが何となく、分かった気がする。
夏休み、二人で将来について話した、あの男が原因だろう。
静かな教室の中で、次第に増えていく鉛筆の音。
一時間目の国語を順調に終えた私は、二時間目の数学の問いに苦戦していた。
慣れない教室の匂い。一か月経てば、自分はここにいるのだと思う。というか、そう思わなければ、この受験に落ちる気がしてならない。
私は必死に公式を思い出しながら、数学の解答用紙の上で鉛筆を走らせた。
* * *
ホームルームが終わった後、私は担任に呼び出された。
「弥生、将来の夢のレポート出してないの、お前だけだぞ」
「……はい」
「はあ……。一応期限は来週までだけど……お前、やりたいことぐらい見つけろよ」
「……はい。でも……」
――どうしたって見つからない。そう言おうとしたが、目の前の教師の目が怖く、とても口には出せなかった。
「お前の姉も、この時期にはちゃんと将来の夢決まってたんだ。お前も、進路希望出して、後で後悔しないようにしろよ」
「はい」
私は太字で『将来の夢について』と書かれた紙を握りしめた。
先生が教室を出て行ったあと、私は自分の机に座り、大きくため息を吐いた。
小学校の卒業式での告白が成功した伊涼と、その彼に告白された親友の立華は中学三年生になっても仲の良い二人だった。
中学校に入った伊涼はバスケ部に、立華は吹奏楽部に入部した。
二人が仲良く廊下で話しているのを見ながら、私は頭を抱えて悩んでいた。
修学旅行も終わり、運動部は最後の試合に向けて練習している。
みんながラケットやバットを握る一方で私は、進路希望の紙を握っていた。
「将来の夢、か」
小さい声で呟いた。
立華は教師。伊涼は小説家。クラスの友達は、介護士、建築家、看護師、医者、アトラクションキャスト……みんな、夢があっていいなあ。
でもそんなこと言ったってしょうがない。
写真部である私は、これから部活に向かわなくちゃいけない。
写真部の部室が、下足室、音楽室を通ってから到着するので、伊涼と立華の二人と一緒に部室に向かう約束している。
立華は茶色く癖のある茶色の髪を靡かせて廊下から叫んだ。
「未桜ー!まだ決まらないの?もう私達、部活行ってくるよ?」
「ちょっと待ってよ立華~」
私は教室で一人自分の席に座りながら立華に向かって叫んだ。
紙へ視線を戻すと、
「弥生」
と、クラスメイトの声が聞こえた。聞き覚えの無い声だったから、聞き間違いだと思い、紙から視線を外さなかった。
「おい、弥生。弥生!」
机が揺れたとき、ようやく自分だと分かった。
「え、あ、はい」
話しかけてきたのは、ほとんど話したことのないクラスメイトの水無月夏向(みなづきかなた)だ。もう既にテニス部のユニフォームに着替えていて、とても爽やかだった。
「弥生って、写真部だよな?」
「あーうん。そうだけど」
水無月は私の前の不登校の席に座ると、
「あのさ、俺とか、他のみんなが部活やってるところを撮ってきてほしいんだ」
いきなり奇妙なことを頼んできた。
「え、なんで?」
「あー、また今度教える」
水無月は席から立ち上がり、手を振って「じゃあ明日な」と言って、教室を出て行った。
話したことも無いクラスメイトから話しかけられたことに驚きつつ、私は写真部の部室のドアを開けた。
「お。弥生先輩」
「こんにちは」
机を向かい合わせでくっつけて話す後輩が挨拶をしてくる。
いつものように返事をすると、決まった机に座った。
「弥生、お前今度のコンテストに出す写真撮ったのかよ」
話しかけてきたのは同じ部活の、文月衣羅(ふみつきいら)。フォトグラファーになるのが夢らしく、見た目にそぐわないくらい猛勉強している。伊涼とは小学校からの友人だ。
私は彼に問う。
「うーん。それがさ、今それどころじゃなくって……水無月って知ってる?」
「あー知ってるよ、あのテニス部のイケメン。有名だぜ?……あれお前もしかして?」
文月は知ったような、にやにやした顔でこっちを見てくる。私は眉を顰めて言った。
「そんなんじゃないよ。ただ今日初めて話しかけられたの。皆が部活してる写真を撮ってきて欲しいって」
「なんだよそれ」
文月は無頓着な声で話す。
「弥生、俺今からサッカー部撮りに行くけど、一緒に来るか?」
思わぬ誘いに、私は目を見開いた。文月は一瞬目を合わせたが、すぐに逸らした。
「行きたい!」
私は部室の中で一番大きな声を出してしまい、周囲から注目を浴びた。
文月は顔を顰めて、そのあとに少し笑った。
天気は悪天候。雨雲が青空を覆っている。
私と文月の二人は、グラウンドの傍にある掲揚台に腰掛けた。
お互いにお気に入りの古びたカメラを首から提げている。
私が準備を終えたときはまだ、文月が準備しているときで、カメラのレンズを除きながら、設定の画面とにらめっこしていた。
私はそんな彼の横顔を見ていた。
「弥生は、将来の夢とか、あんの?」
「え?いや、まだ決まってないんだよね」
「へーそっか」
ようやく準備ができた文月は、レンズを覗き、シャッターボタンをゆっくり押した。
カシャ、カシャと、次々に写真が撮られていく。
「俺さ、カメラの道に進むの、やめとこうと思って。やっぱ俺、カメラを仕事にしたくない。趣味が良いんだ」
「えっ、ここでやめるの?あれだけ勉強してたのに」
「うん。写真撮るのが楽しくなくなるんだ。……俺、警察官になろうかな」
彼の口から聞こえた思わぬ職業に私は自分の耳を疑った。
「そんないきなり?」
「昔からなりたかったんだ。でも、俺には無理だって諦めて、でも正直、まだ迷ってる。今は、写真の勉強しすぎて、楽しくなくなったからかな」
彼の横顔は、フォトグラファーを目指していると私に語った時より、強そうに見えた。
「……でも、どっちにしようか悩める時点で、羨ましいよ。私なんか、まだ何も決まってないのに」
私はカメラを構え、練習しているサッカー部にピントを合わせた。
お、皆かっこいい。クラスの女子が騒ぐだけあるな。
頬を伝う汗をぬぐう姿も、水を飲む姿も、懸命に練習する姿も、全部がかっこいい。以前、伊涼のバスケの試合を見に行った時と同じ感覚だ。
文月と同じようにシャッターを切る。
「うん。撮れた」
不意に文月が問う。
「……弥生は、俺が警察官になったら、どう思う?」
「……今まで警察になりたいなんて聞いたことも無いのに、今は分からないよ」
自分でもそっけない対応だと思い、とっさに言い直した。
「でも、文月がやりたいと思う方で良いと思うよ」
「将来の夢は、安定をとるべきだと思う。だから俺は一応警察官にする」
「何一応って」
私は文月の真剣な顔を見て、途端に馬鹿らしくなり吹き出してしまう。
「まだ、俺ら中学生だぞ。ゆっくり悩んでいよう」
彼は再びレンズを覗く。
私は、少し彼から離れて、斜め後ろから写真を撮った。
写真の中には、一瞬を懸命に生きている彼の姿が綺麗に写っていた。
私が満足げにカメラの画面を見ていると、文月は後ろを振り向いて、ムッとした。
「撮ったろ?」
「良いでしょ?かっこよかったよ文月」
「……黙れよ」
文月は鼻で笑って、カメラを片付け始めた。
暑いのか彼の頬は赤らんでいた。
「お前、他にも撮るのか?」
「うーん。どうしよ」
私が人差し指で唇をなぞった時後ろから声が聞こえた。
「ごめん。そこ座りたい」
