シスターと海

シスターと海


「私、海が好きなんです」


 彼女は海を見つめながらそうつぶやいた。


 明るい日差しが海を撫でている。撫でた拍子に喜ぶように瀬をたたせて波を帯びる。光が揺らめくその光景は、どことなく幻想的にも思えて、それはひどく綺麗なものであると視界に映りこんだ。


「ほら、ここまで綺麗なんです。流石にあなたでも、綺麗さには心が表れる様でしょう?」


「……ああ、そうかもしれない」


 俺は彼女に対してそうつぶやいた。特に意思を介在させず、ただ無感情に。


 その光景を見て彼女は笑う。それに満足したのかどうかはわからない。ただ、少し諦めたような苦笑だと捉えたのは、気のせいではないだろう。





 彼女と出会ったのは十字架の宿の中だった。ひどく寂れた風景をしている教会の中で、彼女は十字架に対して祈りをささげている。それを信仰深いと言ってしまえばそれまでではあるだろうが、ひどくそれは義務的に見えた。特に神に対して祈りをささげるというよりかは、単純にそうしなければいけないからそうした、というだけに過ぎなかったのかもしれない。彼女の心情については察することができないから、ここまでのそれはすべて憶測だった。


 どこか、彼女と俺は似ているのだと思った。釈然としないままに生きる自分と、義務的にそうしている彼女。それのどこかに惹かれてしまったのだと思う。普段ならしないはずであろう声かけを彼女に行ってしまったのだから。


「なあ」


 特に思い当たる声かけも思いつかなかった。だから、その二文字に適当な希望を抱いてみる。


 彼女はその声に反応してゆっくりと振り向いた。頭髪については見えない。シスターのフードを被っていて、額からの顔しか見えないからだ。くりっとこぼれそうなほどに大きな目、つつましやかに存在する唇。すべてがどこか妖艶だ。


「なんでしょう? 私に何か御用がおありで?」


「ああ、そうだ。適当にナンパというものをしようと思ったんだ」


「適当というのが不服ですが、なるほど。面白いですね」


 彼女はそうして笑ったけれど、やはりそれもどこか義務的だ。人間ならそう反応するべきだから、そうしているのだと、彼女は答えるように見えた。


「それで、ナンパというからには私をどこかに連れ出してくれるのでしょう?」


「ああ、適当にお茶でもしようじゃないか」


 それをきっかけにして、彼女との義務的な交友は始まったのだ。





 彼女は珈琲が好きではなかった。


 苦味を楽しめばいい、と俺はそう口を添えたが、彼女はそもそも苦味が苦手なのだと俺に答えた。それならば甘味を混ぜればマシにはなるだろう、と返すと、単純に珈琲が嫌いなのだとそう返された。最初からそういえば、面倒な会話をしなくて済んだだろうに、俺の嗜好を探るように、会話は繰り返された。


 彼女はお茶が好きだった。ジャスミンの匂いがするジャスミンティー、もしくは単純な紅茶。お茶にも苦味があるだろうに、とそう言葉をかけそうになったが、彼女は単純に珈琲が嫌いだ、と答えたばかりだった。そう言葉を呟けば、俺は彼女の話を聞いていないことになる。だから、俺は考えていても特に言葉を紡ぐことはなかった。


「なんで声をかけてくれたんですか?」


 彼女は満面の笑みで答えた。その理由に答えることは容易だ。自分自身と似ていると感じたから、そう答えてしまえばそれでいい。


 だが、そう答えることはどこか背徳的だ。彼女の裏側にある感情を曝け出す行為だ。


 彼女はそう振舞っているけれど、それを指摘するような行為は憚るべきだとそう考えて、適当に「顔」と答えた。


 彼女はそれに対して笑った。


「私、あなたに振り向いたことなんてないのに」


 確かにそうである。彼女は十字架に対して祈るふりをしていた。ふりではあっても、俺を視界に入れることはないだろう。それは俺が彼女の顔を見ることができなかったということも言えてしまう。明らかな嘘。それを彼女は楽しむように笑った。


 それこそ、本当の顔で。


「そんな風に笑うことができるんだな」


「私はいつも笑っているでしょうに」


 彼女は笑顔を崩さなかった。だからこそ、その表情が意外だったのだけれど。





 好きなものの話になった。彼女に好きなものは何か、と聞かれて、どう返すべきなのかを考えている間に、沈黙は重く続いたような気がする。


「──ないんですね」


 彼女は悟って、そう笑う。俺は彼女に声を返すことはできなかった。





「好きなものがない、というのはひどく人間性から外れていると思うんです」


 彼女は言葉を紡いだ。


「好きなものは、欲望ということも言い換えることができます。欲望がない人間というのは、ひどく死んでいると感じるのは私の感受性のせいなのでしょうか」


「さあ?」


 でも、妥当な考えだと、俺は心の片隅で肯定した。


「あなた、死んでるんですね」


「失礼だな、俺はここにいるだろうに」


「わかっててそう返すのだから、確信犯ですよ」


「お前が使っている確信犯という言葉は誤用だ」


「それを踏まえたうえでも、あなたは確信犯でしょう」


 それはそうだ、と思った。


「なら、お前に欲望はあるのか?」


「ええ、ありますとも。富欲、性欲、名誉欲、それぞれありますよ」


「シスターとは思えないな」


「シスターが機械だとでも?」


「お前はそうだろうに」


 彼女は、哂った。





「それなら答えてみろよ。お前の好きなもの。紅茶という答えは駄目だ。俺が珈琲とは答えなかったのだから」


「別にいいですよ。でも、聞いたらあなたは笑うと思いますよ」


「流石にそんな失礼なことはしない」


 本心だ。彼女に好きなもの、すなわち欲望があるというのならば面白い。俺もそれを参考にすれば、なにか収穫になるかもしれない。


「なら、伝えましょう。私が好きなものは──」


 そうして彼女が伝えた言葉。


「──海です」


 ──俺は笑ってしまった。





「ほら、やはり笑うと思ってました。あなたはそういう人間性ですものね」


「先ほど出会ったばかりの人間に人間性も何もないだろうに」


「いいえ、あなたはそういう人間性ですよ。どこか目が腐っています」


「失礼が過ぎるぞ」


「これでおあいこです」


 



 そうして、喫茶店から俺と彼女は離れる。近場に海があるから、適当にその海でも眺めよう、という段取りになった。シスターのしごとはだいじょうぶなのか、と彼女に問いかけたら、どうでもいいものです、とそう返された。せめて何か言い訳をすればいいだろうに、彼女はだんだんと本性を晒すように、素の声音でそう答えた。


「そっちの方がいいんじゃないか?」


「さて? 何のことでしょうか?」


 彼女はとぼけるふりをした。あからさまだ。


「……そろそろですね」


 その声を合図としたように、拓ける視界。


 そうしてそこにあった景色は、──当たり前だが海だった。





「私、海が好きなんです」


 改めて俺に確認するように彼女は呟いた。


 その声音は、──本心だとそう捉えることができる。彼女の視線は海におぼれている。恋をしているかのように、視線が波に攫われている。


「ほら、ここまで綺麗なんです。流石にあなたでも、綺麗さには心が表れる様でしょう?」


「……ああ、そうかもしれない」


 適当な返事しかできない俺を、彼女は笑う。それはどこか俺の存在を肯定してくれるようだ。


「海はすべてを許してくれます。あなたの罪も、すべてを海は許してくれるのです」


「お前、シスターみたいだな」


「私、シスターですから」


 彼女はそうして笑った。つられるように、俺も笑うしかなかった。

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シスターと海 @Hisagi1037

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