十六 呪い

 秋貴は日向子の姿を見送ることなく、玄関から出て行こうとする藤木に声をかけていた。藤木の傍には捕獲された荒川が引きずられるようにして連行されている。


「荒川さんをどうするのですか?」


 藤木は、「はっ!」と荒く息を。吐き出す


「これから取り調べするんだ。外務卿にも、逃がすなと言われているしな」


 藤木の返答に、秋貴はある提案をする。


「取り調べなら、書籍室でしませんか。あの一件も荒川さんが仕組んだことですので」


 藤木は少し考えて、荒川を連行する巡査に書籍室へ行くよう命令した。秋貴もついていく。書籍室に来ると、藤木、荒川、秋貴だけが入り、巡査に扉の外で見張るように言った。


 藤木はどっかりとデスクの椅子に腰をおろし、荒川は両手を前に縛られた姿で床に座り込んでいる。秋貴はその二人の間に立っていた。


「さあ、説明してもらおうか。あの日起こったことを」


 藤木に促され、しゃべり始めたのは秋貴だった。


「あの日、亡霊役の力士は荒川さんに会いに来たんです。あの日は怪しい人物ばかりが集まってましたからね。怪しまれずにこっそり力士に書籍室で待つように言った」


「亡霊は、力士の仕業だったのか。でも、わざわざ何をしにきたんだ」

 藤木の質問に、秋貴は一言も発さない荒川の肩のあたりに視線を走らせた。


「力士と言うか元力士なんですが、金をせびりに来たんですよ。荒川さんはここでいくらか金をやって、力士を馬鹿にするような侮蔑の言葉を浴びせた。怒った力士は机の上にあったペーパーナイフで背後から切りつけた。あなたも抵抗して力士を突き飛ばしたら、力士は棚板で思い切り頭をぶつけた」


 藤木は壁に設えた、天井まである書棚を見あげた。


「そう言えば、本が床に落ちてたな。でもなんで、頭をぶつけたとわかるんだ」


「棚板から、甘い鬢づけ油の匂いがしたんです」


 日本髪や髷を結う時に、鬢づけ油をたっぷり使うのだ。


「力士はそれ以上暴れずに窓から逃げ出し、開いた窓は荒川さんが閉めた。そして扉をあけてさも亡霊が現れたように装った」


 秋貴は日向子に、鍵が壊れていたと言ったことは嘘だった。


「でもおまえ、荒川は見回りで鉢合わせしただけって考えなかったのか?」


 荒川は館の中を得体の知れない輩が徘徊するから見回りをすると、日向子と秋貴に言っていた。


「たしかに、書籍室には高価なものはありますけど、見回りだけなら短時間。おまけに扉をわざわざ閉めたりしない。あの日、日向子さんが書籍室の廊下の前に立っていて、奥に行く人はいなかったと言っていました」