振り返ると、左腕にスケッチブックを抱え、右手には絵具が三本挿している黄色いバケツを持った体操服姿の、ショートカットの少女……いや、少し髪の長い少年?言ってしまえば、性別の区別がつかないのだ。
声を聞いても、声変わり前の少年の声に聞こえるし、少し声の低い少女の声にも聞こえる。
「自分、そこで絵描きたいから」
「ああ。どうぞ」
文月は少し面倒くさそうに立ち上がると、その人に席を譲った。
文月は颯爽とカメラを持って校舎に戻ろうと、早歩きをするが、私はそこに止まったままだった。
「あの。美術部の人ですか?」
「……」
その人は黙ったまま。私は一人で愛想笑いを浮かべる。
パレットを開くと、バケツから筆を取り出し、灰色の絵具を筆先につける。
上からグラデーションになるようにすらすら塗っていく。
「なんで体操服なの?」
「制服だと汚れるから」
「ねえ、動いてるのに描けるの?凄いね」
「うん」
「今日じゃなくて、もっと天気のいい日にすればいいのに」
「それは君たちもだろ。ねえ、集中できないから、向こう行っててくれる?」
「え。ああ、うん。ごめん」
こっちも見向きもせず、ずっと動き続けるサッカー部員たちを絵具で巧みに描いていく彼は少し怖かった。
放課後は雨が降り、警報になるかもしれないということで、屋外の生徒はもちろん、屋内で活動していた運動部や文化部も一斉に下校することになった。
「未桜!帰ろ」
部室の前に現れたのは立華だ。相も変わらす、はつらつとした表情を見せてくる。
「じゃあ、また明日な弥生」
「うん。じゃあね文月」
私は胸の前で小さく手を振ると、立華の居る部室の外まで小走りで行った。
「ねえ聞いてよ。後輩からまた告白されたの。これで三回目」
立華が三本指を立てて見せてくる。
「また?みんな凄いね。彼氏いるって分かって告白してるの?」
立華は手にピンクの封筒を手に持っている。
「うん。分かってるんだよ。最近ちょっと多いって……ほらこれ、ラブレター」
「立華はほんとにモテるよね~。私にモテ期はいつ来るんだ?」
小学校の時からこんな感じだった。とはいえ、少しは嫉妬する。
私達は親友であり、幼馴染。つまり、伊涼と立華は幼馴染カップルだ。
本人は知らないが、小六の時は立華の争奪戦があったくらいだ。
なんとか幼馴染という、有利な肩書があったことにより、立華を手に入れたのは伊涼だった。
「あ、私傘忘れた」
「あるよ。昔、未桜が買ってくれたやつ」
「やったー!入れて」
立華の鞄の横にある、ボロボロのピンクの傘を取り出し、立華に手渡す。
小学校に上がったタイミングで、立華の誕生日の二月一八日に、私がお小遣いをすべて使ってあげたものだ。
正直、そんなボロボロの傘を未だに使っているのは、親友とはいえ理解できない。使ってるのも恐らく彼女だけだろう。
「そうだ。伊涼、体育館の掃除してから帰るらしいよ。先帰ろ」
「うん」
私が返事をしたときは階段を降りようとしていたところで、ちょうどその時に廊下の奥から声がした。
「二月先輩」
立華は誕生日が二月であり、苗字が如月であることから、二月先輩と呼ばれている。「お。志乃ちゃんどうしたの?」
後輩は少し申し訳なさそうな顔を作ると、立華に言った。
「先生が呼んでます」
「ええ……ごめん、未桜先帰ってて」
立華は気が咎めるように顔の前で手を合わせる。
「うん。誰か見つけて傘入れてもらうよ」
私は複雑な感情を持ったまま、走って階段を下りた。
立華にああは言ったものの、もう既にほとんどの友人が帰ってしまっていた。家に家族も居ないので、一人で濡れて帰るしかない。
下足室に靴に履き替えた後、外へ出た。
シャワーのごとく降っている。雨音がその場に響き渡る。
ずぶぬれになった状態で、落胆しながら歩き続ける。
門を出ようとした時、さっきまで額に当たっていた雨が一気に消え失せた。
驚いた私が上を向くと、藍色の世界が広がっている。
「え?」
「弥生」
その声は、聴き慣れない声だ。でもすぐにその声の主が誰なのか分かる。
「水無月?」
「傘忘れたんだろ?一緒に帰ろ」
突然の誘いに私は戸惑った。しかし、傘の無い今、断ろうにも断れない。
「うん。良いよ」
私は水無月の藍色の傘の下に入り、水無月の隣を歩く。
なぜか変に緊張してしまい、六月で暑いのもあるが、汗が止まらなかった。
私は気を紛らわせようと、べとべとの髪を歩きながら絞る。
顔を顰めながら髪を絞っていると、水無月がいきなり話しかける。
「今日は写真撮れたの?」
「あ、ああうん。見る?」
私が聞くと水無月は無言で頷いた。
私は鞄の中を自分の身体の前に持ってくると、中からカメラを取り出した。
「今日はサッカー部と、写真部一枚だけ撮った」
写真の中には、練習しているサッカー部が綺麗に写っている。
「うわ、すげー。サッカー部って凄いよな。なんで足でボールが動かせるんだよ」
「え。普通に蹴るんじゃないの?」
私が不思議そうに聞くと、水無月は首を横に振った。
「いや、手で動かすならわかるけど、足は相当器用じゃないと。リフティングなんかできるかよ」
「あー確かに。言われてみたら難しいかも」
「だろ?」
水無月と私は自然と、会話が弾む。
「でもそんなこと言ったら、テニス部だってあんな小さいボールをラケットで打ち返してる時点で、凄い芸当だけどね」
「……うーん。テニスの苦手なサッカー部は、そう思うのか?でも簡単だろ、大体、ラケットは当たる範囲が広いんだから、打ち返すくらいできるって」
「じゃあ、サッカーのゴールはめっちゃ広いけど……」
「いやいや、俺のシュートがゴールしないのは、今まで戦ったゴールキーパーが強すぎただけだって」
水無月は次第に声が大きくなる。さっきまで響いていた雨音が小さくなったような気がするくらいだった。
彼のその発言の後、なぜか沈黙が続いた。その空気感に私は思わず吹き出してしまった。
「なんなのこれ?」
私は笑いながら水無月の顔を見た。
水無月は口角を上げて微笑んでいるだけだった。
「で?なんでいきなり写真なんて撮ってきてほしいって頼んだの?」
「あー。ほら、他の人が頑張ってるのとか見たら、自分も頑張ろうって思えるから」
「確かに。……ああ、私も頑張らないとなあ――」
――話を続け、数分後。
お互いに歩幅を合わせ、ゆっくり通学路を歩いてく。気づけば、周囲から雨音は無くなっていた。
「おお。雨止んだ」
「……ほんとだ」
水無月は傘を閉じる。
意識していなくても、私達の距離は離れる。
それが少し名残惜しく、思わず眉の間が狭くなる。
枝分かれになった道の上で、水無月が突然足を止める。
「じゃあ、俺こっちだから」
「ああ。バイバイ。ありがと」
「うん。じゃあ」
水無月は顔の斜め上くらいで手を振った。
私は家の方向へ足を動かす。
私は彼の後ろ姿を確認しようと、身体を翻し、分かれ道の方向を見た。
しかしそこに彼の姿はなく、正反対の方向を見ると、彼が傘を持って歩いているのを見つけた。
私はどうして彼が正反対の方向に帰っているのか理解できなかった。
雨が止み、雲が退いて太陽が出ている眩しい空を見上げた時、彼の優しさと、綺麗な嘘に、思わず目を丸くして口を押えた。
「……」
六月の夕方、まだ日の位置が高い時。私の体温はみるみる上がっていき、発汗が止まらない。
私が雨に濡れないように、わざわざ遠回りして、私を家の前まで送ってくれたのだろうか。今まで一言も話した事なかったのに。
