作中の『私』とは異なり、わたしの憧れる天才は、天才のままだ。
まんが家も小説家も音楽家もそこには含まれる。
大人になると、かつての憧れの存在は色を失うという説もあるが、幸か不幸かそんなことは一度もなかった。
今も昔も遠く仰ぐような人たちだ。
届かぬ目標があること、これは倖せなことである。
有名も無名もいる。全てが傑出した作品でもなく、全てがお気に入りでもないのだが、それでも秀作揃いだ。
若くして活動を止めた人もいれば、高齢者となった今でも現役で新作を旺盛に出している人もいる。
どんな作品であっても独自のカラーがそこにはあって、ありふれた筋であっても、何かが違う。
その何かが、わたしを惹きつけるのだ。
わたしの憧れる天才たちは、全盛期以外の時期であっても、常に印象的な作品を発表し続けている。「ド下手くそ」と云われるような初期の頃からずっとそうなのだ。
他と何が違うのか。
それは彼らが、かたくなに『自分の殻』に閉じこもっているからだとわたしは想う。
自分の殻に閉じこもるとは否定的な意味合いばかりが強いが、外界の価値観に安易に流されはしないという利点もある。
根がきちんとあり、自身の嗜好に忠実で、揺るがない。
少女漫画史において、SFやBLが何故か大流行した時期があるのだが、その流れの中でもわたしの好きな作家たちは、きちんと中身の詰まったSFやBLを出していた。
自分の書きたいものを、単にSFやBLのかたちで出してきただけに過ぎないようにみえた。
それらの多くは彼女たちの代表作となったり、世代を超えた不朽の名作として殿堂入りしている。
単なる流行とは一線を画し、セリフの一つ、コマの一つの隅々にまでに一本通っていた美学。
『何か似たような思想、思考回路になるようになってきた』
文中のこの言葉はどんな創作者にとっても怖ろしいが、同時に、「いや、もともと最初からずっと同じ思想で書いていますよ」とも云える。
多彩にみえる作品も、随所に「その人らしさ」が無いのならば、人は、特定の作家に魅了されることもない。
天才とは何だろう。
『何か似たような思想、思考回路』
個人の殻の中に、この固有の思想を有すること、それを作品として出力すること。
天才とは、その人そのものであること。
これの反対は、『誰かと似たような思想、思考回路、べつにあなたが書かなくてもいい作品』ということになるだろう。
商業とは相性の悪い作家がいる。
何かが噛み合わず、早々に擦り切れてしまうのだ。
締切と売上に追われ、出版社の注文に追われ、『自分の殻』に閉じこもることが難しくなってしまった時、作家は平凡に堕ちる。
堕ちても実力を蓄えていたら傍目にはそれと分からぬほどには走り、また正道に戻ることが出来るのだが、不幸にして十代でデビューした希根創実は失速に流れた。
自分の殻に閉じこもって思索していたからこそ響いた鮮烈を、失ってしまった。
創作の根源とは、その人自身の思想から生み出されるものだ。
創作者は孤独だとよく云われるが、それは当たり前のことだ。
対岸にある外の世界を横目で常に気にして、そこから新風を摂取しながらも、私たちはどこかで頑固に背を向けている。
たとえ流行のものを書く時にも、流されません、書きたいカラーは棄てることが出来ませんという負け組の『弔旗』を最初から背負っている。
多くの読者は『希根創実』の部分に、消えた天才の名をあてはめて読み、しみじみするのだろうか。
ところが、わたしは本作の希根創実に、奇妙なほどの理解と愛着を覚えている。
創作者の多くは、ああせいこうせいと細かく指示されたり、他人の意見をはじめとする外界に振り回されていると、急速に創作への活力が消えてしまうのだ。
希根創実は十代のうちに派手にデビューして売れっ子になった人が陥る典型的な不幸であり、また、「勉強しなさい」に代表されるような、過剰な干渉や重圧でやる気が消え失せる、その具現化のような存在だからかもしれない。
創作者にとって自分の殻に閉じこもることは不可欠な要素で、それはどんなに外界と交流して新奇なものを採り込んでいたとしても、失ってはならないものなのだろう。