 日向子は玉突きがしたくて、書籍室の奥にある玉突き場に人が入って行くかどうか見ていた。


「あそこに十五分ほど立っていた。その間あの廊下を通ったものはいない。そんな広くもない書籍室を見まわるのに、二、三分もあれば十分でしょ」


「じゃあ、最初から荒川が怪しいって思ってたのか?」


「そうです」


 秋貴の洞察力に、藤木は舌を巻いたようだ。荒川は口を挟まず、黙って聞いている。その沈黙が、秋貴のいい分は正しいと証明していた。


「僕は、力士の正体を探るため、酒場や置屋でいろいろ話を聞いたんですよ。もちろん荒川さんのことも。そうしたら、芸者さんからおもしろい話を聞きました」


 今まで無表情だった荒川の顔に、さっと緊張が走った。


「あなた、芸者をしていた時分の竹子夫人と恋仲だったそうじゃないですか」


「なんだって? そりゃどういうことだ!」


 あまりのことに、藤木は椅子から立ち上がる。


「ひょっとして、今回の亡霊騒ぎ。国粋主義は建前で、竹子夫人に夜会が中止になるように頼まれたんですか?」


 大人しかった荒川が、突如手負いの野犬のように吠え出した。


「何を言っている。さっき俺は夫人を人質にとったんだぞ!」


「まあ、ああしておけば夫人に疑惑はいきませんよね。そもそも、あんな大立ち回りせずに、僕に見つかった時点で逃げるでしょ。普通は」


「おい、いくらなんでもそれはないだろ。なんで夫人が夜会の中止をのぞむんだ」


 藤木は見るからに興奮にしている荒川と、重大なことを口にしている割に無表情な秋貴の間に割って入った。


「竹子夫人は夜会の騒々しさに毎回頭が割れるように痛み、苦痛だったとか。そんな状況でも、御夫君の横で笑顔を振りまかなければならない。あなたも、かつての恋人……」


 秋貴は、ふふっと笑いをもらす。性別を感じさせない美貌から洩れる笑いは、ぞくりと体の底を凍り付かせるようなものだった。


「いや、今も恋人かもしれない人のそんな姿を見ていて、いたたまれなかったでしょうね。あなたが自分の政治理念にのっとり今回の亡霊騒ぎを計画したにせよ、愛に殉じたにせよ。僕にとってはどうでもいいことです。このままだったら、数年監獄に入ってお終いでしょう」


 ここまで言うと秋貴は、立ち上がった荒川の肩あたりへまたちらりと視線を走らせた。


「でも、それではおさまりがつかない人がいるんですよ」


 秋貴は背後の書棚を振り返り、ちょうど頭のあたりの棚板を長い指で撫でた。


「頭痛と言えば、力士がペーパーナイフを売った質屋で、頭が痛いと言っていたと聞きました。力士はこの棚板に頭をぶつけたことにより、頭の中に血だまりが出来た。強く頭を打つと、打った直後は大丈夫でも、だんだんと頭痛やめまいの症状が出て、死亡することがあるそうです」


「力士が死亡したなんて事件、ここ最近ないぞ」


 藤木は、力士の死亡の可能性を否定した。荒川も馬鹿にしたような声を出す。


「死んでるわけがない。さっき俺は力士を見たんだ。君も見ただろ。あいつはまた、俺に金をせびりにきたに違いない」


 秋貴の、形のよい薄い唇の端がくっと上がる。


「荒川さんが通用門を開けていないのに、どうして力士はここに入り込めたんですか? 今日はことさら厳重な警備が敷かれているのに」


 藤木も荒川も、秋貴の問いに答えることができない。


「力士は死んだんです。そうですよね、大輝だいき


 秋貴が力士の四股名しこなを口にした途端、巨体がぱっと何もなかった空間に現れ出でた。大輝と呼ばれたそれは、びちょびちょに濡れそぼり髷はほどけ青白い顔に張り付いている。


「うわああ!」

 荒川はすぐそばに現れた大輝に悲鳴をあげたが、金縛りにあったように動けない。藤木もまじまじと亡霊の大輝を凝視している。


「おい、悪い冗談だな。この力士は人間で、亡霊の真似をしてただけだろ」


 さすがに藤木は悲鳴をあげるような無様な姿はさらさなかったが、あきらかに動転していた。


「大輝は質屋を後にして、ふらふらと隅田川沿いを歩いていたら頭を打った後遺症でめまいがしてそのまま川に転落。死亡したそうです。今亡骸は、海の底を漂っていると言っています」


「おいおい、本当に霊感があるのかよ。心霊小僧」


 藤木は秋貴がまるで亡霊の言葉を理解しているような口ぶりに、口元をひきつらせ無理やり冗談でこの異常な状況を飲み込もうとしている。


「かわいそうですよね。酒場で声を掛けられなければ、今でも生きていたわけですから。大輝はあなたのせいで死んだと恨んでいます」


「な、何を勝手な。そっちこそ俺に、金をせびらなかったらよかったんだ」


 震える声で荒川が抗議しても秋貴は無視し、藤木を見る。


「藤木さん、このことは黙っておいてくださいね」


 秋貴は藤木にだけ口止めをして、荒川にはしない。代わりにこう言った。


「大輝は、あなたを呪っているのですよ」


 その一言が合図だったように、大輝は太い腕を伸ばし荒川の首を絞め始めた。荒川の体が宙に浮く。顔色はどんどん赤黒く変色し、口から泡を吹き出した。

 藤木は同僚の無残な姿を見過ごせないのか、助けようともがき苦しむ荒川の体に手を伸ばす。


「やめた方がいい。触ったら、あなたに呪いがうつるかもしれない」


 秋貴の制止で、藤木の伸ばした手はとまる。その届かなかった先で、荒川の血走った眼玉がくるんと反転して白目をむく。暴れていた体は脱力してこと切れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る