私はくらくらしながら、まるで酒に酔った人のように千鳥足で家の玄関まで行き、扉を開けた。
自分の部屋に入ると、私はすぐにクーラーの電源をつけ、青い羽の扇風機の前まで行き涼もうとしたが、それだけでは足りず、鞄の中から下敷きを取り出し、自分の顔を扇いだ。
鞄に無理やり押し込んだカメラを取り出すと、私はカメラの記録を見た。
「……うーん」
思わず、顔を腕の中にうずめる。
鼓動が速いままで、全く涼しくならない。
好きになりそう、というか、これは……。
認めたくなく、しばらくはそのままにしていた。
私以外誰も無い、自分の部屋の中で、スマホのメールの通知音が響いた。
私は顔をうずめたまま、側にあったスマホに手を伸ばした。
通知をタップすると、伊涼からメールが来ていた。
『お前、好きな人いんの?』
スマホの画面に現れた衝撃の文字列に、一気に体温が下がり冷静になった。
『え、なんでそんなこと聞くの?』
戸惑う私のメッセージに速攻で既読がつく。
『いるのかなって思ってさ。ほら、小学校の時俺の告白手伝ってくれたろ?だから俺もなんか返さないとなって』
『別にいないよ』
『えーなんだよそれ。衣羅とかどうなんだよ』
え、文月?なんでここで彼の名が出てきたのだろう。
『あの人は友達って感じだから』
私の指は迷いなく、スマホの画面の上を滑る。
『あー、なるほどな』
私は汗なのか、雨水なのか分からないくらい濡れたセーラー服を脱いで、クローゼットの中にある白く、何が書かれているから分からない英語のTシャツを引っ張り出し、無造作に着る。スカートを脱いで、下に履いていた体操ズボンの皺を直す。
その間に通知音が二回も鳴った。
『好きな人居ないなら』
『あいつと付き合えば?』
着替えながらスマホの画面を除くと、この二文が目に入った。
しかし、すぐに送信取り消しされてしまい、すぐに『やっぱ忘れて』とメッセージが来た。
私はスマホを手に取ると、『見てない』とわざとらしく返信した。
スマホを手に持ったまま、一階のリビングに降りた。
冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出し、食器棚から透明なガラスのコップを取り出し、キッチンの台に置く。
コップの中に麦茶を入れているとき、スマホから長い着信音が聞こえた。
伊涼からだ。
「もしもし?」
『もしもし?あのさ、今暇?ちょっと数学の問題教えてほしいんだが』
「立華に頼めばいいじゃん」
『あいつ今、後輩と居るんだよ。なあ頼むって』
「しょうがないなあ。ぶどうの炭酸用意してよ」
『はいはい』
伊涼のめんどくさそうな声が聞こえ、気づけば、すぐ通話終了の赤いボタンを押していた。
スマホを片手に二階の自分の部屋へ小走りで戻る。
ドアを開けると、途端に涼しい風が正面から当たり、身体を強張らせてしまった。
有名スポーツブランドの名とロゴが印刷された黒い鞄に財布とスマホを入れ、薄いピンク色のリュックの中に、とりあえず数学の教科書とワーク、塾に持っていっているテキストと、直し用のノートを突っ込むと、チャックを閉め、そのまま背負った。
部屋を出て行こうとした時、何か忘れたような気がして、ドアノブに手をかけたまま立ち止まった。
床には家の鍵がある。
私はそれを拾い上げると、鍵の傍にあった黒いカメラを手に取った。
忘れ物の正体は、どっちなのか見当もつかないが、持っていた方がしっくりくるし、何となく、良いものが撮れる気がする。
美術部が、「良いものが描けるかもしれない」と、スケッチブックを持っていくのと同じ原理だ。
カメラを首に下げて、部屋のクーラーの電源と、扇風機の機能を停止させ、玄関へ下りた。
さっきまで雨が降っていたと思えないくらいの直射日光が私の背中を焼く。
家の真ん前まで来た。駐車場には一台の茶色の車、庭の端にはバスケのゴールがあった。
べとべとになっていた前髪を真ん中で分けると、葉月と書かれた表札の下のチャイムを押した。
玄関から低い鍵の開く音が聞こえ、私は少しだけかしこまった顔を作る。
「お。未桜ちゃん、おいで。伊涼が待ってるよ」
「はい。おじゃまします」
伊涼の母に手招きされ、私はいつものように中へ入る。
「未桜、早いな。早く数学教えてくれー」
「はーい。分かってまーす」
わざとらしく返事をし、靴を揃えると、すぐ先にある階段へ向かった。
「こら、伊涼、せっかく来てくれたんだから、ジュース入れといで」
「へいへい」
伊涼は手を首の後ろに当て、左のリビングにつながる茶色いドアを開けた。
階段を上がって幾度ともなく入ったことのある伊涼の部屋へ向かおうとしたとき、階段の上から、伊涼の兄・悠陽(ゆうひ)。
ばっと目が合った時、一瞬逸らしてしまった。
「あ、未桜」
「どうも」
保育園の時から慣れた伊涼の家の匂い。でも、兄だけは一向に慣れない。
「もう中三だっけ」
「はい」
「受験は大変だぞ。伊涼なんかスポーツ推薦狙うとか言ってるけど」
「あー、そうですか」
反応に困ってしまい、思わず愛想笑いを繰り出す。
悠陽さんは、今はもう働いている。伊涼とは七歳差だ。つまり、今は二十二歳だ。職業は、建築デザイナーだ。
悠陽さんは片手にルームミストを握り、もう片方にタブレットを抱えていた。
「……高校どこにするの?」
「え?あーいや、まだ決まってなくて」
私は愛想笑いを見せた。
悠陽さんは、少し咎めるように、「早めに決めた方がいいぞ。決めるのが遅いと、努力し始めるのが遅くなるから」と言った。
「は、はい」
左のドアが開き、伊涼が入ってきた。
「未桜~。頼まれた通り持ってきたぞ~」
「お、来た来た」
「あれ?兄ちゃん。何してんだよ」
「別に、お前、未桜に迷惑かけるなよ」
「かけるかよ」
この掛け合いも昔から何度も見てきた。
私は伊涼の後についていき、伊涼の代わりに部屋のドアを開けた。
中学生男子とは到底思えないような小綺麗な部屋で、私は少し驚いてしまった。何故ならば、私の部屋より、百倍、いや千倍くらい綺麗だから。
それに加え、これは何の匂いだろう。加湿器でもあるのか?いや恐らくルームミストだろう。
クローゼットは綺麗に閉じられ、ベッドの傍には制カバン、その隣には黒く、赤と黄色のラインの入ったバスケットボール。
勉強机の上はパソコンが一台ある。
「ほら、ここ教えて」
伊涼はジュースとスナック菓子が乗ったお盆を茶色い低い机の上に置くと、無造作に開かれたままの数学のワークを指さして言った。
「そんなん簡単だよ。ほら、この、『昨日あった机の数』をxにおいて、『昨日会った椅子の数』をyに置くと、式が二つできるから、連立方程式で、これが求められるでしょ。じゃああとは今日の椅子の数だから、二つ目の式に代入して……」
「え?なんでこっちなの?」
「いや、求めるのは今日の椅子と机の数の合計でしょ」
「あーうん……ん?」
手を額に当て、悩んでいる。横から情けない顔を覗き込む。
「ああああ分からん。なんも分からん」
「なんで?これ二年の復習じゃん」
伊涼はそのまま仰向けに倒れこむ。
「だって俺馬鹿だもん」
「んん……そんなことないから早く終わらそうよ。これ明日までの課題でしょ」
私がそう言うと、伊涼は重そうに身体を上げた。
「うん。やる」
少し面白くて笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
「いや、だって、いきなり真面目になるから」
私が笑っていると、伊涼はずっとこっちを見てくる。
「あーなんか。何となく分かるな」
「ほら、面白いでしょ」
「え?ああ……」
伊涼は意味深な顔をして、ワークに顔を向けた。
ふとさっきのLINEのメッセージを思い出した。
「……ねえ、さっきの、文月と付き合えばってのは何なの?」
数学のワークを解く手が止まる。
「何が『見てない』だよ。見てるんじゃないか」
昔から見てきた笑った顔だが、立華に告白するとき以外余裕の表情だった彼の横顔で、こんな焦っているのを見たのは久しぶりだった。
「別に、お前ら仲良いし、そういう恋愛感情は無いのかと思ってさ」
伊涼は再び計算し始めシャーペンを動かした。
「無いよ。私は、友達は友達としてしか見ないもん。私が今まで伊涼のこと好きになったことがないのと同じ」
私の言葉に、伊涼はハッとした表情で手を止めた。
「……そうか。そうなんだ。なるほど」
意味深に彼は口を噤んだ。それ以上、文月の話題を伊涼から出さなかった。
「できた」
「おお。できるじゃん。正解」
私は赤ペンを持ち、大きく丸を付けた。
シャーペンを机の上に放り投げると「やっと終わった」と一息吐いた。
少しほほ笑んで、部屋を見渡す。すると、勉強机の上のパソコンに目が留まった。
あのパソコンは、伊涼が趣味で書いている小説を書くための物。夏休みにあるコンテストに出すらしい。
「ねえ、伊涼はなんで小説家になりたいと思ったの?」
「あーうん。自分の考えた世界をみんなに知ってほしいから。俺の考えた物語を文章にして紡いで、それを後世に残したいんだ」
「なんなのそれ?」
伊涼は大きく息を吸って言った。
「小説っていうのは、自分の考える人生観とか、世界観とか、考え方とか、意見とか、あるいは、この世の理不尽に警鐘を唱えたり、この世界に蔓延る不条理を見つけたりしたとき、それらを自分で考えた架空の世界で、自分で考えた架空の人に、うまく言葉にできない筆者の代わりに主張してもらうツールだと思うんだよ」
長々と語る、彼の顔は強かった。なんだかんだ言って初めて見た顔だった。
「漫画家じゃダメなの?」
「絵描けないもん」
「単純」
「うるせえ」
そう言う彼の顔は笑っていた。
「あ、思い出した。七月三〇日にバスケ部の最後の試合があるんだ。来ないか」
「マジで?行く」
「おっけ。じゃあ顧問に言っとく」
伊涼はそう言って、コップに入った炭酸ジュースに手を伸ばした。
一気に飲み干すと、彼は言った。
「なあ、もっかい聞くけど、好きな人いないの?」
不意な質問に驚いた私は、思わずたじろいでしまった。
「あー……いない」
「あ?なんだよ今の?怪しい」
「そんなんじゃないって」
なんか、胸が痛い。さっきの水無月を思い出してしまった。
「いや、俺には分かるな。お前いるだろ?」
「うーん……」
「え、なあ。いつからだよ」
伊涼がにやにやして聞いてくる。
「え、今日……かな」
「は?今日?それ誰?」
彼は目を丸くする。
「同じクラスの、水無月夏向」
「あ、ああ。アイツか」
伊涼は複雑そうな顔を見せてきた。
「アイツ優しいもんな」
「うん」
私は小さく頷いた。
「で?きっかけは?」
「傘忘れたとき、一緒に帰ってくれたんだ。家の前まで」
「え?お前全然違う方向じゃん。ほんとはお前が無理言ったんじゃないだろうな?」
「そんなわけないじゃん」
伊涼は訝し気に私の方を見つめてくる。
「だったら、話は早いよな。告白しろ」
「え?早すぎない?今まで一度も喋ったことなかったのに」
突然何を言い出すかと思えば……。私は言葉を詰まらせた。
「んー……何言ってんだ俺……。もうわけ分かんねえ」
仰向けに倒れこみ、手を額に当てながら言った。
その様子を横目に見ながら、私は、諸々リュックに入れた。
「はあ?とにかく、七月三〇ね。てかバスケ部、最後の試合早くない?」
「バレー部と卓球部も試合あるだろ。アイツらの試合は、八月だからな。バスケ部の試合が終わってからはあいつらが体育館貸し切りで練習するんだ」
「なるほどね」
私は荷物を全て入れ終えると、リュックを背負って立ち上がった。
「じゃ」
「え、もう帰んの?」
「うん」
「はあ?面白くねえの。どこまで進展したか教えろよ。あ、思い出した。明日夏向誕生日だぞ」
「え。そうなの」
水無月の下の名前が耳に入った瞬間、少し惑ってしまった。
あくまで自分は興味が無いとでも言うように私は部屋のドアノブに手をかけた。
すると、伊涼が私がドアノブにかけた手の上から、
「お前さ。周りの男子とも仲良くしろよな。ほら、衣羅とか」
また文月の名を口にする。
「だからー!なんであいつの名前が出てくるの?」
「え、いやだから……あいつ単純だろ?だから……な?」
伊涼の言葉は全く理解できなかった。
しかし……保育園の時に見た伊涼の身長は私と同じくらいだったのに、いつの間にかもう、頭一個分くらいの差がある。何と言うか、説得力を持っているように見える。
「おお……」
「見送るよ」
伊涼は部屋のドアを開けた。
さっきまで冷房が利いていたからか、廊下を開けた瞬間むわっと熱い空気が顔に当たる。
玄関で、伊涼が手を振り見送った。
私は家に戻り、自分の部屋のドアを開ける、学校から帰った時と同じようにクーラーの電源をつける。
結局カメラを使わなかった。
「なんで持ってったんだろう」
無駄に荷物を増やしただけだった。
しかし不思議と、いやな気分ではなかった。
「不思議だな」
カメラをベッドのわきの棚へしまった。
少ししてから、学校の鞄の中から課題のワークを取り出した。
もう既に配られた理科の夏休みの課題を、私はねめつけた。
筆箱からシャーペンを取り出した時、玄関の開く音が聞こえた。
「ただいま」
「お姉ちゃん?おかえりー」
仕事をしているお姉ちゃんが帰ってきた。
「お姉ちゃん仕事はー?」
私は部屋から出て階段の上から姉に問う。
「今日、早く終わったから、鈴本とお茶してたの」
「へえ」
姉は、獣医だ。最近はこの時期になると、熱中症の犬や猫の数が増え、何かと忙しくなるが、この日は雨が降ったのもあるのか、早く帰ってきた。
「未桜、土曜日、仕事手伝いに来てくれる?」
姉の言葉に私は耳を疑った。
「え?なんで?」
「明日、鈴本の妹が同じように手伝いに来るらしくて。アンタ同じ学校で、同い年でしょ。もうすぐ夏で忙しくなるし」
「何するの?」
「適当に休憩場所で医療器具の消毒するだけでいいよ。まだ中学生なんだから、そんな重要な仕事任せられないし」
「うーん……」
私が首を傾げ、口を噤んでいると、姉が畳みかけてきた。
「どうせ将来の夢決まってないんでしょ?」
「うるさいなあ……分かったよ」
私はわざと大きなため息を吐いて部屋へ戻った。
* * *
朝五時に起きてリュックに母の作った弁当を詰め込む。
「本当に持ち物、弁当だけでもいいの?」
「うん」
姉は自分の黒いリュックの中に、いろいろ入れていた。
「じゃあ行くよ」
私は姉に呼ばれ玄関へ向かった。
今日は朝の七時から昼の二時まで仕事をする。とは言っても、まだ中学生の私達は、医療器具の消毒をするぐらいだ。
正直それで、将来の夢が決まるとは思えない。
慣れない動物病院の裏から入っていく。
中に入ると、見たことある子が椅子に座っていた。
「おはよう」
姉がその少女に挨拶する。少女は私達の方を振り返り、上品に挨拶した。
「おはようございます」
彼女の名前は鈴本日向佳(すずもとひゅうか)。
隣のクラスの子だ。西洋のような顔立ちで、綺麗な子だ。
「アイツまだなの?」
「姉はまだ来てません。あ、未桜ちゃんおはよう」
「お、おはよう」
中一の時に一度だけ同じクラスになったことがある。ただ、ほとんど話したことがない。名前を覚えてくれていたのが少しだけ嬉しかった。
「日向佳ちゃん……だよね。中一の時の」
「そうだよ!覚えててくれてたんだね。がんばろ」
明るい表情で、太陽のように暖かい性格だ。少し眩しい。
「うん。ありがとう」
私は隣の椅子に座った。
「あーごめん。遅れた。もう始まってる?」
「遅いよ鈴本」
日向佳ちゃんの姉が着いた。
私の姉と、日向佳ちゃんの姉は中学からの同級生だ。
「ごめん、ごめんって。あたし、寝坊した」
「日向佳ちゃん何で来たの?」
「親に車で送ってもらいました」
「はあ、全くもう」
姉は小さくため息を吐いた。
「まあ、結果的に間に合ったんだから良いでしょ?」
「うーん。まあそれはそうなのかもだけど」
お姉ちゃんは不満げな顔をした。
「皆さんおはようございます」
「もうすぐ院長も来るんじゃない?」
「そうだね」
そんなことを話していると待合室の方から声が聞こえてきた。
「おはようございます。今日は来てくれてありがとう、二人とも来てくれてありがとう。今から仕事内容を説明するね」
「はい」
日向佳ちゃんは隣で大きく返事をした。その眼は初めての物を見てワクワクしているように見えた。
別室へ案内された。そこには水道がいくつかあった。
「ここで、医療器具の消毒とか、他にも洗い物があるからそれをやってくれる?人手が足りなくてごめんね」
「はい。分かりました」
院長は部屋を出ようとドアノブに手をかける。
「何かあったら、受付まで呼びに来てね」
「はい」
ガチャ。
ドアが閉まり、部屋で二人だけになる。
「よろしく」
「よろしくね」
その一言だけをお互いに話し、水道の近くにある、大きなテーブルにもたれかかった。
「ねえ。未桜ちゃんは、将来の夢何?」
「えっ、ああ、まだ決まってないんだよね」
私は苦笑を浮かべる。日向佳ちゃんは椅子に腰かけると、背負っていたリュックを隣の椅子に置いた。
「私、獣医になりたいの」
「なんで?」
私には分からなかった。何故そんなものになりたいのか分からなかった。
「うーん。お姉ちゃんがやってるからなんだけど……」
「それだけなの?もっとなんかこう、自分の人生なんだし、ちゃんとした理由は無いの?」
少しきつい言い方をしてしまったと気が付き口を押さえた。
「いや~。お姉ちゃんにはちゃんと理由があったんだと思うよ?でも私もお姉ちゃんと同じ理由だと思う。分からないけど、人や動物の役に立つのなら、理由なんてなんでもいいよ」
そういうものだろうか。昨日伊涼から壮大な理由を聞いたからか、なんだか浅く聞こえてしまう。
「お姉ちゃんが獣医になったのは、未桜ちゃんのお姉ちゃんが獣医を目指したからだよ」
「……え。そうなの?」
「うん」
ちょっとだけ驚いた。
コンコン。
ノックの音が聞こえ、私達はドアの方向を見る。
「未桜、お母さんに連絡したいからスマホ貸してー」
「お姉ちゃん……」
私はリュックの中から、スマホを取り出し、お姉ちゃんに渡した。
「ありがと。すぐ返す」
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
出て行こうとドアノブに手をかけた姉がこちらを振り向いた。
「お姉ちゃんは、なんで獣医になろうと思ったの?」
「………それ、今知りたい?」
姉が私を睨みつける。
「そ、それは……」
「全く……そんなの聞くぐらいだったら、自分の将来の夢くらいさっさと見つけなさいよ」
嫌味ったらしくそう言うと、部屋を出て行った。
「はあ?何あれ?教えてくれてもいいのに!」
「まあまあ、うちのお姉ちゃんもあんな感じだから」
日向佳ちゃんは困り顔で私の方を見てきた。
「姉妹ってこんなもんだよね」
私は、日向佳ちゃんの方を見て言った。
「うん。ほら、早く仕事しよ」
「あ、そうだね」
私達は腕まくりをすると、おたがい隣り合って作業を開始した。
「私は、昨日お姉ちゃんと喧嘩したばっかりだよ。だから今日朝から一度も話してない」
淡々と作業を続ける中で、日向佳ちゃんが突然口を開いた。
私は彼女の方に耳を傾けながら、視線は水道に集中させていた。
「そうなの?」
「うん。でも不思議だよね、気が付いたら、気になってないの。仲直りしてると言ったらおかしいのかもしれないけど、でも気づけば、元に戻ってる」
「……確かに。あれ何でなの?」
私も似たようなことがある。
「まあ、毎日喧嘩してるようなもんだからかな。友達とは違う。家族だから、無視したままってわけにもいかないし」
毎日喧嘩してるようなもん……確かに言われてみればそうなのか。お互いに暴言を吐きまくって、存在が当たり前みたいな気持ちになってるから、気が付かないのか。
友達は喧嘩すると気まずくなるけど、家族は慣れっこだから、気まずくならないし……。
「……うーん。確かに……」
兄弟、と言えば、伊涼にもあの兄がいた。二人が喧嘩をしているイメージはあまり湧かないが……。そういえば、保育園の時、二人が物凄い喧嘩をしていたのを覚えている。
園内にあったおもちゃを投げ合い、走り回り……結局先生に怒られてたっけ。
私達は下の方だから一生理解できないだろうけど、上の方はどう思ってるんだろう。
姉たちは私達の事を、どういう風に見ているんだろう。
秒針の刻む音に導かれ、時計に視線を移す。時計は七時三〇分を指している。
「……もうこんな時間」
「弥生、眼の下のクマ酷いよ。ちゃんと寝た?」
「うん……まあ」
未桜の姉――瑠奈は、うつろな表情で医療器具を引っ張り出していた。
「無理するもんじゃないよ。気持ちは分かるけど、未桜ちゃんが心配するでしょ?」
「あの子が私の心配すると思う?きっと今頃、日向佳ちゃんと私達の愚痴言ってるよ」
「……ああ、まあそれはあるかもしれないけど……」
日向佳の姉――楓花は、妹によく似た困り顔を瑠奈に向けた。
「だいたい、アンタ昨日何時に寝たの?」
「夜中の、三時……とか」
瑠奈がそう言うと、楓花が朝の瑠奈のため息と同じようなため息を吐いた。
「……もう。倒れても知らないからね」
「……大丈夫だよ。ちょっとお母さんに電話してくる」
「……ったくもう」
瑠奈が部屋を去るのを見届けると、すぐに検査の準備を進めた。
「……姉だからって……命を扱う仕事だからって……無理しなくてもいいのに」
楓花は独り言を呟いた。
しばらく時間が経つと、未桜が部屋へ戻ってきた。
「…ただいま、鈴本……」
「おかえり、弥生……マジで、大丈――」
大丈夫?と言いかけたとき、瑠奈がバランスを崩した。
「うっ……」
「弥生!?」
瑠奈の視界は暗転した。
おたがいの姉の話で話が盛り上がっていた時、日向佳ちゃんから突然話題を振られた。
「未桜ちゃんは好きな人いるの?」
「え!?ああ……ええと……」
「私いるよ。卓球部に」
「え!卓球部?」
意外だった、野球部とか、サッカー部が好きそうなイメージがあったのに。
「うん。優しいから」
「ああ、やっぱそうなんだね」
普段から穏やかな日向佳ちゃんは、同じく穏やかで優しそうな人が好きそうだ。
「その人も、将来の夢、獣医なんだって」
「え?どうして?」
「理由を聞いたら、『自分の手でより多くの動物を助けたい』って、優しいよね」
「うわっいいなあ」
そう語っている日向佳ちゃんの顔は嬉しそうで、頬が紅潮していた。
二人で楽しく談笑していた時だった。ドアの方から突然、コンコンとノックする音が聞こえた。
私は姉だと思い、ドアを開けた。
しかしそこに居たのは、姉ではなく、日向佳ちゃんのお姉ちゃんだった。
「あ、未桜ちゃん。実は、弥生――瑠奈が倒れて」
彼女が私の姉を、苗字ではなく下の名前で呼んだのは、高校の卒業式以来だった。
倒れたという単語を聞いた時、さほど驚きはしなかった。普段から目のクマがひどかったから、そりゃ倒れるだろうなとしか、思わなかった。
「院長が言うには、過労らしいからね。あたしが家まで車で送る。ちょっと準備するから向こうの部屋で待ってて」
彼女はそう言うと部屋のドアを静かに閉じた。
「倒れたって……大丈夫なの?」
「うん。最近しんどそうだったからね。仕事が忙しかったんでしょ」
私は冷静に日向佳ちゃんにそう言った。
「短かったけど、楽しかった。ありがとう。バイバイ。また学校で」
私は小さく手を振りリュックを背負い、足早に部屋を出て行った。
「えっ?ああ、バイバイ」
日向佳ちゃんも少し戸惑っていた様子だったが、しばらくするとすぐ手を振り返してくれた。
車に乗ってしばらく日向佳ちゃんの姉から返してもらって自分のスマホをいじっていた。
しばらくして、車のドアが開き、運転席にお姉さんが乗った。
「よし、じゃあ、行こうか」
そう言って、エンジンをかけると、すぐに車を走らせた。
お姉さんが車を運転している間は、姉とは違い、少し雑だった。
「未桜ちゃんはさ、瑠奈の事どう思ってんの?」
「えっ?ああまあ……普通にめっちゃ喧嘩するし、仲良くないと思いますよ。きっと姉も私の事、どうとも思ってないです」
「……そう」
斜め下から見た彼女の姿は、一瞬だけ姉のように見えた。
「未桜ちゃん、知らないの?」
「何がですか」
だんだん話すのも面倒くさくなって適当に返す。お姉さんは話を続けた。
「未桜ちゃんの名前、瑠奈がつけたんだよ」
「……そんな話聞いたことないです」
私は窓の外を見た。朝は曇りだったのに、もう晴れている。
「まだ桜の咲いてない日に生まれたから、『未桜』って言うんだってさ。高校の時にさあ、ずっと自慢してきたんだよ?」
お姉さんの言葉に少し驚いた。
……自慢していた……?普段の姉からは想像できない。
「君は、妹とか弟が居ないから、分からないだろうけどね、姉や兄からしたら、腹立つところもあるけど、大事なんだよ。死にそうになってたら助けるね」
「そう……ですか」
私は、お姉さんを横目にスマホの画面を覗いた。
「親が生きててよかったね。親がいなかったら、今頃瑠奈は死んでるよ。自分の限界を知らないからね」
なんだか申し訳なくなってきた。姉がしんどそうにしていることに対して何も思わなかった。
「あの……――」
何か聞こうとして口を開いたが、言葉が出てこない。
車はちょうど赤信号で止まった。
「――なんで姉は獣医を目指したんですか」
「……ん、ああねえ――」
お姉さんは口を開いた。
「――未桜ちゃんが生まれる前も、あの人、動物が好きでね。特に猫が」
姉は今も猫が好きだ。それは知ってる。
「これは中学校の時、瑠奈から聞いた話なんだけど――」
瑠奈が当時十歳の時。
ある日、六月ごろ。雨が降っている日だった。
その日の下校時、瑠奈は当時の友人たちと肩を並べ、帰っていた。
すると、通り過ぎようとした分かれ道のところで、ニャーンと細い、猫の泣き声が聞こえた。
「今の聞こえた?」
「うん。聞こえた」
「そこじゃない?」
友人の指さす方向を見ると、濡れて痩せている白黒の猫が一匹いた。
「……可愛い」
「この子野良じゃない?餌食べてないんじゃ?」
一人がそう言うと、全員が首を横に振った。
「……いや、私のうちは無理だよ!」
「うちも犬買ってるから」
皆がそんな話をする中、瑠奈はその猫を抱き上げ、公園の屋根のついたベンチの上に移動させた。
「水と、学校で残したパンあげる」
瑠奈はそう言ってランドセルを開く。
「砂場から器みたいなおもちゃ無い?」
「ちょっと見てくる」
友人はすぐ砂場から赤いお皿を持ってきた。
砂場に置いてけぼりにされたおもちゃのお皿に水筒の水を入れ、水でパンを濡らし、猫に食べさせた。
「……ねえ、この子私達で飼おうよ。外で」
「えっ……餌どうするの?」
「私いつもパン残すから、それあげればいいし、お小遣いが溜まったら、皆でペットショップで買いに行こうよ」
友人たちは首を縦に振った。
「じゃあ、名前決めないと。なんて名前が良い?」
瑠奈が聞くと、一人が手を挙げる。
「はい!白黒だから、パンダとか」
「いや、種類変わってんじゃん」
別の友人が手を挙げる。
「目が黄色だからイエローは?」
「芽瑠も、紬もセンス無いねえ」
さっきツッコミを入れた友人が再び口を開く。
「そう言う、紗枝は?」
「ほら、その……雨の日に見つけたから……とか」
「思いついてないじゃん!」
「……だって……」
友人たちが喧嘩するのを尻目に、瑠奈が突然大声を上げた。
「ジウは?」
「ジウ?何それ?」
「あの……恵みの雨的な?めっちゃ可愛いもん、この子。学校帰りに癒されるし……今日雨だし……」
すると瑠奈以外の友人は顔を合わせて言った。
「良いねえ!瑠奈センスある!」
「ジウっていいなあ。可愛い」
「うん。可愛い」
「アハハ……」
雨の中、瑠奈たちの笑い声と、一匹の猫の泣き声が響いた。
それから毎日、全員帰り道に公園に集まった。
「ジウー」
「ジウちゃんー」
「あ、そういえば、ジウって、女の子?男の子?」
「えー?女の子だと思うけどな~」
「男の子かもしれないよ~?ほら、目元が綺麗だし」
瑠奈はジウを抱っこすると、お皿の近くで放した。
友人の一人がお皿に餌を入れると、ジウはすぐに餌を食べ始めた。
勢いがすごくて皿の周りに餌が飛び散る。
「ねえやっぱ男じゃない?このがっつき方」
「確かに」
餌を食べ終わると、ジウは瑠奈に飛びついた。
「良いなあ瑠奈は懐かれているから」
友人がそう言うと、ジウはニャーンと鳴いた。
「おお、あたしが撫ででやる」
別の友人はそう言い、ジウの頭に手を置こうとしたが、シャーッと一鳴きし、すぐ噛みついてしまった。
「いった……もう!」
そんな感じの会話を毎日帰りにしていた。
しかしある日の事、いつものように全員が公園に行った。しかし、ジウの姿が見当たらない。
「ジウ?」
「もう……どこに行ったの?」
全員がジウの名前を叫んでいる中、一人が小さく呟いた。
「……いた」
その声を聞き取った瑠奈はすぐ彼女のところに行った。
「紗枝?どこにいた――」
瑠奈が彼女の向いている方向を見ると、そこにはボロボロになったジウが寝転がっていた。
「――えっ……?ジウ?なんで?」
「……ここ、うちの学校の男子の登校班の集合場所でしょ?そこで、男子にいたずらでもされたのか……もしくは、遊び半分で罠でも仕掛けられたか……」
「……そんな……」
「瑠奈、とりあえず動物病院連れてこ。今行けば、助かるかも」
「うん……」
瑠奈はジウを抱き上げ、かなり遠い動物病院まで走った。
ウィーンと自動ドアが開くと、瑠奈は走って受付まで行った。
「この子、助けてください!なんか怪我してるんです!」
「えっ?とりあえず、診察室へ……」
受付の人が足早に案内してくれた。
診察室の中で、台の上に載せられぐったりしているジウの姿は、最初に見たときより酷かった。
「ああ……人間がやってるねこれは、他の猫がやってたら、こんな重症にはならないよ」
獣医さんの言葉に全員が絶句する。
「……ヤバいんじゃない?」
「え、これ死ぬ?」
「あの……助かるんですか?」
瑠奈が聞くと、獣医は残酷な口を開いた。
「頑張るけど、助からないと思った方がいい」
「……そんな……」
瑠奈はその場に崩れ落ちた。まるで膝が砕けたみたいだった。
「瑠奈ぁ……」
力が抜けたみたいに他の友人が瑠奈の背中をさする。
「マジで、無理なの?助けられないの?」
「できないことはないけど……もう瀕死の状態だ……ここで治療しても……」
「無理だよ、紗枝……」
「……ッチ」
友人が舌打ちをする。
結局、ジウは助からなかった。
「……」
次の日、いつものように全員で学校から帰っていた。しかし、その様子は明らか、いつも通りではなかった。
「……私、獣医になろうかな」
「いきなり何?」
「私が大人だったら、獣医だったら、助けられたかもしれない」
「……うん、そうだね……」
公園の横を通った時、アハハ!と男子の声が聞こえる。
「……あいつらが?」
「ちょっとあたし、なんか言ってくる」
「待って紗枝!証拠もないのに」
「……でも……!」
友人は足を止めた。
「……ごめん」
話したのはそれきりだった。
「――ってのが理由。瑠奈に『重いし、絶対嘘だと思われるから、黙ってて』って言われたんだけどねえ」
お姉さんは話し終えた後、大きくため息を吐いた。
正直、信じられない理由だった。姉が私に話さない理由は納得できる。実際、姉の口から直接言われたら、信じられないだろう。
「さっきの話、中学の頃、泣きながら言われてさ。もう、こういうところがあるから、あんまり無理するなって言ってるのに」
私は何と言えば良いのか分からず、口を噤んだまま、助手席から窓の外を見ていた。
「未桜ちゃんは、その次の年の三月の六日に生まれたんだよね」
「……えっ。なんで私の誕生日を」
驚いて、思わず聞いてしまう。
「瑠奈が毎年三月になると言うの。『もうすぐ妹の誕生日だから、早く帰る』って」
「……あ」
気が付いた。毎年三月はいつもより早く帰って来るんだ。
気にしても無かったが、まさか自分のためだとは思わなかった。
「未桜ちゃん、プレゼント貰ったことないでしょ?あの人、ツンデレ気質だからねえ、それでいて頑固だから、なおさら厄介なんだよー」
私はだんだん体の体温が上がっているのが分かった。
「この辺で良い?」
また赤信号のところに来た時、お姉さんは言った。私は「はい」と言って、ドアを開けた。
「ありがとうございました」
そう言うと、私はドアを閉めた。
その日の夜、姉はいつもより早く帰ってきた。
「おかえり」
母の声が聞こえる。
「早いじゃないか」
「彼氏に送ってもらった」
父の質問に姉がすぐ返す。
「お姉ちゃん」
自分の寝室に入ろうとする姉にそう呼びかける。
「……何?」
「……あの……」
言葉が出てこない。気恥ずかしくて、言葉が詰まる。
「……あ、ありがとう」
「え?」
「い、いつも、ありがとう……」
私はそれだけ言って、部屋へ戻った。
「……」
部屋のドアを閉じると、私は椅子に座った。
兄弟姉妹は、自分たちでは似てないと思うが、他人や、他の家族から見ればよく似ているらしい。
私は今日、姉と初めて似たところを発見した。
ちょっと恥ずかしくて、言うのに無駄に緊張してしまった。
* * *
月曜日。学校に行くと、クラスの男子が盛り上がっていた。
「夏向、誕生日おめでとう!」
水無月の机の周りを大量の男子が囲んでいた。背の高い男子の後ろで背の小さい男子が、ジャンプしている。
「あ、ああ。ありがとう」
「うぇーい!これ俺からプレゼント」
「……消しカスじゃねえか!」
「捨てといて~」
「おいこら湊!」
水無月は消しカスを友達に投げつけて追いかける。
その様子を背の小さい男子が高い男子の背中にのぼり見ている。
「おお、怒った怒った」
「普段怒らねえのに」
「誕生日だからテンション上がってるんだろ?」
私は、その様子を気にせず、机にかばんを置く。
「未桜!おはよ」
立華が私の机に来て話しかける。
「土曜日、夏向誕生日だったらしいよ」
「ああ、知ってる。伊涼が言ってた」
「え、なんで?」
私は、水無月の方を見ながら、「なんか買えばよかったかな……」と小さく呟いた。
「ん?好き?」
「へ?」
「好きなの?」
「……誰が?」
「未桜が」
「誰を?」
「夏向」
立華に聞かれて、私は俯いて「別に……」というと立華は、途端に笑顔になり「へえ、好きなんだね」と言ってきた。
「い、いや、違……」
「なんで好きなの?」
強引に話を進める立華に、私は根負けし、ため息をついて口を開いた。
「まあ、優しいからね」
「おお……確かに、未桜センスあるわ」
立華は笑って、水無月の方を見ていた。
「……あ。弥生」
水無月が私の苗字を呼ぶ。
「ああ水無月、おめでと」
「ありがと。写真どんくらい撮った?」
「いや、土日は撮ってない」
「ええ……」
水無月は残念そうな顔をして去って行った。
「写真って何?」
「水無月に頼まれたの。部活の写真を撮ってほしいって」
「なんで?」
「他の人が頑張ってるのを見ると、自分も頑張れるからって」
私がそう言うと、立華は言った。
「なるほどねえ」
立華はそう言って、再び水無月の方を見た。
「なあなあ、今度俺がワックス買ってやる」
「校則違反だろ?」
「いや、サッカー部はみんなつけてるぜ」
クラスメイトのサッカー部員が水無月に言う。夏向は呆れて言い返す。
「お前らサッカー部は校則違反しすぎなんだよ」
「はあ!?それを言うならテニス部だって、部内恋愛禁止なのに、してたりするだろ?」
「いや、俺はしてないしー」
二人の間に、クラスで一番背の高いバスケ部が入る。
「まあまあ、テニス部は部内からしかモテないからだろ?その点俺たちバスケ部とサッカー部は結構モテるからな」
「バスケ部だって校則違反してるだろ」
「し、してないし……」
「おかしいよなあ……なんでお前らみたいに校則違反してる奴がモテて、俺たちみたいな守ってる奴らがモテないんだよ……」
水無月が肩を落として言うと、一瞬私の方を見てきた。
バチっと目が合い、思わず逸らす。
「……まあ、一人の人に好かれるのも、悪い気はしないけど」
「お?」
「んん?お前、彼女出来た?」
「いや?俺に一生彼女なんてできない」
「いや無い。それは無いよ」
男子二人が水無月の背中をさする。
「一人の人、ねえ……」
「……」
私は立華から顔を逸らす。
「まさか……」
「いや、無い。絶対無い」
私はきっぱりそう言って鞄を後ろの棚にしまいに行った。
「弥生」
「は、はい!」
驚きすぎて、なぜか敬語で返事してしまった。
「ん?あっ、ええと……」
「……何?」
水無月が私の方を不思議そうな顔で見つめてくるので、わざと不機嫌そうな顔を作り、そっけなく言った。
「今日は、文化部見に行ってよ。俺の従姉、美術部で部長やってんだけどさ。美術部はさ~邪魔されたら怒るから、先に言っとかないと……」
え?邪魔されたら怒る?まさか……。
「その人って髪が短いの?」
「うん。男か女か分からない。知らない人と話すときは、自分の事『自分』って言うけど、知ると『僕』って言うんだよ。変わってるから、結構有名だと思うけど」
間違いない。前にサッカー部の写真を撮りに行ったときに会った人だ。
「ああ~……私その人苦手なんだよねえ……」
「ええ?なんで?」
「前に話した時、『邪魔になるからさっさと帰って』って」
「ああ。アイツ、言い方きついからあれだけど、それ、あんま怒ってないよ。怒ってる時は、めっちゃ睨んで、声が低くなるから」
「ああそう」
そう言われたが、それでも苦手意識は拭えなかった。
「ごめんな。嫌ならキャンセルするよ」
「いや、大丈夫。私の都合だし」
私はそう言って自分の席に戻った。
正直、かなり憂鬱だ。
どうしよう。美術部は他の部活より終わるのが早いから、先に行かないといけない。
しんどいなあ。
いやそもそも、あんなきつい言い方するからでしょ?もー。
放課後。心の中でぶつぶつ文句を言いながら美術室の前まで来てしまった。
大きく息を吸うと、ゆっくり二回ノックした。
「し、失礼します」
「……ん?おお、この前の。夏向が言ってたのはお前か」
大きいカラフルなキャンバスの前に座っていたのは紛れも無く、〝彼〟だった。
「……はい。この前はすみませんでした」
「いや、怒ってなかったから。僕も言い方きつかったよな。気を付けるよ」
意外な言葉だった。以前の印象からかなり変わった。
「そういえば、僕、よく勘違いされるから言っとくけど、僕、女だよ」
「え、えええええええええ!?」
思わず大声を上げる。
「まあ、仕方ないよな。この見た目だし。……昔からなんだよ、でも性別に違和感が有ったりするわけじゃないんだ。ただ普通に、僕って言ってるだけだよ」
彼女は再びキャンバスに筆を乗せる。
彼女は窓の外を見ながら、筆を進める。
何を、描いてるんだろう。
キャンバスからは正解が分からない。でも間違いなく、何か特定の人や物を描いているんだろうと思うけど。
私はキャンバスの向こう側にある窓から外を覗いた。夕方で空がオレンジ色に染まっている。
「おい。見えないだろ。どいてくれ」
「あ、ごめん」
少しきつかったがそれでもいやな気はしなかった。
私は邪魔にならない程度に外を覗いた。
サッカー部がグラウンドで練習している。
「……サッカー部?」
私がそう言うと、彼女は手を止めた。
「……ちょっと、休憩にしようか」
彼女は筆をおくと伸びをした。
「そういや、名前言ってなかったな。僕は神無月夕(かんなづきゆう)。君は?」
「私は、弥生未桜」
彼女は準備室から椅子を持ってくると、自分の向かい側に座らせた。
「お前は、写真部だよな」
「うん」
彼女は少し重そうに口を開いた。
「お前って、写真と絵の違い、分かるか」
「い、いや……」
難しい質問だ。
「人が、手で時間をかけているか、とか……」
「お前は、そう思うんだな。僕は違う」
自分で言っておいてあまりしっくりこない理由だった。
「この世界はな、見え方が人の数だけあるんだ。例えば、あの椅子だったら、茶色に見える人もいれば、別の色に見える人もいる」
難しすぎて私にはよくわからない。
「……写真は、真実を映す。でも、絵は、心を映す。絵はその人に見えるまま映してる。絵は、その人の見える世界なんだ。今、僕には、窓から見えるサッカー部があんな風に見えている」
「……」
気が付いたら口が開きっぱなしだった。
「その人の目を覗けば、どんな世界を見てるか分かる。君は、この世界が、まるで毎日春みたいに見えているでしょ?」
「……え?いやそんなこと……」
「こういうのは、生まれつきだから、慣れてしまえば、それが普通になる。僕は生まれたときから世界がこんな風に見えていた」
夕は後ろの黒板に立てかけている大量のカラフルなキャンバスを指さした。
「面白いだろ?」
「……確かに」
少し、口角が上がった。
「なあ、お前、恋してるな」
「な、なななんで?」
いきなりで、戸惑いすぎて、焦ってしまう。
「目を見れば分かる。僕もそうだが、恋をすると、目の色が変わるんだ」
「占い師か、何かですか?」
私は冗談っぽく笑って言う。夕は何も言わず、窓の外を見た。
「僕ね、何考えてるか分からない人が好きなんだ。たまにいるんだよ。目が真っ黒すぎて、どんなふうに見えてるか分からない人。そう言う人僕、大好きなんだ」
そう言う夕の顔は紅潮していた。
「……サッカー部?」
「そうだねえ……ただ言えるのは、君たちが思うほど、彼はかっこよくないよ」
「……かっこよくないのに好きなるの?」
分からなかった。サッカー部は皆がキラキラしているように見えるから。……これも世界の見え方の違いだろうか。
「僕から見れば、変わってる人なんだ。でも、誰より優しくて、かっこよくて、でも誰よりも弱いんだよ。サッカーは上手いけど。男らしいのに、なんか、守りたくなるんだ。僕は、本当に……すぐにそんな人を好きになるよな」
夕はキャンバスに置いた筆を手に取り、絵を描く。
私もカメラを取り出す。
最初に筆につけた色は黄色。彼女に見えた色はその色だ。
外のサッカー部を見る彼女の表情を一つも見逃さず写真に残す。
忘れないよう、夏向に〝真実〟を伝えられるよう、しっかり彼女の後姿を目に焼き付ける。
適当に描かれたようなのに、じっと見ていると、サッカー部員が見えるみたいだ。とても面白い。
「終わった。お前は撮れた?」
「うん」
「じゃあ、僕帰るよ」
「うん、私も」
「お前、頑張れよ。なんか、誰が好きなのか、何となく分かった」
「……」
そう言って去る彼女の顔は、夏向に似てるようで、夏向よりイケメンだった。
部室に戻り、少し後輩と話したから夕より遅れて、門に行く。
学校の外はもう暗く、他の部活の部員も全員帰っていたみたいだ。遅かったのはどうやら写真部だけのようだ。
靴箱でちょうど文月を見つけた。
「文月!」
「わっ……弥生」
「一緒に帰ろうよ」
文月の肩を掴んで言うと、文月は、なぜか顔を赤らめ、「良いのか?」と言った。
「……うん?良いけど……」
「……あ!い、今のは……違う……」
突然私から離れ、文月の顔はさらに赤くなっていた。
「文月って、写真と絵の違いって知ってる?」
「……」
「文月?おーい?文月!」
「――あ。ごめんぼーっとしてた」
なんか様子がおかしかった。
「顔赤いけど、熱あるの?」
「……いや。全然、そんなことない」
しばらく沈黙が続き、耐えきれず、文月が口を開く。
「あ、あのさ、弥生」
「ん?」
「あの……好きです」
「え?」
「好きです。付き合ってほしいです」
「……え?嘘でしょ?」
私がそう言うと、彼は「本当です」と丁寧に言った。
もうすっかり暗くなり、車のライトがまるで、おしゃれな夜景のようでロマンチックだった。
叫ばせろ 雪葉 @yukiha1225_2008
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